お元気ですか?
大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。
なにをテーマに書こうかと迷いながら
2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。
2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、
気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。
戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。
通信兵だった父や防空監視隊にいた母から
聞かされた話は、
戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない
という思いを強くさせるものでした。
ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、
国家の理屈で議論が進みます。
同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。
しかし、戦争は、最悪の暴力です。
私は草の根の痛み、
どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で
書いていきたいと思っています。
あまり楽しめないブログかも知れませんが、
お気軽に感想やコメントをお寄せください。
三つの実 ― 2008/10/16
青年劇場『族譜』@びわこホール ― 2008/10/16
ぎりぎりで仕事場と折り合いをつけて
会場に駆けつけることができました。
開演二分前のことです。
いろんな事情があったにせよ、
見ることができてうれしく思いました。
「青年劇場」の演劇を見るのは、
『真珠の首飾り』以来3年ぶりのことでした。
この劇の内容などについては、
サイトがありますのでそちらで
ご覧ください。
私の感想。
奇をてらわずストレートに主題に
向かっている劇でした。
幕間のエピソードとも思えた
孫達の姿が見事に
時のながれを映し出す鏡として
使われていることになるほどという
思いがしました。
生々しい政治的な主題にこもる人間臭。
リアルな痛みに触れた気がしました。
韓国の方が見たら、ちがう感想をもつのか、
それとも、共感されるのか、
それも知りたいとも思いました。
「創氏改名」の先に、朝鮮の人たちに対する
徴兵の導入が待ち受けていました。
自国の利益のために、属国の人々を
徴兵する・・・現在、徴兵制度はありませんが、
似たような事態は日本とある大国の間で
すすんでいますね。
少なくともいまある軍隊をさしだすために、
憲法を変えようとする動きも。
いろいろ想像をかきたてられる演劇でした。
それらについては、エントリーをあらためて、
書き続けてみたいと思います。
会場に駆けつけることができました。
開演二分前のことです。
いろんな事情があったにせよ、
見ることができてうれしく思いました。
「青年劇場」の演劇を見るのは、
『真珠の首飾り』以来3年ぶりのことでした。
この劇の内容などについては、
サイトがありますのでそちらで
ご覧ください。
私の感想。
奇をてらわずストレートに主題に
向かっている劇でした。
幕間のエピソードとも思えた
孫達の姿が見事に
時のながれを映し出す鏡として
使われていることになるほどという
思いがしました。
生々しい政治的な主題にこもる人間臭。
リアルな痛みに触れた気がしました。
韓国の方が見たら、ちがう感想をもつのか、
それとも、共感されるのか、
それも知りたいとも思いました。
「創氏改名」の先に、朝鮮の人たちに対する
徴兵の導入が待ち受けていました。
自国の利益のために、属国の人々を
徴兵する・・・現在、徴兵制度はありませんが、
似たような事態は日本とある大国の間で
すすんでいますね。
少なくともいまある軍隊をさしだすために、
憲法を変えようとする動きも。
いろいろ想像をかきたてられる演劇でした。
それらについては、エントリーをあらためて、
書き続けてみたいと思います。
64年ぶりの陸軍墓地訪問 : Yさんの記憶をたどる ― 2008/10/16
Yさんは、旧知の方で今年80歳。
同じ学区に住んでいて、この9月に、
「9条の会」の集まりで出会いました。
そこで、戦争体験をうかがいました。
いくつもの興味深いエピソードがあり、
より詳しく知りたいと思いました。
お願いをすると、快諾してもらえましたが、
私に時間がなく、今日、ようやく話す機会を
もつことができました。
私が興味を惹かれたのは、陸軍墓地を
戦前に訪れた経験があるということです。
今日は、幸いにも晴天。
車で現地にいっしょに出かけて
その場でお話を聞こうと思いました。
時間通りに、車でお迎えにいくと、
杖をわざわざもって出てこられました。
「坂道が大変だと思ったから」ということでした。
このときは、実感がありませんでしたが、
お話を聞くとなるほどと思いました。
Yさんの生地は、大津市の観音寺です。
そこは、大津市にかつて存在した軍事施設に
もっとも近い町です。
大津市が軍都となるのは、明治7(1874)年のこと。
このとき、三井寺の広大な山野の一部に
大阪鎮台大津営所と錬兵場がつくられます。
そこが陸軍歩兵第九連隊の拠点となります。
観音寺は、錬兵場にほぼ背中を接する土地です。
ちなみに、私の生家も基地の近くにあります。
Yさんは、4人姉妹でした。
やがて、長等尋常小学校に入ります。
この小学校は、山手に三井寺。
明治の記念碑的な土木工事・琵琶湖疎水に面しています。
大津市でも最も美しい場所の一つにあると私は思っています。
同時に、軍都大津市の中心を学区内に抱いています。
すなわち、第九連隊の営舎も陸軍病院も、陸軍墓地も
すべて地域的には、学区内にありました。
Yさんといろいろ話ながら、陸軍墓地に向かいました。
「どうして、戦前に、陸軍墓地を見たことがあるのでしょうか?」
「小学校の高学年の遠足先といえば陸軍墓地でしたから」
「そうなんですか。」
「小学校を出て、ぼうぼうの草の坂道を延々と歩きました」
「大変だったのですね。」
「歩くのが大変でした。」
そのとき、はじめて杖の意味をリアルに悟りました。
Yさんの記憶のままだと、車で行っても、歩くことが必要だと
いうことになります。快諾していただいたのですが、
それなりに覚悟して来ていただいたことがわかりました。
いまは、墓地に直接、車で入れますからと云うと、
「へぇ、そうなんですか」という返事でした。
記憶をとりもどしてもらうのが一番だと思って現地へ
いきましたが、車だと、遠足の道とはずいぶんちがうはず。
駐車場に着いたとき、Yさんは怪訝な様子。
階段を上がって、最初に見える墓地は、1976年に移葬
された部分なので、記憶にはないところです。
そんな話をしながら、墓地を歩きました。
Yさんは、全体のイメージを思い出すのに苦労している様子。
「もっと大きな尖った三角の墓がありました」と
目を墓地の違う方向に投げています。
きっと遠足では墓地の最上段から入ったのだと思いました。
そこで、墓地内の坂道をゆっくり最上段に案内しました。
旧大津陸軍墓地は、平地ではなく、丘陵地に建設されました。
段々畑のような構造で、上段、中段、下段からなっていました。
これを利用して、上段は将校の墓地、中段は下士官の墓地
最下段は、兵卒の墓地と階級的に分けられていました。
日清戦争で予想外の病死者を出したために、中段に
兵卒の墓地を増設することになったのですが。
最上段に着いて、最も大きな井戸中佐の墓碑の前に、
イスを並べて、そこで話を伺うことにしました。
「遠足で陸軍墓地にきて、墓地について説明されましたか」
「いいえ」
「では、お参りとかお供えとかはどうですか」
「そんな記憶はありません」
つまり、遠足の目標地となっていたのでしょうけれど、
軍事教育の一環として使われたのではないのでしょう。
「いまと違っている点はありますか」
「こんなに家が近くなかったし、もっともっと暗かったです」
「この段で、ほかに変わったことに気がつきますか」
「これはなかったです。」
1976年のバイパス工事後に創られた記念碑をさしました。
「そうですね」
イスから立ち上がって、墓地を再び歩きました。
Yさんは、少しづつ記憶が戻る様子。
「ああ、これはありました」と草場彦輔少将の墓碑を指しました。
「向こうの墓地はどうですか、ありましたか」
「ええ、あっちはありました」
「大きな三角頭のお墓はこれでした」と
指さしたのは、浅野典則大尉の墓碑。
(一番上の写真がそのときのもの)
Yさんの記憶は、中段となるとあいまいになります。
きっと、遠足の目的が墓地見学にないからでしょう。
「ロシア人捕虜や中国人捕虜の墓碑をご存知ですか?」
「いいえ」
Yさんには、陸軍墓地以外に、戦前、戦後の戦争体験を
いろいろ聞かせてもらいました。
それについては、別の機会に紹介させて
もらいたいと思います。
同じ学区に住んでいて、この9月に、
「9条の会」の集まりで出会いました。
そこで、戦争体験をうかがいました。
いくつもの興味深いエピソードがあり、
より詳しく知りたいと思いました。
お願いをすると、快諾してもらえましたが、
私に時間がなく、今日、ようやく話す機会を
もつことができました。
私が興味を惹かれたのは、陸軍墓地を
戦前に訪れた経験があるということです。
今日は、幸いにも晴天。
車で現地にいっしょに出かけて
その場でお話を聞こうと思いました。
時間通りに、車でお迎えにいくと、
杖をわざわざもって出てこられました。
「坂道が大変だと思ったから」ということでした。
このときは、実感がありませんでしたが、
お話を聞くとなるほどと思いました。
Yさんの生地は、大津市の観音寺です。
そこは、大津市にかつて存在した軍事施設に
もっとも近い町です。
大津市が軍都となるのは、明治7(1874)年のこと。
このとき、三井寺の広大な山野の一部に
大阪鎮台大津営所と錬兵場がつくられます。
そこが陸軍歩兵第九連隊の拠点となります。
観音寺は、錬兵場にほぼ背中を接する土地です。
ちなみに、私の生家も基地の近くにあります。
Yさんは、4人姉妹でした。
やがて、長等尋常小学校に入ります。
この小学校は、山手に三井寺。
明治の記念碑的な土木工事・琵琶湖疎水に面しています。
大津市でも最も美しい場所の一つにあると私は思っています。
同時に、軍都大津市の中心を学区内に抱いています。
すなわち、第九連隊の営舎も陸軍病院も、陸軍墓地も
すべて地域的には、学区内にありました。
Yさんといろいろ話ながら、陸軍墓地に向かいました。
「どうして、戦前に、陸軍墓地を見たことがあるのでしょうか?」
「小学校の高学年の遠足先といえば陸軍墓地でしたから」
「そうなんですか。」
「小学校を出て、ぼうぼうの草の坂道を延々と歩きました」
「大変だったのですね。」
「歩くのが大変でした。」
そのとき、はじめて杖の意味をリアルに悟りました。
Yさんの記憶のままだと、車で行っても、歩くことが必要だと
いうことになります。快諾していただいたのですが、
それなりに覚悟して来ていただいたことがわかりました。
いまは、墓地に直接、車で入れますからと云うと、
「へぇ、そうなんですか」という返事でした。
記憶をとりもどしてもらうのが一番だと思って現地へ
いきましたが、車だと、遠足の道とはずいぶんちがうはず。
駐車場に着いたとき、Yさんは怪訝な様子。
階段を上がって、最初に見える墓地は、1976年に移葬
された部分なので、記憶にはないところです。
そんな話をしながら、墓地を歩きました。
Yさんは、全体のイメージを思い出すのに苦労している様子。
「もっと大きな尖った三角の墓がありました」と
目を墓地の違う方向に投げています。
きっと遠足では墓地の最上段から入ったのだと思いました。
そこで、墓地内の坂道をゆっくり最上段に案内しました。
旧大津陸軍墓地は、平地ではなく、丘陵地に建設されました。
段々畑のような構造で、上段、中段、下段からなっていました。
これを利用して、上段は将校の墓地、中段は下士官の墓地
最下段は、兵卒の墓地と階級的に分けられていました。
日清戦争で予想外の病死者を出したために、中段に
兵卒の墓地を増設することになったのですが。
最上段に着いて、最も大きな井戸中佐の墓碑の前に、
イスを並べて、そこで話を伺うことにしました。
「遠足で陸軍墓地にきて、墓地について説明されましたか」
「いいえ」
「では、お参りとかお供えとかはどうですか」
「そんな記憶はありません」
つまり、遠足の目標地となっていたのでしょうけれど、
軍事教育の一環として使われたのではないのでしょう。
「いまと違っている点はありますか」
「こんなに家が近くなかったし、もっともっと暗かったです」
「この段で、ほかに変わったことに気がつきますか」
「これはなかったです。」
1976年のバイパス工事後に創られた記念碑をさしました。
「そうですね」
イスから立ち上がって、墓地を再び歩きました。
Yさんは、少しづつ記憶が戻る様子。
「ああ、これはありました」と草場彦輔少将の墓碑を指しました。
「向こうの墓地はどうですか、ありましたか」
「ええ、あっちはありました」
「大きな三角頭のお墓はこれでした」と
指さしたのは、浅野典則大尉の墓碑。
(一番上の写真がそのときのもの)
Yさんの記憶は、中段となるとあいまいになります。
きっと、遠足の目的が墓地見学にないからでしょう。
「ロシア人捕虜や中国人捕虜の墓碑をご存知ですか?」
「いいえ」
Yさんには、陸軍墓地以外に、戦前、戦後の戦争体験を
いろいろ聞かせてもらいました。
それについては、別の機会に紹介させて
もらいたいと思います。
南保一義大尉は、「大阪鎮台」の将校と確認 ― 2008/10/16
この間、テーマにしている「南保一義大尉之墓」。
兵卒の墓碑文が参考になることがわかりました。
この数日間、南保一義大尉の墓と同じときに、
彦根の大洞陸軍墓地から旧大津陸軍墓地へ
移葬された5柱の兵卒の墓碑を調べてきました。
その結果、どの墓碑の碑文も、5行からなっていて、
記事の順番も判で押したように同じです。
つまり、名前、本籍地と生地、家、生年月日、
応徴日、病死日、死亡場所、享年。
墓碑の形もおなじ”かまぼこ形”なので、
南保一義は、兵卒ではなく、大尉ですが、
碑文は同じ形式だと思ったのです。
となると、だいたいどこにどんな内容かを考えて、
文字を推察する方向が見出せます。
たとえば、一行目最初の文字は、「一義」
これも、なんとなくあたっている気がします。
南保一義大尉の背面の碑文のうち、
最後の一行の最初が「鎮」に見えます。
幸いなことに、十八番大隊の兵卒・
「長谷吉太郎之墓」の背面を見ると、
「鎮」の文字からはじまっています。
つまり、5行目の一文字目が「鎮」という
可能性が状況的にまちがっていないってことです。
「鎮」なら、その次の文字は「台」。
「鎮台」と続けば、南保一義が四鎮台制のもとで
創設された十八番大隊の将校という証拠になります。
そうは言っても、文字の彫りが薄いので、弱気になると
「藩」という気がしないわけでもありません。
「藩」なら、彦根藩なのでしょうか。
論より証拠です。
今日、Yさんと陸軍墓地に行ったときに、
確認することにしました。
五行目の「鎮」の下は読めないので、
その前を、つまり四行目の最後の文字を狙いました。
その文字は下で土をかぶっています。
ということは、雨に打たれることが少ないので、
読める可能性が高いってことです。
現地に行った機会に、土をどけてみた結果は、
上の写真です。
「大阪」の文字が比較的はっきり読めます。
墓碑文からも、四鎮台制度時代の将校の墓碑
ということが確認されたわけです。
もちろん、これは騒ぐ必要もないくらい当然の結論です。
十八番大隊は大阪鎮台の彦根営舎にいる
部隊であり、当然、南保一義大尉もその一員
ってことは当初からわかります。
しかし、、墓碑から確認できたことが
私にはうれしいし、残りの文面を上に述べた
推察の方法で解読することができるという
確証を持った点が値打ちだと思います。
ジグゾーパズルのワンピースを見つけた一日でした。
兵卒の墓碑文が参考になることがわかりました。
この数日間、南保一義大尉の墓と同じときに、
彦根の大洞陸軍墓地から旧大津陸軍墓地へ
移葬された5柱の兵卒の墓碑を調べてきました。
その結果、どの墓碑の碑文も、5行からなっていて、
記事の順番も判で押したように同じです。
つまり、名前、本籍地と生地、家、生年月日、
応徴日、病死日、死亡場所、享年。
墓碑の形もおなじ”かまぼこ形”なので、
南保一義は、兵卒ではなく、大尉ですが、
碑文は同じ形式だと思ったのです。
となると、だいたいどこにどんな内容かを考えて、
文字を推察する方向が見出せます。
たとえば、一行目最初の文字は、「一義」
これも、なんとなくあたっている気がします。
南保一義大尉の背面の碑文のうち、
最後の一行の最初が「鎮」に見えます。
幸いなことに、十八番大隊の兵卒・
「長谷吉太郎之墓」の背面を見ると、
「鎮」の文字からはじまっています。
つまり、5行目の一文字目が「鎮」という
可能性が状況的にまちがっていないってことです。
「鎮」なら、その次の文字は「台」。
「鎮台」と続けば、南保一義が四鎮台制のもとで
創設された十八番大隊の将校という証拠になります。
そうは言っても、文字の彫りが薄いので、弱気になると
「藩」という気がしないわけでもありません。
「藩」なら、彦根藩なのでしょうか。
論より証拠です。
今日、Yさんと陸軍墓地に行ったときに、
確認することにしました。
五行目の「鎮」の下は読めないので、
その前を、つまり四行目の最後の文字を狙いました。
その文字は下で土をかぶっています。
ということは、雨に打たれることが少ないので、
読める可能性が高いってことです。
現地に行った機会に、土をどけてみた結果は、
上の写真です。
「大阪」の文字が比較的はっきり読めます。
墓碑文からも、四鎮台制度時代の将校の墓碑
ということが確認されたわけです。
もちろん、これは騒ぐ必要もないくらい当然の結論です。
十八番大隊は大阪鎮台の彦根営舎にいる
部隊であり、当然、南保一義大尉もその一員
ってことは当初からわかります。
しかし、、墓碑から確認できたことが
私にはうれしいし、残りの文面を上に述べた
推察の方法で解読することができるという
確証を持った点が値打ちだと思います。
ジグゾーパズルのワンピースを見つけた一日でした。
野口武彦『幕府歩兵隊 幕末を駆け抜けた兵士集団』(中公新書) ― 2008/10/16
野口武彦氏のこの著作を読んで最初に感じたのは、文章の力、その特色です。緻密な文章ですが、ストレートに感情に訴える一人称の文章とでもいうのでしょうか。
最後まで読み、「あとがき」で野口氏が史学出身者ではないことを知りました。次の文章は、読み終わった私には、なるほどと思い当たることが多々あります。
対象や内容にかかわらず、《活写》すればいいというものではありません。私が強い共感を覚えたのは、野口武彦氏が「幕府歩兵隊」の結論として述べておられることです。それは、私がいま調べている十八番大隊の兵卒と将校にもあてはまることです。
野口氏の他の著作も読んでみたくなりました。
最後まで読み、「あとがき」で野口氏が史学出身者ではないことを知りました。次の文章は、読み終わった私には、なるほどと思い当たることが多々あります。
この一冊は、学説でもなければ論考でもない。歴史の真理は臨場感に宿る。できるだけ《活写》することで、《真理》に近づけるのではないかというのが筆者の考えである。この考えには、前ふりがあります。
もちろん、日本史の専門家にはいくつも貴重な研究はあるのだが、文学畑からの私見では、何というか見てきたような感じが薄いのである。私はこの箇所ではじめて、文学畑の方であることを知ったわけです。
対象や内容にかかわらず、《活写》すればいいというものではありません。私が強い共感を覚えたのは、野口武彦氏が「幕府歩兵隊」の結論として述べておられることです。それは、私がいま調べている十八番大隊の兵卒と将校にもあてはまることです。
明治の帝国陸軍は幕府歩兵隊ばかりか、けっきょくは長州奇兵隊も薩摩小銃隊もないがしろにする発想で建軍された。徴兵制は、階級分化した農村社会を背景に職業軍人と兵役で駆り出される消耗品的な兵卒の群を作り出した。何か貴重な職人芸のようなものが見捨てられたのである。幕末に生まれた軍隊は、円満には近代軍隊と接続されなかった。明治三年(一八七〇)の奇兵隊の反乱、明治七年の佐賀の乱、明治十年の西南戦争などを一概に封建反動と片付けてはならない。士族反乱の影の一面には、疑いもなく、軍功を正当に報われなかった下層兵士の怨念が渦巻いていたはずである。
武士の甲冑から帝国陸軍のカーキ色の群への過渡期に、一種異様な風体で出現してすぐに消え去った幕府歩兵隊の残像は、しかしただ童話の鉛の兵隊のように歴史館に陳列されているだけの遺物ではない。なるほどその活動は一回的ではあったけれども、来るべき《国家一朝有事》のとき、誰のために誰が血を流すのかという永遠の問いかけを後世に発し続けているのである。竹橋事件への言及がないのは物足りませんが、歴史の描き方とともに、その視角はとても参考になりました。
野口氏の他の著作も読んでみたくなりました。
西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。
戦争にかかわる碑
■ 忠魂碑・慰霊碑
○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など
○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)
○ 大津市南部の忠魂碑
民間墓地の戦没者○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。
□ 滋賀県の西南戦争の戦没者
□ 高島市(高島郡)の戦没者
■ 西南戦争(西南之役) 1877年
● 戦病死者名簿
*高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)
■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年
,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)
『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。
■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年
● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)
○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿
○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
□ Aブロック 埋葬者名簿
陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある
□ Bブロック 埋葬者名簿
日清戦争期に戦病死した下士官の墓地
□ Cブロック 埋葬者名簿
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Dブロック 埋葬者名簿(作成中)
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Eブロック 埋葬者名簿
■ 大津市作成の名簿順
■ あいうえお順
日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。
□ Fブロック 埋葬者名簿
明治8年から11年までに病死した下士官と
兵卒の墓碑が37基
□ Kブロック 埋葬者名簿
「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
すべて兵卒の墓碑。
□ Lブロック 埋葬者名簿
「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
合計98基。すべて兵卒の墓碑。
□ Mブロック 埋葬者名簿(作成中)
陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)
□ 西南戦争の戦死者
□ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿
□『大津市志』
□ 滋賀郡膳所町
□ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)
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