お元気ですか?
大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。
なにをテーマに書こうかと迷いながら
2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。
2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、
気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。
戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。
通信兵だった父や防空監視隊にいた母から
聞かされた話は、
戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない
という思いを強くさせるものでした。
ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、
国家の理屈で議論が進みます。
同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。
しかし、戦争は、最悪の暴力です。
私は草の根の痛み、
どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で
書いていきたいと思っています。
あまり楽しめないブログかも知れませんが、
お気軽に感想やコメントをお寄せください。
星亮一『明治を生きた会津人 山川健次郎の生涯 白虎隊士から帝大総長へ』(ちくま文庫) ― 2008/07/15
星亮一さんの仕事に触れたのは、初めてではありません。先日は、『奥羽越列藩同盟』(中公新書)を読みました。教科書から脱落している敗者の歴史。そこに大きな刺激をうけました。
昨日、読みきったのは、『山川健次郎の生涯』。
この本は、タイトルが示すように、個人を扱っています。
しかし、単純に個人の生涯ではないのです。少なくとも幕末から明治は、個人が勝手に生きることができた時代ではありません。朝敵という汚名を着せられた会津藩というしがらみのなかで、また、列強に囲まれなんとしても一等国へのし上がろうとする国の政策のなかで、自分の生きる意味と指針を求めるしかない時代です。
勝てば官軍の時代、藩閥政治が非難の的となっていたなかで、山川健次郎は、会津藩の白虎隊出身であること、アメリカ留学をしたこと、など異色の出自が、独特の人間的な広さを魅力を形成しています。
大学総長となり、物理学の興隆のために尽くすとともに、軍事教練を学生に課していました。それは、山川が、学問を国家のためのものとして位置づけられていたことを示しています。それは、個人も同様で、国なしには、個人はありえないという考えに貫かれています。
ともかく、内戦のむごさとともに、時代をつくりあげる明治人の強烈なエネルギーを感じました。
昨日は休日。この本と平行して読んでいたのが、夏目漱石の『草枕』です。この著作は、日露戦争前後に書かれています。同じ明治でも、ずいぶん雰囲気が違います。
そういえば、漱石も留学していますね。森鴎外もです。個人と国家の関係は、山川、森、夏目とそれぞれ異なってきます。それは、明治国家がアジアのなかで軍事大国として、のし上がっていくプロセスと無縁ではありませんね。
昨日、読みきったのは、『山川健次郎の生涯』。
この本は、タイトルが示すように、個人を扱っています。
しかし、単純に個人の生涯ではないのです。少なくとも幕末から明治は、個人が勝手に生きることができた時代ではありません。朝敵という汚名を着せられた会津藩というしがらみのなかで、また、列強に囲まれなんとしても一等国へのし上がろうとする国の政策のなかで、自分の生きる意味と指針を求めるしかない時代です。
勝てば官軍の時代、藩閥政治が非難の的となっていたなかで、山川健次郎は、会津藩の白虎隊出身であること、アメリカ留学をしたこと、など異色の出自が、独特の人間的な広さを魅力を形成しています。
大学総長となり、物理学の興隆のために尽くすとともに、軍事教練を学生に課していました。それは、山川が、学問を国家のためのものとして位置づけられていたことを示しています。それは、個人も同様で、国なしには、個人はありえないという考えに貫かれています。
ともかく、内戦のむごさとともに、時代をつくりあげる明治人の強烈なエネルギーを感じました。
昨日は休日。この本と平行して読んでいたのが、夏目漱石の『草枕』です。この著作は、日露戦争前後に書かれています。同じ明治でも、ずいぶん雰囲気が違います。
そういえば、漱石も留学していますね。森鴎外もです。個人と国家の関係は、山川、森、夏目とそれぞれ異なってきます。それは、明治国家がアジアのなかで軍事大国として、のし上がっていくプロセスと無縁ではありませんね。
黄色い花 ― 2008/07/15
「結界」が隠れているまち。 ― 2008/07/15
幹線道路には、高層ビルとマンション。
いつでも壊せる平屋のチェーンストアが並ぶ。
無国籍的な建築とアルファベットの看板に
目が慣れてくると、
旧来の町並みが異国に思えてくる。
そこさえ、はげしく変わりつつある。
ビルに囲まれた寺院や神社、
旧家の隣に洋風建築。
いきなり出現する駐車場。
新しいものと旧いものが調和することなく、
存在しているわがまち・・・。
なにを大切にしているのかがわからない
まちになってしまったのが悲しい。
それでも、旧いまちは過去とのつながりを
残していて、神秘的であると思う。
ふつうに歩いていると鳥居が
そこにあることに気がつかない(一番上の写真)。
近づいてみると、なんとなく存在に気がつく(次の写真)。
なにげなく横を見て、驚くことになる(下の写真)。
鳥居は、もともと結界のしるし。
別世界への出口。
それが、細い街中にあることが
うれしい。
いつでも壊せる平屋のチェーンストアが並ぶ。
無国籍的な建築とアルファベットの看板に
目が慣れてくると、
旧来の町並みが異国に思えてくる。
そこさえ、はげしく変わりつつある。
ビルに囲まれた寺院や神社、
旧家の隣に洋風建築。
いきなり出現する駐車場。
新しいものと旧いものが調和することなく、
存在しているわがまち・・・。
なにを大切にしているのかがわからない
まちになってしまったのが悲しい。
それでも、旧いまちは過去とのつながりを
残していて、神秘的であると思う。
ふつうに歩いていると鳥居が
そこにあることに気がつかない(一番上の写真)。
近づいてみると、なんとなく存在に気がつく(次の写真)。
なにげなく横を見て、驚くことになる(下の写真)。
鳥居は、もともと結界のしるし。
別世界への出口。
それが、細い街中にあることが
うれしい。
西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。
戦争にかかわる碑
■ 忠魂碑・慰霊碑
○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など
○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)
○ 大津市南部の忠魂碑
民間墓地の戦没者○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。
□ 滋賀県の西南戦争の戦没者
□ 高島市(高島郡)の戦没者
■ 西南戦争(西南之役) 1877年
● 戦病死者名簿
*高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)
■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年
,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)
『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。
■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年
● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)
○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿
○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
□ Aブロック 埋葬者名簿
陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある
□ Bブロック 埋葬者名簿
日清戦争期に戦病死した下士官の墓地
□ Cブロック 埋葬者名簿
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Dブロック 埋葬者名簿(作成中)
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Eブロック 埋葬者名簿
■ 大津市作成の名簿順
■ あいうえお順
日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。
□ Fブロック 埋葬者名簿
明治8年から11年までに病死した下士官と
兵卒の墓碑が37基
□ Kブロック 埋葬者名簿
「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
すべて兵卒の墓碑。
□ Lブロック 埋葬者名簿
「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
合計98基。すべて兵卒の墓碑。
□ Mブロック 埋葬者名簿(作成中)
陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)
□ 西南戦争の戦死者
□ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿
□『大津市志』
□ 滋賀郡膳所町
□ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)
最近のコメント