お元気ですか?
大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。
なにをテーマに書こうかと迷いながら
2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。
2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、
気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。
戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。
通信兵だった父や防空監視隊にいた母から
聞かされた話は、
戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない
という思いを強くさせるものでした。
ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、
国家の理屈で議論が進みます。
同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。
しかし、戦争は、最悪の暴力です。
私は草の根の痛み、
どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で
書いていきたいと思っています。
あまり楽しめないブログかも知れませんが、
お気軽に感想やコメントをお寄せください。
こんな近くでセキレイ ― 2008/02/12
足元にセキレイ、向こうから接近! ― 2008/02/12
背中の羽までよくわかりました、セキレイさん ― 2008/02/12
そして、セキレイさんは去っていきました ― 2008/02/12
ピンクのたんぽぽ??(じゃないのはわかりますが) ― 2008/02/12
沖縄でくりかえされた暴行事件 ― 2008/02/12
1995年の3名の米兵による少女暴行事件
のことを鮮明に覚えています。
沖縄の痛みに真剣に向かい合うきっかけの
事件でした。私が、はじめて、
沖縄の地を踏んだのも、このときでした。
それは、この事件への怒りを共有するため、
そして、沖縄の現実に向き合うためでした。
それから、10年以上がたったのです。
しかし、2008年、ふたたび少女暴行事件が
おきました。
この12年はなんだったのでしょうか。
基地があるゆえの痛みは、私にとって
他人事ではありませんでした。
大津市は、1945年に米軍が進駐しました。
市内の中心部に旧日本陸軍の基地が
あり、そこに米軍は占領軍として
やってきました。
もちろん、私は、そのころは生まれていません。
米軍がきたとき、女性はいっせいに隠れたと
いいます。
米軍は、経済の活性化とジャズなどの文化を
もたらしました。
経済の活性化・・・繁華街の賑わい。
米軍相手の接客をする女性が生まれました。
それらの女性は特別な名前で呼ばれました。
わが家のすぐ近所にその職業に女性が住む
家があり、米兵との混血の子どもと私は友人でした。
わたしが物心がつきはじめたことには、
米軍はすでに引き上げていました。
ですから、米兵が父として、その友人に接する
姿を、あるときまでは、見たことがありません。
その日は突然やってきました。
二階でその子と遊んでいると、下から
あがってくる足音がしました。
見ると巨大な黒人兵でした。
私はあまりのことに仰天。それでも、戦争
直後によくあった話でしょうけれど、
チョコレートをもらいました。
1960年代のことなのに。
その子は、周囲からいじめられ、好奇の目で
みられていたと思います。
あるとき事件が起こりました。
銭湯で、その子がなにを思ったのか、
ションベン小僧そのままのことをしたのです。
いまから考えると、抗議だったのかも
知れません。
私の頭髪のなかには、三角の傷があります。
その傷は、その子が投げた石によって
つけられた唯一の傷です。
私はその子をうらむ気持ちが残っていま
せんから、きっと、私が悪いことをしたのだと
思います。
その子は、やがてハワイに行きました。
米兵が迎えにきてくれたのです。
ほんとうによかったと思いましたが、
さびしく感じました。
米軍がいるということ、そしてこういう事件が
ふたたび起きたということにやりきれなさを
感じます。
1995年の怒り、そして、集団自決問題での
教科書の改変への怒り、辺野古でジュゴンを
守るためにがんばる人たち・・・なんども表明される
怒りや行動が報われる日本を!!
●上の写真は、大津市の御陵団地。
かつて米軍キャンプがあった場所。
居住者でそれを知る人がなんにんいるだろうか。
のことを鮮明に覚えています。
沖縄の痛みに真剣に向かい合うきっかけの
事件でした。私が、はじめて、
沖縄の地を踏んだのも、このときでした。
それは、この事件への怒りを共有するため、
そして、沖縄の現実に向き合うためでした。
それから、10年以上がたったのです。
しかし、2008年、ふたたび少女暴行事件が
おきました。
この12年はなんだったのでしょうか。
基地があるゆえの痛みは、私にとって
他人事ではありませんでした。
大津市は、1945年に米軍が進駐しました。
市内の中心部に旧日本陸軍の基地が
あり、そこに米軍は占領軍として
やってきました。
もちろん、私は、そのころは生まれていません。
米軍がきたとき、女性はいっせいに隠れたと
いいます。
米軍は、経済の活性化とジャズなどの文化を
もたらしました。
経済の活性化・・・繁華街の賑わい。
米軍相手の接客をする女性が生まれました。
それらの女性は特別な名前で呼ばれました。
わが家のすぐ近所にその職業に女性が住む
家があり、米兵との混血の子どもと私は友人でした。
わたしが物心がつきはじめたことには、
米軍はすでに引き上げていました。
ですから、米兵が父として、その友人に接する
姿を、あるときまでは、見たことがありません。
その日は突然やってきました。
二階でその子と遊んでいると、下から
あがってくる足音がしました。
見ると巨大な黒人兵でした。
私はあまりのことに仰天。それでも、戦争
直後によくあった話でしょうけれど、
チョコレートをもらいました。
1960年代のことなのに。
その子は、周囲からいじめられ、好奇の目で
みられていたと思います。
あるとき事件が起こりました。
銭湯で、その子がなにを思ったのか、
ションベン小僧そのままのことをしたのです。
いまから考えると、抗議だったのかも
知れません。
私の頭髪のなかには、三角の傷があります。
その傷は、その子が投げた石によって
つけられた唯一の傷です。
私はその子をうらむ気持ちが残っていま
せんから、きっと、私が悪いことをしたのだと
思います。
その子は、やがてハワイに行きました。
米兵が迎えにきてくれたのです。
ほんとうによかったと思いましたが、
さびしく感じました。
米軍がいるということ、そしてこういう事件が
ふたたび起きたということにやりきれなさを
感じます。
1995年の怒り、そして、集団自決問題での
教科書の改変への怒り、辺野古でジュゴンを
守るためにがんばる人たち・・・なんども表明される
怒りや行動が報われる日本を!!
●上の写真は、大津市の御陵団地。
かつて米軍キャンプがあった場所。
居住者でそれを知る人がなんにんいるだろうか。
米原万里 『嘘つきアーニャの真っ赤な真実』(角川文庫) ― 2008/02/12
故米原万里の『嘘つきアーニャの真っ赤な真実』(2001年)をはじめて読みきりました。
BS放送で、それとは知らないで、この著者のプラハの友人たち訪問のドキュメントを見ていたことがあり、それ以来の出会いです。
感想がとてもまとまりそうにありません。
それは内容がひどいとかいうのではなく、胸にせまることが多いからです。
ユーゴスラビアとソ連の対立、中ソ論争、部分核停条約をめぐる対立、そしてソ連と東欧の社会主義諸国の崩壊と内戦。これらすべてが1960年代にチェコスロヴァキアのプラハで暮らす子どもたち(国際情報誌『平和と社会主義の諸問題』編集局に集まった各国共産党党幹部の子どもたち=米原万里もその一人)の運命に大きな影響を及ぼしていくのです。 民族を超えて生まれる10代前半の友情やそれに影を落とす国と国との対立、国内やそれぞれの家庭の事情・・・30年のときを隔てての再会、そのドラマがスケールの大きさを生んでいます。
米原万里の筆のさえももちろんです。
生きておられるときに、感想を送れなくて残念です。
BS放送で、それとは知らないで、この著者のプラハの友人たち訪問のドキュメントを見ていたことがあり、それ以来の出会いです。
感想がとてもまとまりそうにありません。
それは内容がひどいとかいうのではなく、胸にせまることが多いからです。
ユーゴスラビアとソ連の対立、中ソ論争、部分核停条約をめぐる対立、そしてソ連と東欧の社会主義諸国の崩壊と内戦。これらすべてが1960年代にチェコスロヴァキアのプラハで暮らす子どもたち(国際情報誌『平和と社会主義の諸問題』編集局に集まった各国共産党党幹部の子どもたち=米原万里もその一人)の運命に大きな影響を及ぼしていくのです。 民族を超えて生まれる10代前半の友情やそれに影を落とす国と国との対立、国内やそれぞれの家庭の事情・・・30年のときを隔てての再会、そのドラマがスケールの大きさを生んでいます。
米原万里の筆のさえももちろんです。
生きておられるときに、感想を送れなくて残念です。
西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。
戦争にかかわる碑
■ 忠魂碑・慰霊碑
○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など
○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)
○ 大津市南部の忠魂碑
民間墓地の戦没者○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。
□ 滋賀県の西南戦争の戦没者
□ 高島市(高島郡)の戦没者
■ 西南戦争(西南之役) 1877年
● 戦病死者名簿
*高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)
■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年
,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)
『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。
■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年
● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)
○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿
○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
□ Aブロック 埋葬者名簿
陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある
□ Bブロック 埋葬者名簿
日清戦争期に戦病死した下士官の墓地
□ Cブロック 埋葬者名簿
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Dブロック 埋葬者名簿(作成中)
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Eブロック 埋葬者名簿
■ 大津市作成の名簿順
■ あいうえお順
日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。
□ Fブロック 埋葬者名簿
明治8年から11年までに病死した下士官と
兵卒の墓碑が37基
□ Kブロック 埋葬者名簿
「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
すべて兵卒の墓碑。
□ Lブロック 埋葬者名簿
「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
合計98基。すべて兵卒の墓碑。
□ Mブロック 埋葬者名簿(作成中)
陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)
□ 西南戦争の戦死者
□ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿
□『大津市志』
□ 滋賀郡膳所町
□ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)
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