お元気ですか?

大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。


なにをテーマに書こうかと迷いながら

2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。

2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、

気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。


戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。

通信兵だった父や防空監視隊にいた母から

聞かされた話は、

戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない

という思いを強くさせるものでした。

ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、

国家の理屈で議論が進みます。

同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。

しかし、戦争は、最悪の暴力です。

私は草の根の痛み、

どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で

書いていきたいと思っています。


あまり楽しめないブログかも知れませんが、

お気軽に感想やコメントをお寄せください。


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二番目に古い「喜多圭三郎墓」(21歳)2008/10/23

二番目に古い「喜多圭三郎墓」(21歳)
旧大津陸軍墓地Fブロックで2番目に古い墓碑は、「喜多圭三郎墓」です。
「舘源左衛門墓」の左隣に置かれています。



大きさや形式は、「舘」と同じです。



左側面の碑文は5行です。

 この時代は、明治陸軍の創成期にあたり、藩兵、壮兵から徴兵へ移る過渡期です。明治5年11月28日に全国徴兵の詔勅がだされ、翌6年1月10日に徴兵令が布かれますが、それで必要な兵員がすぐ確保されたわけではありません。
 四鎮台制のもとで、大阪鎮台には5つの大隊。第一分営の彦根(小浜が焼失のため)、第二分営の高松には、それぞれ1つの大隊が置かれています。それらは、旧武士の壮兵つまり志願兵です。
 徴兵の布告と一体に、六鎮台制が布告(1月9日)されます。
 方向は明確ですが、必要な兵員がいきなり徴兵から構成することができない以上、予定された体制を縮小(3大隊の予定を2大隊から)して、壮兵と順次入れ替える作業を繰り返して、実現されていくのです。
 明治7年5月5日の陸軍省の文書を見ると、新徴兵3大隊が入営することにともなって、部隊を再編成していることがわかります。
 大津営所に入る予定となっていた第九聯隊についていうと、それまでの壮兵の「五大隊」で、第一大隊を編成し、「本年第二徴兵」で第二大隊を組織しています。
 第九聯隊は、この10ヶ月後に、大津の現地に移駐するのですが、このままの編成だと、「喜多圭三郎」が、第一大隊と第二大隊のどちらに属していたかは、大切な情報ということになります。
 墓碑を見てみると、「歩兵第九聯隊第一大隊」。
 単純に考えると、喜多圭三郎は壮兵ということになるのでしょうか。ちなみに、旧「五大隊」は(当時の県名で)、鳥取、豊岡、北条、足羽、石川の壮兵から構成されていました。
 墓碑から出身地が読めるといいのですが、これは困難です。

死の状況が刻んであります。「病死於大津営所病室」

年齢も「年二十一」と読めます。

3番目に古い「荒木彌兵衛墓」(22歳)@旧大津陸軍墓地F352008/10/23

3番目に古い「荒木彌兵衛墓」(22歳)
旧大津陸軍墓地のFブロックの最後尾の列。
古い順に右から左に並んでいます。
右から3番目が「荒木彌兵衛墓」



右側面の歿年月日は鮮明に読むことができます。
「明治八年八月二十九日」。つまり、1875年歿。



しかし、碑文は特に上部が風雪によって削られたのか、
解読が困難となっています。
墓碑は、4行と短くなっています。

1行目の下は「嘉永@年@月三日生」
2行目下は「明治七年四月二十二日應徴為」でしょうか。

3行目は「歩兵第九聯隊第二大隊」

最後の4行目の後半は
「大津営所病室時年二十ニ有ニ月」と読めます。
これでいくと、1852年生まれ。嘉永壬子(五)年六月?

じっと見いていると、不思議に字が浮かんきます。
他の墓碑の例にならって考えると、一行目は
「彌兵衛者三重県@@@荒木」などとはじまりそう。
「兵」の文字ははっきりしていますが、
「三重県」は「三」ぐらいがわかる程度でしょうか。
わかりしだいさらに補足します。

蝶の表情?2008/10/23

蝶
黄色の蝶が花の蜜をすっています。
ゆっくり近づいて撮りました。



蝶の目の上を虫が飛んでいきました。
驚いていて見ている表情?

虫には表情はないでしょうね。

Butterfly Lovers2008/10/23

蝶々を写したつもりの写真です
青空に街灯を写したわけではありません。
主役は小さな白と黄色の蝶々。

蝶々の動きを見ていて、
Butterfly Lovers という言葉が
頭をよぎりました。

中国の音楽でそういうものが
あったような気がしました。





ブルックナー交響曲第七番 ホ長調(ハース版)2008/10/23

朝比奈さんのブルックナーにしました
どれだけ時間があっても足りないと
思っているとき、
しわ寄せがいくのが音楽を聴く時間。
本ならば、拾い読みもできるけれど、
音楽はそうはいきません。
60分かかる音楽は
60分のゆとりが必要。

幸いなことに今日は、
ギスギスした気持ちを癒すための休日。
そうわりきった日です。
それでもなにかと用事はできます。
歯医者に予約し、県庁に出かける
・・・休み感が乏しいのは仕方がありません。

そうだ、今日は音楽を聴こうと思いました。

グルダのハンマークラーヴィア・・・
ハイドシェックのモーツァルト・・・
ピアソラのソリダート・・・
バーンスタインのマーラー9番・・・
ペルトのアルボス・・・
とっかえひっかえ聴いてみましたが

結局、ブルックナーの七番。

ゆったりと過ぎる時間。
巨大な慰め。

でも、だめですね。
息子さんが元気に帰宅してきました。
まあ、いっしょに飲むコーヒーのほうが
セラピーかな。

「陸軍伍長生田高基墓」(19歳)@旧大津陸軍墓地F342008/10/23

「陸軍伍長生田高基墓」@旧大津陸軍墓地
この墓碑は、昨年からずっと注目してきた墓碑です。
このブログでも二度ぐらい記事にしました。
《19歳で亡くなった士族出身の陸軍歩兵伍長・生田高基(1875年10月20日没)の墓碑@旧大津陸軍墓地 》

↑の記事を書いてから、もう一年近くが経つのですねぇ。
少しは進歩した内容にしなくちゃいけませんね。


旧大津陸軍墓地Fブロック。→正面。

Fブロックを左側面から撮った写真です。
墓碑は、右方向を正面に並んでいます。
最後尾の3列の墓碑が写っています。
一番後ろに横一列に並んでいる墓碑の大きさに注目ください。
一番奥の右から三つが比較的小さくて、4番目が大きい。
これが「陸軍伍長」と階級名が入った生田高基の墓碑。
比較的小さい墓碑が2つ続いたあと高い墓碑が見えます。
「陸軍伍長」の田中米次郎の墓碑です。
形はあまり変わりませんが、大きいなと思ったものは
下士官の墓碑なのです。
Fブロックは、兵卒の墓碑も下士官の墓碑も混在しています。
それも特徴だと思いました。



右側面は、死亡年月日。
舘、喜多、荒木とちがうのは、「病没」の二文字が
入っていることです。

左側面が個人履歴ですが、かなりはっきり読めます。
そのために、大きな表示にしました。



高基○○國士族安政三丙辰年四月十四日生於武蔵國豊嶋郡四谷木番町明治六年六月二日應徴為大阪鎮台歩兵第四大隊兵卒長○昇級○第九聯隊第二大隊伍長明治八年十月二十日病没大津営所病室

○○は、解読次第書き入れることにします。

この墓碑には明確に「士族」と書かれています。
「安政三丙辰年」は、1856年にあたります。
明治6(1873)年に入隊したとき、満年齢で17歳。
このときは、「第四大隊」。
「十八番大隊」と同じく聯隊へ改組前の大隊です。
先に見たように、第四大隊は、明治7年5月に
徴兵が入ってきたので、第十聯隊の第一大隊となります。
高基は、優秀だったんでしょうね、
徴兵からなる第九聯隊第二大隊に配属されたとき、
伍長となっています。
大津営所に明治8年3月に移動したとしても、
半年と少しの10月20日に病死。19歳です。
士族から新政府軍の下士官となることで
生きる道を見つけようとしていた矢先の死。

生田高基の生まれは、「武蔵國豊嶋郡」
つまり、今日の東京都ですね

なぜ東京の人なんでしょうか。

「堀田音吉之墓」(22歳)@旧大津陸軍墓地F332008/10/23

「堀田音吉之墓」@旧大津陸軍墓地
旧大津陸軍墓地のFブロック
4番目に古い墓碑は「堀田音吉之墓」
舘源左衛門、喜多圭三郎、荒木彌兵衛らの
墓碑とちがい、”之”が入っているんですね。



右側面は、歿年月日。
「明治八年十二月七日」と刻まれています。



石がごつごつして、文字のディテールが消えています。
「嘉永六年八月」の文字が一行目に見えますが、
これは、1853年にあたります。
となると、満年齢で22歳の命。
二行目からは「明治七年九月一日應徴為」
三行目の最後は「明治八年」

あとは読み取るのが困難です。
他の墓碑と見比べながら、解読しましょう。

「三浦末吉墓」@旧大津陸軍墓地F322008/10/23

「三浦末吉墓」@旧大津陸軍墓地
旧大津陸軍墓地のFブロック。
一番後ろの列を右から左に墓碑文を解読しようとしています。
8柱あるうちの右から6番目。左から3番目にあたります。

ある意味単調な作業ですけれど、
一日で数十とはかどるわけではないですね。
深呼吸をして、肩のこりをほぐしてと・・・。



やはり、右側面に没年月日。
明治八年六月二十六日あるいは十六日と読めます。



文字がびっしり書かれているのはわかりますが、
その輪郭がぼやけています。
画数の少ない漢数字は読み取れても、
普通の漢字は困難ですね。

前田哲男『自衛隊 変容のゆくえ』(岩波新書)2008/10/23

前田哲男『自衛隊 変容のゆくえ』(岩波新書)
 新テロ特措法が衆議院本会議を可決されていったのは、21日のことでした。私は、過去の戦争を跡付ける地道な作業をしていますが、それは目の前で起こっている動きと無縁の作業ではありません。
 アフガニスタンで戦争をつづけるアメリカへの給油は、戦争行為そのものです。それを自民、公明が強行していくことを承知で、本会議での趣旨説明や討議を省略する日程を提案した民主は、採決で反対しても、実質上は推進という姿勢は見え透いているものです。
 アメリカの従順な僕としての姿をあらためて晒したものです。

 この採決がなければ、前田哲男『自衛隊 変容のゆくえ』(岩波新書)をわざわざ買わなかったかも知れません。
 明治10年代までの日本陸軍は、内戦を想定したものでしたが、その後、征服戦争をもっぱらとする軍隊に変貌していき、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、中国戦争、対米戦争へと突き進みました。
 いま同じ流れが、今度はアメリカの戦争のパーツに貶められた状態ですすもうとしています。
 防衛庁は防衛省に格上げされ、自衛隊は米軍とともに海外で戦争することを主任務とする軍隊に変貌しました。それはこの本が指摘するとおりだと思います。
 その姿をあらためて胸に刻み、自分自身がこの流れを押しとどめる力になりたいと思ったのです。E.H.Carrのいうように歴史とは現在と過去との対話。過去に照らされた現代の醜悪な姿にこそモノ申すべきときだと思いました。

                            


BIN★「この記なんの記」ブログ情報 August 12 , 2011



 西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。

戦争にかかわる碑

  ■ 忠魂碑・慰霊碑

    ○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など

    ○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)

    ○ 大津市南部の忠魂碑

民間墓地の戦没者

 □ 滋賀県の西南戦争の戦没者

 □ 高島市(高島郡)の戦没者

  ■ 西南戦争(西南之役) 1877年

   ● 戦病死者名簿

      *高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)

  ■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年

   ,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)

      『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。

  ■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年

   ● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)

      ○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿

    ○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。

 公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
 □ ブロック 埋葬者名簿

     陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある

 □ ブロック 埋葬者名簿

     日清戦争期に戦病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

  ■ 大津市作成の名簿順

  ■ あいうえお順

     日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治8年から11年までに病死した下士官と
          兵卒の墓碑が37基


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
         すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
          合計98基。すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)

 □ 西南戦争の戦死者

 □ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿

 □『大津市志』

 □ 滋賀郡膳所町

 □ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)