
お元気ですか?
大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。
なにをテーマに書こうかと迷いながら
2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。
2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、
気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。
戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。
通信兵だった父や防空監視隊にいた母から
聞かされた話は、
戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない
という思いを強くさせるものでした。
ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、
国家の理屈で議論が進みます。
同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。
しかし、戦争は、最悪の暴力です。
私は草の根の痛み、
どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で
書いていきたいと思っています。
あまり楽しめないブログかも知れませんが、
お気軽に感想やコメントをお寄せください。
マキノにも「砲弾型」墓碑がありました ― 2008/09/08
戦死者の墓碑を見て回ることをはじめたのは、
去年の8月からのことです。
それ以来、旅行先でも、仕事で立ち寄った場所でも、
余裕があれば、戦死者の墓碑を見て回っています。
一時、このブログも家族から「お墓ブログ」と
呼ばれていました(笑)。
さて、日露戦争で中国現地に巨大な砲弾型の
記念碑が建てられました。
その異様さに驚きましたが、日本でも、
同じ形の墓碑を見つけて衝撃を受けました。
最初に見たのは、自衛隊今津駐屯地の
近くの大字今津共同墓地(3基↓)でした。

それから、今津でもう一箇所、弘川霊苑(2基)↓。

新旭で2箇所で1基づつ↓。


これまでに2町4墓地で、7基「砲弾型」の戦死者の墓碑を
見つけていました。
この8月、マキノの高木浜の墓地で
3基見ることが出来ました。
それが一番上の写真です。
「西浜共同墓地」と言う名前でした。
ただ、なぜこの形なのか、
それは、日露戦争の個人墓碑だけなのか、
他の地域にも存在するのか、
などは、わかっていません。
大津市では、日露戦争の個人墓碑は、
四角錐の形であり、砲弾型を
私はまだ見つけることができませんでした。
去年の8月からのことです。
それ以来、旅行先でも、仕事で立ち寄った場所でも、
余裕があれば、戦死者の墓碑を見て回っています。
一時、このブログも家族から「お墓ブログ」と
呼ばれていました(笑)。
さて、日露戦争で中国現地に巨大な砲弾型の
記念碑が建てられました。
その異様さに驚きましたが、日本でも、
同じ形の墓碑を見つけて衝撃を受けました。
最初に見たのは、自衛隊今津駐屯地の
近くの大字今津共同墓地(3基↓)でした。

それから、今津でもう一箇所、弘川霊苑(2基)↓。

新旭で2箇所で1基づつ↓。


これまでに2町4墓地で、7基「砲弾型」の戦死者の墓碑を
見つけていました。
この8月、マキノの高木浜の墓地で
3基見ることが出来ました。
それが一番上の写真です。
「西浜共同墓地」と言う名前でした。
ただ、なぜこの形なのか、
それは、日露戦争の個人墓碑だけなのか、
他の地域にも存在するのか、
などは、わかっていません。
大津市では、日露戦争の個人墓碑は、
四角錐の形であり、砲弾型を
私はまだ見つけることができませんでした。
『ダムと森林を考えるシンポジウム』@大津市 ― 2008/09/08
大型公共事業で変貌する地域 ダムと第二名神と県道と ― 2008/09/08
公共事業が集中して、河川と森林の地域が
大きく変貌していく姿を見ることができます。
2008年6月の写真です。
遠景なのでクリックしていただければと思います。
大津市上田上の大鳥居は、ダム建設のために
集落がまとめて移動した地域です。
その地域の変貌の起点となった大型公共事業を
ひとつの写真に収めてみました。
もっと、いい場所があるかも知れないし、
上手な写し方もあるでしょうけれど。
山手を横断して伸びる第二名神。
その少し下手に平行して建設中の県道。
写真の右手の土盛は、大戸川ダム建設用の土砂。
それぞれを個別に見ると

第二名神は、上のような特徴的な橋梁に支えられています。

県道は付け替え工事です。それまでの県道に平行して
より高いところを通ります。しかし、工事はストップしています。
この場所では、白い橋梁だけが道路の存在を示唆するだけ。
左上の赤いものは、第二名神。

ダム用の土砂は、上記のように相当な量です。
最後にもう一度全体。

こっち↑の写真のほうがわかりやすいと思います。
レンズの真ん中に汚れがあって、
ぼけているのが残念。
天候はよくなかったので、暗めに写っています。
この地域が巨大な変貌を遂げたことは、
これだけでもわかると思います。
原風景を写した写真をもっていないのが残念ですが。
大きく変貌していく姿を見ることができます。
2008年6月の写真です。
遠景なのでクリックしていただければと思います。
大津市上田上の大鳥居は、ダム建設のために
集落がまとめて移動した地域です。
その地域の変貌の起点となった大型公共事業を
ひとつの写真に収めてみました。
もっと、いい場所があるかも知れないし、
上手な写し方もあるでしょうけれど。
山手を横断して伸びる第二名神。
その少し下手に平行して建設中の県道。
写真の右手の土盛は、大戸川ダム建設用の土砂。
それぞれを個別に見ると

第二名神は、上のような特徴的な橋梁に支えられています。

県道は付け替え工事です。それまでの県道に平行して
より高いところを通ります。しかし、工事はストップしています。
この場所では、白い橋梁だけが道路の存在を示唆するだけ。
左上の赤いものは、第二名神。

ダム用の土砂は、上記のように相当な量です。
最後にもう一度全体。

こっち↑の写真のほうがわかりやすいと思います。
レンズの真ん中に汚れがあって、
ぼけているのが残念。
天候はよくなかったので、暗めに写っています。
この地域が巨大な変貌を遂げたことは、
これだけでもわかると思います。
原風景を写した写真をもっていないのが残念ですが。
「カニはいらないでしょ」っていうけれど ― 2008/09/08
H君が修学旅行先から
宅急便で届くように
してくれたカニ。
本人より一日遅れで
到着しました。
今晩の食卓に上がりましたが、
私は仕事が遅くなり、
いっしょに食べられませんでした。
「カニいらないでしょ」と
カミさんが私に言っています。
私は「あ、まあ」とあいまいな返事。
今年は結婚20周年。
20年前の秋に、新婚旅行先で、
カニ料理が出ました。
おいしそうにカニを食べるカミさんの笑顔に、つい
「いらないから、こっちも」
と差し出したのが事の始まり。
「カニは嫌い?」
「あ、まあ」
この一言がずっと
私の食生活を決めているのです。
いまさら、「ちがう」っていえない・・・?。

ひとりで食事をしていると、
背中がチクチク。
「痛い?」
「痛いよ」
「私も足はがすとき痛かった」
それはいいけど、甲羅で遊ばないでほしい。
「ハハ」
ってなにがおかしいんでしょうね。
20年間あなたが進化していないから、
「あのときは」って、いえないのです。
宅急便で届くように
してくれたカニ。
本人より一日遅れで
到着しました。
今晩の食卓に上がりましたが、
私は仕事が遅くなり、
いっしょに食べられませんでした。
「カニいらないでしょ」と
カミさんが私に言っています。
私は「あ、まあ」とあいまいな返事。
今年は結婚20周年。
20年前の秋に、新婚旅行先で、
カニ料理が出ました。
おいしそうにカニを食べるカミさんの笑顔に、つい
「いらないから、こっちも」
と差し出したのが事の始まり。
「カニは嫌い?」
「あ、まあ」
この一言がずっと
私の食生活を決めているのです。
いまさら、「ちがう」っていえない・・・?。

ひとりで食事をしていると、
背中がチクチク。
「痛い?」
「痛いよ」
「私も足はがすとき痛かった」
それはいいけど、甲羅で遊ばないでほしい。
「ハハ」
ってなにがおかしいんでしょうね。
20年間あなたが進化していないから、
「あのときは」って、いえないのです。
「オオチャバネセセリと遭遇」に遭遇 ― 2008/09/08
アサブロの新着画像一覧を見ていて、
見たことがあると思いました。
そうそう、きっとこれに違いありません。
画面で見比べて、決定。
私が撮影したのは、オオチャバネセセリ。
ブログ《デジタル昆虫記》さん、
ありがとうございます。
見たことがあると思いました。
そうそう、きっとこれに違いありません。
画面で見比べて、決定。
私が撮影したのは、オオチャバネセセリ。
ブログ《デジタル昆虫記》さん、
ありがとうございます。

西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。
戦争にかかわる碑
■ 忠魂碑・慰霊碑
○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など
○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)
○ 大津市南部の忠魂碑
民間墓地の戦没者○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。
□ 滋賀県の西南戦争の戦没者
□ 高島市(高島郡)の戦没者
■ 西南戦争(西南之役) 1877年
● 戦病死者名簿
*高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)
■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年
,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)
『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。
■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年
● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)
○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿
○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
□ Aブロック 埋葬者名簿
陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある
□ Bブロック 埋葬者名簿
日清戦争期に戦病死した下士官の墓地
□ Cブロック 埋葬者名簿
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Dブロック 埋葬者名簿(作成中)
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Eブロック 埋葬者名簿
■ 大津市作成の名簿順
■ あいうえお順
日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。
□ Fブロック 埋葬者名簿
明治8年から11年までに病死した下士官と
兵卒の墓碑が37基
□ Kブロック 埋葬者名簿
「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
すべて兵卒の墓碑。
□ Lブロック 埋葬者名簿
「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
合計98基。すべて兵卒の墓碑。
□ Mブロック 埋葬者名簿(作成中)
陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)
□ 西南戦争の戦死者
□ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿
□『大津市志』
□ 滋賀郡膳所町
□ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)
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