お元気ですか?

大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。


なにをテーマに書こうかと迷いながら

2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。

2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、

気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。


戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。

通信兵だった父や防空監視隊にいた母から

聞かされた話は、

戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない

という思いを強くさせるものでした。

ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、

国家の理屈で議論が進みます。

同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。

しかし、戦争は、最悪の暴力です。

私は草の根の痛み、

どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で

書いていきたいと思っています。


あまり楽しめないブログかも知れませんが、

お気軽に感想やコメントをお寄せください。


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日露戦争の墓碑が、北浜の墓地に3基ありました2009/06/20

日露戦争の墓碑が、北浜の墓地に3基ありました
日露戦争は、旧陸軍の文書のなかでは、
「明治37・38年戦役」と呼ばれています。
西暦でいくと、1904年と1905年です。
いまから、100年ほどまえですね。

NHKが司馬遼太郎の『坂の上の雲』を
ドラマ化して、放映するらしいので、再び
日露戦争が大きな関心の的となることでしょう。

日露戦争は、その10年前の日清戦争とは
比べ物にならないほど多くの戦死者を出しました。
ですから、日本の社会に与えた衝撃は大きいはずです。

いまその衝撃をモノとして確認できるのは、
記念碑や墓碑などです。

大津市から高島市までが、
私の仕事のカバーエリヤです。
これにあわせて、日露戦争の墓碑を
こつこつと見つけ出しては記録しています。

あらたに3基見つけました。
もっとも、そのうち1基は推測ですけれど。
形は、高島市とちがって、四角錘でした。

その場所は、旧志賀町の北浜。
ヨットクラブがある161号線沿い。
写真では、左手に見えている墓地です。

日露戦争の個人墓碑から@和邇北浜2009/06/20

和邇北浜にある日露戦争の個人墓碑のひとつ
大津市和邇北浜の墓地は、地図で見ると、
真光寺さんの敷地にあるものでしょうか?
広い墓地の真ん中を道路が貫通したため、
本堂と墓地の一部が分かれたのかも知れません。
今度、ご挨拶と確認するのがいいでしょうね。

それはさておき、黒く汚れた墓碑が1柱が
遠くからでも目立っています。
墓石を囲む鉄柵のさびが付着した様子です。



正面の文字は汚れで読み取りが困難。
「陸軍近衛歩兵上等兵」でしょうか。

右側面(一番上の写真=クリックを)には、履歴。
戦死にいたった経過が刻まれています。

明治三十六年入営。翌年二月日露開戦スルヤ第一軍附トシテ出征。九連城、遼陽等ノ戦闘ニ参加。三十七年十月十二日沙河大戦ニ於テ敵弾頭部ニ貫通シテ遂ニ戦死ス。

軍が刻むおきまの文章ではないところに、
個人墓碑を建てた人の姿が見えるようです。

日露戦争は、戦死者があまりに多かったために、
軍は個人墓碑を公には建設しませんでした。
予算がとても足りないということでしょう。
大津市の旧陸軍墓地には、合葬碑があるだけです。
息子を失った個人の無念の思いが、自費での
個人墓碑を建設することに向かったのでしょうね。

遙か遠い地で戦死した若者の墓碑の出現。
際だつ異質の存在として人目を惹いたと思われます。

二つの日露戦争の墓碑@和邇北浜2009/06/20

二つの日露戦争の墓碑@和邇北浜
まだ十数カ所しか民間墓地を回っていない気がします。
それでも、”カン”が働くのです。
これは、きっと日露戦争期の墓碑だと。

墓碑に、オーラがあるのです(笑)。

上の写真の墓碑を見たとき、
やはり、ピンときました。

下の石垣はあとで造り、載せたんでしょう。
墓石は、汚れは少ないのです。
しかし、文字は摩滅していて、読み取りが難しい・・・。

手前の墓碑からは、旅順要塞での戦死の記述を
読み取ることはできます。

戦争は、歴史教科書のなかにあるのではなく、
生々しく身近な事件だということを
100年の間、静かに語っています。

問題は、耳をもつこと・・・。

水鳥が来るまであと一月です2009/06/20

新旭の湖岸には水鳥の姿はありませんでした
新旭水鳥観察センターは、癒しのスポット。
しかし、湖岸には水鳥の姿はありません。

センターから湖岸に沿って、サイクルロードが整備されています。



水鳥を観察できる広場もありますが、
いまは人の姿がありません。
夕暮れ時なので、なにか寂しげです。



アジサイが水際にあり、清楚な美しさを見せていました。


                            


BIN★「この記なんの記」ブログ情報 August 12 , 2011



 西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。

戦争にかかわる碑

  ■ 忠魂碑・慰霊碑

    ○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など

    ○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)

    ○ 大津市南部の忠魂碑

民間墓地の戦没者

 □ 滋賀県の西南戦争の戦没者

 □ 高島市(高島郡)の戦没者

  ■ 西南戦争(西南之役) 1877年

   ● 戦病死者名簿

      *高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)

  ■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年

   ,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)

      『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。

  ■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年

   ● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)

      ○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿

    ○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。

 公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
 □ ブロック 埋葬者名簿

     陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある

 □ ブロック 埋葬者名簿

     日清戦争期に戦病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

  ■ 大津市作成の名簿順

  ■ あいうえお順

     日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治8年から11年までに病死した下士官と
          兵卒の墓碑が37基


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
         すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
          合計98基。すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)

 □ 西南戦争の戦死者

 □ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿

 □『大津市志』

 □ 滋賀郡膳所町

 □ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)