お元気ですか?

大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。


なにをテーマに書こうかと迷いながら

2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。

2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、

気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。


戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。

通信兵だった父や防空監視隊にいた母から

聞かされた話は、

戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない

という思いを強くさせるものでした。

ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、

国家の理屈で議論が進みます。

同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。

しかし、戦争は、最悪の暴力です。

私は草の根の痛み、

どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で

書いていきたいと思っています。


あまり楽しめないブログかも知れませんが、

お気軽に感想やコメントをお寄せください。


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「縄文杉」に引き寄せられる私たち2008/04/02

縄文杉とわたしたち人間
 3月29日に10時間かけて、屋久島の縄文杉を見てきました。
 「トロッコ道が、8.3キロ。山道が2.7キロ。合計片道11キロ、往復で22キロ、高低差700メートル、日帰り登山としては限界です。」とあるブログに書かれていたコースです。
 29日から30日の日記に、その記録をアップしています。まだ、全部はアップできないでいますので、興味のある方は、「屋久島」カテゴリで時間と日をあけて、チェックしてください。
 リアルタイムの日記にアップする家族の記録とは別に、私が感じたことを書いてみたいと思います。

●巨人の森の王

 縄文杉そのものは、威厳がある木でした。異形といえばいいのでしょうか。その太い幹と人間の顔にも見える形態は、近づくものを威圧します。それは、まさに、巨人ぞろいの森のなかの王にふさわしいものでした。
 私の期待は裏切られませんでした。

●囲われた巨人

 私が興ざめに感じたことは、その巨人が人間の目に容赦なくさらされていることです。
 たしかに、道が整備されたとはいえ、容易に近づくことはできません。往復10時間も歩き詰めて、わずか10数分程度、その周りに立つことができるだけです。
 その意味では、非日常的な遠い存在なのです。
 しかし、心無い人が縄文杉を傷つける事件があったこともあり、周りには、木組みの展望台が設けられています。
 それは、ひどい言い方かも知れませんが、動物園かなにかを連想させます。目的が保護にあったとしても、やはり、自然のたたずまいを傷つけているのは否めません。
 自分も見に行った一人ですから、言う資格がありません。きっとまた会いたい思うことでしょう。
 矛盾したことを言っているのはよくわかりますが、人間の営みから離れて、自然の森に毅然と立っている姿に返してあげたい。動物園のなかのライオンではなく、自然に生きる王としての姿に返してあげたいと思ったのです。

●環境を守り抜く人間社会のなかで

 きっとそれは不可能ではないと思いました。縄文杉だけではなく、屋久島全体が世界自然遺産に登録されたことで、私は、この島の自然への尊敬をもちました。実際にこの島に出会って、その気持ちを強めました。縄文杉が人の目に自分を晒すことで訴えていることがあるとすれば、自然への畏敬の念をもてということでしょう。
 それは衝撃として見た人に伝わります。
 ボールは人間に返されたわけですから、それを受け止め、行動する番ですね。

コメント

_ にゃこりん ― 2008年04月03日 11時44分00秒

そもそも、世界自然遺産=観光地という構図が間違っているとは思いませんか。
自然遺産に登録されるということはおいそれと近づくことはできない、貴重なもののはず。
残念ながら登録された時点から自然は破壊へと加速していきます。
日に何百と言う観光客。
人間だからウンチもおしっこもします。
それを背中に担いで山から下ろしている現実。
持ちつ持たれつの経済効果はわかりますが、
エコを気取る前に、エゴも考えるべきだと思います。
人間が入り込むと言うことはもう本来の自然の姿ではないと言うことです。

_ BIN★→にゃこりんさん ― 2008年04月03日 13時06分15秒

「世界遺産」=観光地に押し寄せた一人として、胸に刺さるつらい言葉です。縄文杉が弱っているということをきくとなおさらです。

_ にゃこりん ― 2008年04月03日 13時51分47秒

縄文杉はもう永遠にもとの姿には戻りません。
木の根元を人が踏み荒らすことで息ができないのです。

縄文杉を守るために建てた見学用のやぐらの下にも犠牲になった杉の赤ちゃんがいたはずです。

自然への尊敬とか畏敬の念とか言いながら我々人間は具体的にどんな行動をおこしているのでしょう。

_ BIN★→にゃこりんさん ― 2008年04月03日 14時23分09秒

 縄文杉の周りは、この杉がよく見えるようにと木が切り倒されたとのことです。これも、人間の都合です。同時に、幹の空洞に水がたまり、朽ちかけていたところを水はけをよくしたとも聞いています。いずれにしても、元の自然の姿にもどることはできないのです。
 おっしゃるように縄文杉が延命したところで、そのために犠牲となった木が多数あるのです。
 具体的な行動・・・残念ながら、私は、まだそれをしていません。
 私が屋久島で見聞きしたことが、行動につながるようにしたいと思います。

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BIN★「この記なんの記」ブログ情報 August 12 , 2011



 西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。

戦争にかかわる碑

  ■ 忠魂碑・慰霊碑

    ○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など

    ○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)

    ○ 大津市南部の忠魂碑

民間墓地の戦没者

 □ 滋賀県の西南戦争の戦没者

 □ 高島市(高島郡)の戦没者

  ■ 西南戦争(西南之役) 1877年

   ● 戦病死者名簿

      *高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)

  ■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年

   ,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)

      『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。

  ■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年

   ● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)

      ○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿

    ○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。

 公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
 □ ブロック 埋葬者名簿

     陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある

 □ ブロック 埋葬者名簿

     日清戦争期に戦病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

  ■ 大津市作成の名簿順

  ■ あいうえお順

     日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治8年から11年までに病死した下士官と
          兵卒の墓碑が37基


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
         すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
          合計98基。すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)

 □ 西南戦争の戦死者

 □ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿

 □『大津市志』

 □ 滋賀郡膳所町

 □ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)