お元気ですか?
大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。
なにをテーマに書こうかと迷いながら
2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。
2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、
気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。
戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。
通信兵だった父や防空監視隊にいた母から
聞かされた話は、
戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない
という思いを強くさせるものでした。
ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、
国家の理屈で議論が進みます。
同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。
しかし、戦争は、最悪の暴力です。
私は草の根の痛み、
どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で
書いていきたいと思っています。
あまり楽しめないブログかも知れませんが、
お気軽に感想やコメントをお寄せください。
ブーゲンビル島の戦いの戦死者の墓碑@大津市 ― 2009/07/04
ブーゲンビル島の戦いは、太平洋戦争の末期、
1944年11月1日から1945年8月21日まで、
日本軍と米軍(およびオーストラリア軍)の間で
戦い抜かれました。
日本軍が占領したのは、1942年で、
ガタルカナル島のたたかいのなかで、
飛行場がつくられ、ラバウル基地の
中間点として、重要な拠点となりました。
ところが戦況の悪化によって、1944年
10月以降は、アメリカ軍の侵攻の目標となりました。
そして、11月に上陸となったのです。
上の墓碑は、昭和25年に建立されています。
戦争中には、「ブーゲンビル」ではなく、
「ボーゲンビル」といわれたそうです。
戦後五年経って、表記が改まったのでしょうか。
それに、階級名が刻まれていません。
このことも、気になりました。
ところで、戦死の年月日ですが、
「昭和二十年七月十八日」となっています。
終戦直前の末期の戦死です。
このときには、米軍とではなく、
オーストラリア軍と戦っていました。
ブーゲンビル島は別名「墓島」と
呼ばれました。
蚊が媒介するマラリヤが兵士の間で、
猛威を振るったからです。
まともな食料もなく、衣料品もなく。
1944年11月1日から1945年8月21日まで、
日本軍と米軍(およびオーストラリア軍)の間で
戦い抜かれました。
日本軍が占領したのは、1942年で、
ガタルカナル島のたたかいのなかで、
飛行場がつくられ、ラバウル基地の
中間点として、重要な拠点となりました。
ところが戦況の悪化によって、1944年
10月以降は、アメリカ軍の侵攻の目標となりました。
そして、11月に上陸となったのです。
上の墓碑は、昭和25年に建立されています。
戦争中には、「ブーゲンビル」ではなく、
「ボーゲンビル」といわれたそうです。
戦後五年経って、表記が改まったのでしょうか。
それに、階級名が刻まれていません。
このことも、気になりました。
ところで、戦死の年月日ですが、
「昭和二十年七月十八日」となっています。
終戦直前の末期の戦死です。
このときには、米軍とではなく、
オーストラリア軍と戦っていました。
ブーゲンビル島は別名「墓島」と
呼ばれました。
蚊が媒介するマラリヤが兵士の間で、
猛威を振るったからです。
まともな食料もなく、衣料品もなく。
墓碑に「死」が訪れるとき、未来に生きるとき ― 2009/07/04
上の写真は、ある民間墓地の隅を写したものです。
奥のとんがった墓碑は、戦死者の墓碑。
「陸軍兵長」の文字がかろうじて見えます。
もはや縁戚も途絶え、ここに移されてきたのでしょう。
他の碑文は、他の墓石の陰となってしまい、
読み取ることができません。
戦死者のメッセージを伝える使命は、石の命が
尽きるまえに、絶たれようとしています。
記憶は永遠ではありません。
それをもつ人間の肉体がなくなれば、消えてゆきます。
墓碑は、人の死を硬い石に刻んで、後世に残すものです。
しかし、石とても永遠ではありません。
明治4年ごろを日本の近代的な軍隊の創立と
するならば、その頃からの墓碑をまとめて、
見ることができるのは、大坂の玉造にある
「旧真田山陸軍墓地」です。
鮮やかに文字が残っている立派な墓碑とともに、
墓石が崩れ去り、碑文の文字が薄れ、
もはや土くれ・岩くれとなった墓碑を
いくつも見ることできます。
それは、墓碑の墓場、記憶の墓場でもあったのです。
NPO「旧真田山墓地とその保存を考える会」が
研究と保存のための活動をしていますが、
この事態は容易には変えることはできません。
陸軍墓地は、国の財産。
市に予算の持ち出しをさせて、
管理をさせているにすぎません。
戦後も、公園や道路建設によって、削られ、
個人碑は捨てられ、一つの記念碑に
代えられる例がいくつもあります。
墓碑や記念碑は、文字を失えば、
記憶の媒体であることをやめてしまいます。
それは、墓碑や記念碑の死。
民間墓地の戦死者の墓碑は、別の理由で
文字を残したまま失われていきます。
つまり、無縁仏になり、無縁塚に捨てられるのです。
民間墓地は経営体があり、新陳代謝することで
維持・管理されることは避けられません。
そういう例をいくつも見てきました。
個人の力では、無縁塚を解体して、
墓碑文を読み取ることなどできません。
積まれてた状態で、なんとか読み取ろうと
するのがせいぜいなのです。
それは、仕方のないことなのでしょうか。
日本国憲法で、二度と侵略しませんという
確約をすることで、アジアの人々などを
多数死亡させた罪を少しでも贖う内容を
もっています。
それすらも実質上は破られています。
いまや憲法はぼろぼろにされています。
しかし、武器の携行が強行されても、
戦闘は許さない強い歯止めとして機能しています。
ですから、
「2009年○○月○○日 ソマリア海域にて戦死」とか
「2008年○○月○○日 イランのサマーワ近郊にて戦死」
などという墓碑を刻む事態は、避けることができています。
それも、いつまでのことでしょうか。
私は思います。
いま、これらの戦死者の墓碑を思い出せ、
二度と刻んではならない文字ではなかったのか。
これらの墓碑が伝えようとしているメッセージは、
まだ生きている。
その使命を終えていない。
むしろ、いまこそ、そのメッセージを生かすときだ
・・・と。
奥のとんがった墓碑は、戦死者の墓碑。
「陸軍兵長」の文字がかろうじて見えます。
もはや縁戚も途絶え、ここに移されてきたのでしょう。
他の碑文は、他の墓石の陰となってしまい、
読み取ることができません。
戦死者のメッセージを伝える使命は、石の命が
尽きるまえに、絶たれようとしています。
記憶は永遠ではありません。
それをもつ人間の肉体がなくなれば、消えてゆきます。
墓碑は、人の死を硬い石に刻んで、後世に残すものです。
しかし、石とても永遠ではありません。
明治4年ごろを日本の近代的な軍隊の創立と
するならば、その頃からの墓碑をまとめて、
見ることができるのは、大坂の玉造にある
「旧真田山陸軍墓地」です。
鮮やかに文字が残っている立派な墓碑とともに、
墓石が崩れ去り、碑文の文字が薄れ、
もはや土くれ・岩くれとなった墓碑を
いくつも見ることできます。
それは、墓碑の墓場、記憶の墓場でもあったのです。
NPO「旧真田山墓地とその保存を考える会」が
研究と保存のための活動をしていますが、
この事態は容易には変えることはできません。
陸軍墓地は、国の財産。
市に予算の持ち出しをさせて、
管理をさせているにすぎません。
戦後も、公園や道路建設によって、削られ、
個人碑は捨てられ、一つの記念碑に
代えられる例がいくつもあります。
墓碑や記念碑は、文字を失えば、
記憶の媒体であることをやめてしまいます。
それは、墓碑や記念碑の死。
民間墓地の戦死者の墓碑は、別の理由で
文字を残したまま失われていきます。
つまり、無縁仏になり、無縁塚に捨てられるのです。
民間墓地は経営体があり、新陳代謝することで
維持・管理されることは避けられません。
そういう例をいくつも見てきました。
個人の力では、無縁塚を解体して、
墓碑文を読み取ることなどできません。
積まれてた状態で、なんとか読み取ろうと
するのがせいぜいなのです。
それは、仕方のないことなのでしょうか。
日本国憲法で、二度と侵略しませんという
確約をすることで、アジアの人々などを
多数死亡させた罪を少しでも贖う内容を
もっています。
それすらも実質上は破られています。
いまや憲法はぼろぼろにされています。
しかし、武器の携行が強行されても、
戦闘は許さない強い歯止めとして機能しています。
ですから、
「2009年○○月○○日 ソマリア海域にて戦死」とか
「2008年○○月○○日 イランのサマーワ近郊にて戦死」
などという墓碑を刻む事態は、避けることができています。
それも、いつまでのことでしょうか。
私は思います。
いま、これらの戦死者の墓碑を思い出せ、
二度と刻んではならない文字ではなかったのか。
これらの墓碑が伝えようとしているメッセージは、
まだ生きている。
その使命を終えていない。
むしろ、いまこそ、そのメッセージを生かすときだ
・・・と。
カタバミが飾る路地の石垣 ― 2009/07/04
ボランティア・カフェにて 高齢者さんたちといくさ話 ― 2009/07/04
事務所の近くに、ボランティアさんたちが
交代でやっているカフェがあります。なんでも一杯100円。
会議の合間の10分間に、飛び込みで
アイス・コーヒーを頼みました・・・猫舌なので。
「あ、忙しいんですね、はいはい」と
出てきたのは、ホットコーヒー。
仕方なく、腰を下ろして、飲むことにしました。
そこには、高齢者が3人ほど、談笑中。
私が入るなり、「女の人が来たかと思った」と
高齢者の女性が一言叫びました。
ボランティアさんと私が固まりそうになります。
どこから見ても、間違う余地がないのに・・・。
しかし、高齢者さんたちは、おかまいなしで
別の話題へ戻っていきます。
・・・どうも戦争にかかわる思い出話の様子。
男性の高齢者は、
「ウチには、中国の写真がいっぱい貼ったアルバムが
あったけど、燃やしてしまった。中国でひどいことをしたので、
家にあったら、まずいからといって。終戦後に・・・・。」
白髪の女性の高齢者は、
「ウチの人は、ぎりぎり助かった。頭がよかったんで、
飛行機乗りを志願したら、いっぱつで合格した。
練習しにいったら、地上におかれている木の飛行機。
それで、一ヶ月過ぎたら、終戦やったって」
興味を覚えた私が割って入りました。
「それは、どこの飛行隊だったんですか?」
「う~ん、なんやらいってたけど、忘れた。」
「いま、おいくつなんですか?」
もう一人の女性の高齢者がすかさず、
「あんた、女性に年きいたらだめよ~」
「あ、すみません」と謝ると、白髪の女性は、
「こう見えても、私昭和生まれ、ハハ」
「あんたは?」と男性の高齢者に話がふられた。
「わしは戦争はいっとらん。あとすこしの年やった。」
琵琶湖上はB29編隊の通過経路でした。
しかし、大津が爆撃されたのは2度。
そのうち、一箇所は東レ工場で、死者も出たはずでした。
「大津の東レ工場に爆弾が落とされての知っていますか?」
と質問してみました。すると、白髪の女性は、
「ああ、知っている。あの電器屋やっているOさんの
お父さん、あの人が怪我しはって・・・。」
と、Oさんの説明がしばらく続く。
「わしの家にも破片があった。ウチの父親は技師やったから。
東レに努めていた。」と男性の高齢者。
「工場では、魚雷つくっとったんや、だから爆撃された」
まさか、その近くにいた人たちとは思いもしませんでした。
時計を見ると、10分が過ぎていました。
お礼をいって、あわてて、その場を去りました。
「また、くるから、続きを話してください。」というと、
「ああ、そのころにはもう死んどるかもしれんで~」
と元気な声。
・・・・ところで
大津市の歴史博物館で、7月25日から、
「戦争と市民」展が開催される予定です。
事務所にむかう途中でポスターを見かけました。
(上の写真です)
今日の高齢者さんたちの話と重なる企画ですね。
交代でやっているカフェがあります。なんでも一杯100円。
会議の合間の10分間に、飛び込みで
アイス・コーヒーを頼みました・・・猫舌なので。
「あ、忙しいんですね、はいはい」と
出てきたのは、ホットコーヒー。
仕方なく、腰を下ろして、飲むことにしました。
そこには、高齢者が3人ほど、談笑中。
私が入るなり、「女の人が来たかと思った」と
高齢者の女性が一言叫びました。
ボランティアさんと私が固まりそうになります。
どこから見ても、間違う余地がないのに・・・。
しかし、高齢者さんたちは、おかまいなしで
別の話題へ戻っていきます。
・・・どうも戦争にかかわる思い出話の様子。
男性の高齢者は、
「ウチには、中国の写真がいっぱい貼ったアルバムが
あったけど、燃やしてしまった。中国でひどいことをしたので、
家にあったら、まずいからといって。終戦後に・・・・。」
白髪の女性の高齢者は、
「ウチの人は、ぎりぎり助かった。頭がよかったんで、
飛行機乗りを志願したら、いっぱつで合格した。
練習しにいったら、地上におかれている木の飛行機。
それで、一ヶ月過ぎたら、終戦やったって」
興味を覚えた私が割って入りました。
「それは、どこの飛行隊だったんですか?」
「う~ん、なんやらいってたけど、忘れた。」
「いま、おいくつなんですか?」
もう一人の女性の高齢者がすかさず、
「あんた、女性に年きいたらだめよ~」
「あ、すみません」と謝ると、白髪の女性は、
「こう見えても、私昭和生まれ、ハハ」
「あんたは?」と男性の高齢者に話がふられた。
「わしは戦争はいっとらん。あとすこしの年やった。」
琵琶湖上はB29編隊の通過経路でした。
しかし、大津が爆撃されたのは2度。
そのうち、一箇所は東レ工場で、死者も出たはずでした。
「大津の東レ工場に爆弾が落とされての知っていますか?」
と質問してみました。すると、白髪の女性は、
「ああ、知っている。あの電器屋やっているOさんの
お父さん、あの人が怪我しはって・・・。」
と、Oさんの説明がしばらく続く。
「わしの家にも破片があった。ウチの父親は技師やったから。
東レに努めていた。」と男性の高齢者。
「工場では、魚雷つくっとったんや、だから爆撃された」
まさか、その近くにいた人たちとは思いもしませんでした。
時計を見ると、10分が過ぎていました。
お礼をいって、あわてて、その場を去りました。
「また、くるから、続きを話してください。」というと、
「ああ、そのころにはもう死んどるかもしれんで~」
と元気な声。
・・・・ところで
大津市の歴史博物館で、7月25日から、
「戦争と市民」展が開催される予定です。
事務所にむかう途中でポスターを見かけました。
(上の写真です)
今日の高齢者さんたちの話と重なる企画ですね。
レッドテール ― 2009/07/04
モーのふわふわ毛皮の感じがでればいいのに ― 2009/07/04
夏ですね、この花の枝がいつも揺れています ― 2009/07/04
「昭和二十年七月於大津戦死」と刻まれた墓碑 ― 2009/07/04
大津は戦場にはならなかったはずなのに、
なぜ、「於大津戦死」なのか?
この墓碑を見たとき、そういう疑問がわきました。
表の墓碑銘には、「陸軍軍属」の文字。
これ以外に、戦死の事情を知らせる文言はありません。
考えられるのは、空襲による死です。
大津市が最初に空襲・爆弾投下をうけたのは、
昭和20(1945)年7月のことです。
同月24日午前七時四十七分。
石山の東洋レーヨン工場に爆弾(模擬原爆)が投下されたのです。
『新修大津市史』によれば
さらに、7月30日。
どちらの空襲の被害者なのでしょうか?
墓碑には「海軍軍属」ではなく、「陸軍軍属」
となると、7月30日に戦死した1名の方では
ないでしょうか。
持ち場は、陸軍少年飛行兵学校。
なぜ、「於大津戦死」なのか?
この墓碑を見たとき、そういう疑問がわきました。
表の墓碑銘には、「陸軍軍属」の文字。
これ以外に、戦死の事情を知らせる文言はありません。
考えられるのは、空襲による死です。
大津市が最初に空襲・爆弾投下をうけたのは、
昭和20(1945)年7月のことです。
同月24日午前七時四十七分。
石山の東洋レーヨン工場に爆弾(模擬原爆)が投下されたのです。
『新修大津市史』によれば
大津警察署宛「空襲被害報告書」によれば、兵器部品倉庫付近に落ちた爆弾のため、死者十六名(従業員10、海軍軍属6)、重傷者13名を出し、倉庫・売店など800坪の建物を全壊、寄宿舎など1440坪の建物が半壊に及んだが、機材・設備に被害はなかった
さらに、7月30日。
7月30日午後3時半、下阪本村(現在の下阪本学区)の滋賀海軍航空隊にロケット弾14発が投下され、同時刻に大津市別所の大津陸軍少年飛行兵学校もロケット弾5発を見舞われ、死者1名を出す
どちらの空襲の被害者なのでしょうか?
墓碑には「海軍軍属」ではなく、「陸軍軍属」
となると、7月30日に戦死した1名の方では
ないでしょうか。
持ち場は、陸軍少年飛行兵学校。
西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。
戦争にかかわる碑
■ 忠魂碑・慰霊碑
○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など
○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)
○ 大津市南部の忠魂碑
民間墓地の戦没者○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。
□ 滋賀県の西南戦争の戦没者
□ 高島市(高島郡)の戦没者
■ 西南戦争(西南之役) 1877年
● 戦病死者名簿
*高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)
■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年
,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)
『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。
■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年
● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)
○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿
○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
□ Aブロック 埋葬者名簿
陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある
□ Bブロック 埋葬者名簿
日清戦争期に戦病死した下士官の墓地
□ Cブロック 埋葬者名簿
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Dブロック 埋葬者名簿(作成中)
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Eブロック 埋葬者名簿
■ 大津市作成の名簿順
■ あいうえお順
日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。
□ Fブロック 埋葬者名簿
明治8年から11年までに病死した下士官と
兵卒の墓碑が37基
□ Kブロック 埋葬者名簿
「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
すべて兵卒の墓碑。
□ Lブロック 埋葬者名簿
「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
合計98基。すべて兵卒の墓碑。
□ Mブロック 埋葬者名簿(作成中)
陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)
□ 西南戦争の戦死者
□ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿
□『大津市志』
□ 滋賀郡膳所町
□ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)
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