お元気ですか?
大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。
なにをテーマに書こうかと迷いながら
2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。
2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、
気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。
戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。
通信兵だった父や防空監視隊にいた母から
聞かされた話は、
戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない
という思いを強くさせるものでした。
ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、
国家の理屈で議論が進みます。
同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。
しかし、戦争は、最悪の暴力です。
私は草の根の痛み、
どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で
書いていきたいと思っています。
あまり楽しめないブログかも知れませんが、
お気軽に感想やコメントをお寄せください。
「七本柿木台場薩軍墓地」の見学記 その1 ― 2008/08/29
官軍と薩軍にわかれて、両軍あわせて7万8千の兵力がたたかい、1万6千の死者を出した1877年の西南戦争。大河ドラマの素材とならなければ、関心をもつ人が多くはないでしょう。
下の写真は、旧真田山陸軍墓地(大阪玉造)にある西南戦争で亡くなった方の墓碑です。
ごらんのように西南戦争ではなく、「鹿児島県賊徒征討之役」と刻まれています。昨年、はじめて見て衝撃を受けました。この烈しい非難をこめた名称は、明治政府の側の危機感の現れにほかなりません。
それだけに、官軍墓地だけではなく、薩軍墓地が存在することに別の驚きをもちます。
死ねば同じなのですから、ともに葬るという考え方もありえます。しかし、死後も官軍と薩軍の墓地を明確に分けたところに、戦争のもたらした内戦の傷跡が見えるのです。
お盆明けのブログにも書きましたが、実際に行ったのは、8月15日です。大分竹田市に到着したときに、いきなり行くことを思い立ったので、事前の調査なしでした。ともかく、いくつかある官軍墓地・薩軍墓地のなかで、一つでも見ることができたらいいというのが私の希望でした。
田原坂を見ることを第一にして、その付近の官軍墓地・薩軍墓地を探しました。そこで、到着したのが、「七本柿木台場薩軍墓地」でした。
「七本官軍墓地」とは目と鼻の先でした。
下の写真は、旧真田山陸軍墓地(大阪玉造)にある西南戦争で亡くなった方の墓碑です。
ごらんのように西南戦争ではなく、「鹿児島県賊徒征討之役」と刻まれています。昨年、はじめて見て衝撃を受けました。この烈しい非難をこめた名称は、明治政府の側の危機感の現れにほかなりません。
それだけに、官軍墓地だけではなく、薩軍墓地が存在することに別の驚きをもちます。
死ねば同じなのですから、ともに葬るという考え方もありえます。しかし、死後も官軍と薩軍の墓地を明確に分けたところに、戦争のもたらした内戦の傷跡が見えるのです。
お盆明けのブログにも書きましたが、実際に行ったのは、8月15日です。大分竹田市に到着したときに、いきなり行くことを思い立ったので、事前の調査なしでした。ともかく、いくつかある官軍墓地・薩軍墓地のなかで、一つでも見ることができたらいいというのが私の希望でした。
田原坂を見ることを第一にして、その付近の官軍墓地・薩軍墓地を探しました。そこで、到着したのが、「七本柿木台場薩軍墓地」でした。
「七本官軍墓地」とは目と鼻の先でした。
「七本柿木台場薩軍墓地」の見学記 その2 ― 2008/08/29
道路わきの案内板を見つけて、左折して、薩軍墓地の駐車場に入ります。
10数台が収容できる駐車場は、アスファルト舗装。そこに面して、石の階段があり、そこが墓地の入り口となっていました。
「七本柿木台場薩軍墓地」に到着しての第一印象は、農地のなかにさりげなく置かれている素朴な墓地ということでした。もちろん、墓地にけばけばしさは似合いません。わかりやすくいえば、観光地としてわざとらしい扱いがないということでしょうか。それでも、駐車場などが整備されて、史跡としての扱いになっています。
先の日記には、おそらく墓地創設のころのものと思われる「薩軍墓地」という石碑の写真を載せました。こちらのほうが、きれいな木の案内よりも私にとっては貴重なものです。私は、できるだけ当初の姿に触れたいと思っていましたから。
「西南役薩軍戦没者墓碑」と金文字が彫られた記念碑があります。
これは死者を悼んで建立されたのでしょうけれど、薩軍墓地の当初の形態に触れたい私には、複雑な気分なのです。史跡としての薩軍墓地、死者を追悼する施設としての薩軍墓地ともに、大切にすべきだとは思います。
10数台が収容できる駐車場は、アスファルト舗装。そこに面して、石の階段があり、そこが墓地の入り口となっていました。
「七本柿木台場薩軍墓地」に到着しての第一印象は、農地のなかにさりげなく置かれている素朴な墓地ということでした。もちろん、墓地にけばけばしさは似合いません。わかりやすくいえば、観光地としてわざとらしい扱いがないということでしょうか。それでも、駐車場などが整備されて、史跡としての扱いになっています。
先の日記には、おそらく墓地創設のころのものと思われる「薩軍墓地」という石碑の写真を載せました。こちらのほうが、きれいな木の案内よりも私にとっては貴重なものです。私は、できるだけ当初の姿に触れたいと思っていましたから。
「西南役薩軍戦没者墓碑」と金文字が彫られた記念碑があります。
これは死者を悼んで建立されたのでしょうけれど、薩軍墓地の当初の形態に触れたい私には、複雑な気分なのです。史跡としての薩軍墓地、死者を追悼する施設としての薩軍墓地ともに、大切にすべきだとは思います。
「七本柿木台場薩軍墓地」の見学記 その3 墓碑と記念碑 ― 2008/08/29
線香花火に似ています ― 2008/08/29
この花はもう見ることができません ― 2008/08/29
内戦の傷跡 勝者の論理と敗者の論理そして癒し ― 2008/08/29
内戦とテロがつづくアフガニスタンでは
ついに日本の若者が犠牲になりました。
韓国では、北朝鮮の女性スパイが逮捕。
映画「シュリ」、「JSA」、「二重スパイ」などの
シーンが現実のもとして迫ってきます。
朝鮮半島でもアフガンでも内戦の悲劇は終わりません。
西南戦争は、他国ではなく、
私たちが経験した最大で最後の内戦です。
家族に「お父さんの趣味につきあう」
といわれた西南戦争の史跡めぐり。
「趣味」という一言で片付けられて、
すこし不満顔の私でしたけれど、
本業ではないのですから、仕方ありません。
3月は鹿児島の南州墓地、8月は田原坂と
家族を振り回した私でした。
それらを見て、なにを考え、
なにを感じるかは、人それぞれです。
私自身も、そうです。
自分がなにを感じ、なにを考えるのか、
予想しているわけではありません。
そもそも私にとって、西南戦争は、
教科書に出てくる事件以上では
なかったのですから。
130年以上経ちますが、モノに触れることで
戦争の生々しさ、むごさを実感できます。
それだけではありません。
私が漠然と感じていた違和感は、
内戦の傷跡にかかわる問題でした。
それは、官軍墓地と薩軍墓地という差別。
政府が建てたのは前者。有志が建てたのは、後者。
戦後においてさえ、亀裂は明らかです。
上の文章は、明治13年に建立された「崇烈碑」に
刻まれた碑文を現代訳したものです。
官軍の立場から、田原坂のたたかいの
意義を後世に残すためにつくられたものです。
同年、七本柿木台場に「熊本諸隊奮戦之碑」が
建てられたのは、偶然ではありません。
それは、敗者の視点から主張する機会を
得るためだったことでしょう。
「勝てば官軍」という言葉が生まれたのは、
戊辰戦争だったのでしょうか。
勝利した側は、いちはやく内戦の傷跡を
癒して、国民的統合をはかるのが大切だと
私には、思えます。
旧真田山陸軍墓地の墓碑を紹介しましたが、
「鹿児島県賊徒征討之役」という位置づけを
半永久に残るとされる墓碑に刻み込む限り、
癒しは遠のくばかりです。
つい数年前に、旧真田山陸軍墓地を訪れた
鹿児島県の関係者が、「この文言を
墓碑から削れないのか」とおっしゃったとか。
100年以上後に見てさえ、生々しい表現が
当時の人々にどういう印象を与えたかは、
想像できません。
近代日本が経験した深刻な内戦だっただけに、
救いも生まれています。それは、博愛社。
パネルに書かれているように日本赤十字社の前身です。
第二次世界大戦を経た現代にもう一つ
官軍も薩軍も平等に犠牲者として悼む「慰霊塔」。
田原坂からは、当時の戦争の姿だけではなく、
現代にいたる内戦の問題が見えてくるのだと思いました。
ついに日本の若者が犠牲になりました。
韓国では、北朝鮮の女性スパイが逮捕。
映画「シュリ」、「JSA」、「二重スパイ」などの
シーンが現実のもとして迫ってきます。
朝鮮半島でもアフガンでも内戦の悲劇は終わりません。
西南戦争は、他国ではなく、
私たちが経験した最大で最後の内戦です。
家族に「お父さんの趣味につきあう」
といわれた西南戦争の史跡めぐり。
「趣味」という一言で片付けられて、
すこし不満顔の私でしたけれど、
本業ではないのですから、仕方ありません。
3月は鹿児島の南州墓地、8月は田原坂と
家族を振り回した私でした。
それらを見て、なにを考え、
なにを感じるかは、人それぞれです。
私自身も、そうです。
自分がなにを感じ、なにを考えるのか、
予想しているわけではありません。
そもそも私にとって、西南戦争は、
教科書に出てくる事件以上では
なかったのですから。
130年以上経ちますが、モノに触れることで
戦争の生々しさ、むごさを実感できます。
それだけではありません。
私が漠然と感じていた違和感は、
内戦の傷跡にかかわる問題でした。
それは、官軍墓地と薩軍墓地という差別。
政府が建てたのは前者。有志が建てたのは、後者。
戦後においてさえ、亀裂は明らかです。
上の文章は、明治13年に建立された「崇烈碑」に
刻まれた碑文を現代訳したものです。
官軍の立場から、田原坂のたたかいの
意義を後世に残すためにつくられたものです。
同年、七本柿木台場に「熊本諸隊奮戦之碑」が
建てられたのは、偶然ではありません。
それは、敗者の視点から主張する機会を
得るためだったことでしょう。
「勝てば官軍」という言葉が生まれたのは、
戊辰戦争だったのでしょうか。
勝利した側は、いちはやく内戦の傷跡を
癒して、国民的統合をはかるのが大切だと
私には、思えます。
旧真田山陸軍墓地の墓碑を紹介しましたが、
「鹿児島県賊徒征討之役」という位置づけを
半永久に残るとされる墓碑に刻み込む限り、
癒しは遠のくばかりです。
つい数年前に、旧真田山陸軍墓地を訪れた
鹿児島県の関係者が、「この文言を
墓碑から削れないのか」とおっしゃったとか。
100年以上後に見てさえ、生々しい表現が
当時の人々にどういう印象を与えたかは、
想像できません。
近代日本が経験した深刻な内戦だっただけに、
救いも生まれています。それは、博愛社。
パネルに書かれているように日本赤十字社の前身です。
第二次世界大戦を経た現代にもう一つ
官軍も薩軍も平等に犠牲者として悼む「慰霊塔」。
田原坂からは、当時の戦争の姿だけではなく、
現代にいたる内戦の問題が見えてくるのだと思いました。
ネコは居場所を選びます ― 2008/08/29
西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。
戦争にかかわる碑
■ 忠魂碑・慰霊碑
○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など
○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)
○ 大津市南部の忠魂碑
民間墓地の戦没者○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。
□ 滋賀県の西南戦争の戦没者
□ 高島市(高島郡)の戦没者
■ 西南戦争(西南之役) 1877年
● 戦病死者名簿
*高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)
■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年
,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)
『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。
■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年
● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)
○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿
○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
□ Aブロック 埋葬者名簿
陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある
□ Bブロック 埋葬者名簿
日清戦争期に戦病死した下士官の墓地
□ Cブロック 埋葬者名簿
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Dブロック 埋葬者名簿(作成中)
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Eブロック 埋葬者名簿
■ 大津市作成の名簿順
■ あいうえお順
日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。
□ Fブロック 埋葬者名簿
明治8年から11年までに病死した下士官と
兵卒の墓碑が37基
□ Kブロック 埋葬者名簿
「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
すべて兵卒の墓碑。
□ Lブロック 埋葬者名簿
「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
合計98基。すべて兵卒の墓碑。
□ Mブロック 埋葬者名簿(作成中)
陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)
□ 西南戦争の戦死者
□ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿
□『大津市志』
□ 滋賀郡膳所町
□ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)
最近のコメント