お元気ですか?

大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。


なにをテーマに書こうかと迷いながら

2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。

2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、

気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。


戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。

通信兵だった父や防空監視隊にいた母から

聞かされた話は、

戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない

という思いを強くさせるものでした。

ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、

国家の理屈で議論が進みます。

同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。

しかし、戦争は、最悪の暴力です。

私は草の根の痛み、

どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で

書いていきたいと思っています。


あまり楽しめないブログかも知れませんが、

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「彦根小営十八番大隊」6柱の墓碑から見えるもの2008/10/22

彦根城の天守閣
 私は近代日本史の研究者ではないので、研究史にこだわることなく、目の前にある墓碑から出発します。墓碑文を読み、そこから浮かんだ「なぜ」を追求しているに過ぎません。
 そうして見えてきたものに驚き、それに突き動かされて先にすすんでいます。
 そうして旧大津陸軍墓地を調べはじめて一年が経ちました。
 今考えていることは、あちこちの墓碑を思いつきのように調べるのではなく、腰を落ち着けて、順番に見ていこうということです。
 その最初が「陸軍大尉南保一義之墓」であったわけです。


南保大尉の墓碑は一番右の小さな墓石です。

 背面の碑文が読めないという謎が好奇心をさそいました。亡くなった方には失礼な言い方になりましたが。
 背面の碑文を読み解こうと、いろいろ努力するうちに、道が開けてきたことに驚いています。あきらめることはないのだと思ったのです。
 もともとは彦根の大洞陸軍埋葬地にあった「十八番大隊」の6柱の墓碑文からは、明治5年前後の動きが、見えてきます。
 そもそも「十八番大隊」という文字が、四鎮台時代の存在を生々しく訴えているのです。この文字がなければ、彦根に大阪鎮台の第一分営があったことを知ることはなかったでしょう。
 もしかしたら、彦根市にも彦根分営の痕跡は残っていないかもしれません。そうなるとすれば、貴重な史跡(お墓に申し訳ありませんが)ということになります。 (ちなみに上の写真は彦根城)
 下級武士を意味する「貫族卒」という言葉も同様です。
 版籍奉還から廃藩置県、藩兵から鎮台兵へという流れのなかで、下層を含む武士階級が翻弄されていく姿が、この言葉ひとつで生々しく感じられました。
 もちろん、わからないことだらけです。
 明治4年8月20日に四鎮台制の設置が公布されます。東京、大阪、鎮西(当面は本営は熊本)、東北(当面は本営は仙台)。大阪鎮台は、北陸から四国までの広範囲を管轄下におきます。分営は二つ。そのうちの第一分営を小浜におき、近江、若狭・越前・加賀・能登・丹後・但馬・因幡・伯耆を管轄します。
 なぜ、小浜なのかという疑問がわくのです。
 もっとも、そこの営舎は使用する前に焼失し、そのために彦根に移駐するわけですが。
 そして、大阪鎮台小浜(彦根)小営には、どの藩から将校、下士官、兵卒を集めたのか、知りたくなります。
 墓碑を見る限り、「陸軍大尉」の南保一義は、金沢藩。卒の清水男外吉、長谷吉太郎そして辻安次も同様。残りの2名は小浜藩
 結局、管轄下にある藩から集めたんでしょうね。
 「十八番大隊」は農民騒擾や士族反乱などの鎮圧を任務とし、明治4年12月から明治6年5月まで、彦根に営舎をおいたあと、伏見へ移動。
 それは、四鎮台制から六鎮台制へ移行のため。
 六鎮台になると、大阪鎮台の管轄は狭まります。本営は大阪、分営は大津と姫路。大津の第九連隊は、滋賀・敦賀・三重・度会の4県(現在でいえば滋賀、福井、三重)を管轄下においています。
 小浜小営に属した加賀などは名古屋鎮台金沢営所に拠点をおく第七連隊のもとにおかれます。
 「十八番大隊」として墓碑を並べている兵卒・将校は、六鎮台制のもとでは、いっしょになることはなかったはずの人たちなのです。

「十八番大隊」を調べることで、大津と彦根、福井や石川とのつながりが見えただけでも、私には収穫でした。
 
さて、つぎにどうするかです。

 士族と明治陸軍のつながりは、兵卒の墓碑よりも、将校・下士官の墓碑に見ることができるはずです。
 具体的には、旧大津陸軍墓地CブロックDブロック


↑Cブロック。中段東側。


↑Dブロック。中段西側。

きわめて解読が困難な墓碑が並んでいます。
しかし、これは後回しにします。

 大津に大阪鎮台大津営所ができあがり、第九連隊が入営するのが明治8年3月。それから、大津営所付埋葬地(陸軍墓地)ができるのが、明治10年10月。その間、病死した人たちを埋葬しているブロックがあります。
第九連隊の墓碑としては最古のFブロックです。


↑Fブロック。中段西。琵琶湖側。

そこに眠る37柱の墓碑を、ひとつひとつ見ていくことにします。
解読が容易だったいくつかの墓碑については、すでにブログに書いていますので、すべてが新しい情報というわけではありません。

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BIN★「この記なんの記」ブログ情報 August 12 , 2011



 西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。

戦争にかかわる碑

  ■ 忠魂碑・慰霊碑

    ○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など

    ○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)

    ○ 大津市南部の忠魂碑

民間墓地の戦没者

 □ 滋賀県の西南戦争の戦没者

 □ 高島市(高島郡)の戦没者

  ■ 西南戦争(西南之役) 1877年

   ● 戦病死者名簿

      *高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)

  ■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年

   ,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)

      『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。

  ■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年

   ● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)

      ○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿

    ○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。

 公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
 □ ブロック 埋葬者名簿

     陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある

 □ ブロック 埋葬者名簿

     日清戦争期に戦病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

  ■ 大津市作成の名簿順

  ■ あいうえお順

     日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治8年から11年までに病死した下士官と
          兵卒の墓碑が37基


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
         すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
          合計98基。すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)

 □ 西南戦争の戦死者

 □ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿

 □『大津市志』

 □ 滋賀郡膳所町

 □ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)