お元気ですか?

大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。


なにをテーマに書こうかと迷いながら

2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。

2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、

気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。


戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。

通信兵だった父や防空監視隊にいた母から

聞かされた話は、

戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない

という思いを強くさせるものでした。

ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、

国家の理屈で議論が進みます。

同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。

しかし、戦争は、最悪の暴力です。

私は草の根の痛み、

どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で

書いていきたいと思っています。


あまり楽しめないブログかも知れませんが、

お気軽に感想やコメントをお寄せください。


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インパール作戦(1944.3-7)での戦死者の墓碑?2009/07/07

インパール作戦(1944)での戦死者の墓碑
「インパール作戦」でブログ検索をかけると、
7月4日にエントリーされている方がけっこうおられますね。
つまり、7月4日は、アメリカ独立記念日であると同時に、
この作戦の中止を大本営が決定した日でもあるからでしょう。

・・・・・
琵琶湖を望む岡に墓碑が多数並んでいます。
そこは、膳所事件で切腹させれた藩士の墓碑が
あることでも、知られているはずの墓地。

墓守のかたに了解をえて、墓地を回りました。

入り口の近くから、かなりの割合で、
戦死者の墓碑が並んでいます。

階級と氏名、そして叙勲が正面に。
側面は、簡単に死亡年月日だけのものから、
詳しい戦歴まで刻まれたものまで様々です。
民間墓地ですから、当然、費用は遺族もち。
すべての遺族がつくる経済力があったとは思えません。
ですから、これらは戦死者の一部に過ぎないのでしょう。

上の墓碑には、「陸軍中尉」という階級名と、
側面に「アッサム」という文字が刻まれていました。
アッサム・・・たしか、雨が多い地方でしたね。

「昭和19年6月12日22時30分
 印度国アッサム州上タワイ戦闘戦死」

と読めます。このときには、私の頭には、
「インパール作戦」が浮かびませんでした。

「インパール作戦」は、ビルマ確保のためには、
イギリス軍の拠点インパール攻略が必要と
考えたところから、生まれたものでした。
不安要素を抱えながらも、1944年3月8日に開始。
参加したのは、10万近くの日本軍。
しかし、あらゆる面でずさんな作戦に翻弄され、
日本軍の戦死者は、約3万8千人。戦病死者は、4万人以上。
壊滅状態で作戦を終えたのです。
撤退の道は、見方の死体が累々と横たわる「白骨街道」
当初から過ちがはっきりしているのにもかかわらず、
中止命令が下ったのは7月4日。
あまりに遅い決断でした。

調べれば調べるほど、愚かな作戦と作戦指導。
地位保全を優先して、それに先立つ作戦の失敗から
学ばない戦争指導者たち。
この作戦のなかで、高級将校から、公然と命令に
違反する(やむをえず)人たちが出たのは、
いかに無謀な(戦争そのものがそうであることを除けば)
作戦であったかを示しています。
そういう事態がわかったのなら、なぜ、訂正できないのか。

理性も知性も失っていく指導部の姿とともに、
食料や弾薬の不足、マラリヤに追撃する敵兵
そのなかで撤退する将兵の無惨さを思うと、
私の机の周りの空気が凍る気がしました。

戦争体験を風化させてはいけない。
決して、忘れてはならない。
侵略される立場の人々も、
侵略の手段として使われる将兵も、
ともに悲惨な運命を迎えるのですから。

アッツ島の戦い(1943.5)の戦死者の墓碑2009/07/07

アッツ島の戦い(1943.5)の戦死者の墓碑
墓碑文を読みながら、ハッと立ち止まることがあります。

「北海アッツ島ニ於テ
 昭和十八年五月二十九日玉砕ス」

「アッツ島」といわれて、すぐイメージできる世代と
そうでない世代があるはず。
私は、まだイメージできる世代です。
そして、「玉砕」という言葉も。

さて、アッツ島の戦いは、1943年。
アメリカ軍上陸の5月12日から
最後の突進の29日までの17日間。

戦死者は、2,638人。
そのうちの一人の方の墓碑ということになります。
ちなみに、捕虜は27名。

「戦死」と書かれずに、「玉砕」と書かれているのは、
戦死の状況が把握できないからだと思われます。
それを伝える人間もいなくなって。

この玉砕話は、戦争画の主題にもなりました。

第一次ソロモン海戦(1942.8)の戦死者(海軍飛行兵曹長)の墓碑2009/07/07

(第一次)ソロモン海戦の戦死者(海軍飛行兵曹長)の墓碑
上の墓碑には、「故海軍飛行兵曹長」と刻まれています。

「昭和十七年八月九日
 ソロモン海戦東部ニューギニア
 に於いて戦死 享年二十二才」

日付から考えて、第一次ソロモン海戦での戦死者だと思われます。
第一次ソロモン海戦は、昭和17(1942)年。
8月8日から9日に、日本軍と米、英、豪の連合軍との海戦。

日本軍は、海戦に勝利しながら、ガタルカナル上陸を許し、
戦術的勝利、戦略的敗北の例となっています。

ビアク島の戦い(1944)の戦死者2009/07/07

ビアク島の戦い(1944)の戦死者
この墓碑を見るまでは、ビアク島を知りませんでした。

アメリカ軍が、マリアナ諸島への侵攻の準備として、
飛行場確保を目的として、ビアク島への上陸と
占領の作戦を開始しました。
昭和19(1944)年5月27日のことです。
日本の守備隊は奮闘しましたが及ばず、
8月20日に、アメリカ軍は、作戦の終了を発表しました。

ニーギニアにおける日本軍の抵抗としては
最高とされています。

この島に残された日本兵の生き残りのための
戦いは8月20日を過ぎても終わっていませんでした。
米軍は飛行場の確保という作戦の終結後、
敗残兵の掃討作戦を続けました。
それは、敗戦後、収容されるまで続きました。

上の墓碑は、月見山墓地にあります。
墓碑に刻まれた戦死年月日は、
昭和19(1944)年12月12日となっています。
この方は、掃討作戦のなかで亡くなったのですね。
年齢も34才。兵士としては、高齢です。

当初の日本の兵力は、増補ふくめて1万5千人。
戦死・戦病死あわせて、約1万人。
捕虜として収容された日本兵は、520名。

マリアナ海戦で戦死した42歳の海軍一等兵曹の墓碑2009/07/07

マリアナ海戦で戦死した42歳の海軍一等兵曹の墓碑
マリアナ沖海戦は、日本の空母機動艦隊が、
アメリカのそれに決戦を挑んだ戦いでした。
結果は、日本海軍が壊滅的な敗北。

航空母艦3沈没
油槽船2沈没
航空母艦1中破
航空母艦3小破
戦艦1小破
重巡洋艦1小破
艦載機378機
(以上 Wikipediaによる)

海上の航空勢力を一気に失いました。

行われたのは、昭和19(1944)年。
6月19日から20日のことでした。

上の写真は、海軍一等軍曹の墓碑。
水車谷の墓地にあります。

「昭和十九年六月十九日午後三時
 中部太平洋上ニテ戦死 四十二歳」

年齢が、42歳!

ガダルカナル島で戦死(19444)した陸軍上等兵の墓碑2009/07/07

ガダルカナル島の戦いの戦死した陸軍上等兵の墓碑
太平洋戦争で、勝敗をめぐり大きな転換点となったのが、
ミッドウェー海戦とガタルカナル島の戦いと言われています。

ガタルカナル島に米軍が上陸したのは、
昭和19(1944)年8月7日でした。
それから、終戦まで、そして終戦をすぎても、
投降しなかった日本兵もいたのです。

私が最初に思い浮かべるのは、
この島が別名「餓島」と呼ばれるように、
戦死者をはるかに上回る餓死者を出した悲惨な
戦いであったということです。

Wikipediaによれば、参加した日本の兵力は、
36,204名。
うち戦死者が、10,600名。
餓死・戦病死者が、15,000名。

戦いの悲惨さが、この数字からもわかります。

上の陸軍上等兵の墓碑も、水車谷にありました。

「昭和十九年九月十九日ガダルカナル島にて戦死」

碑文にひらがなが使われています。
新しく建て直された墓碑のようですね。

「昭和十九年九月二十四日 ソロモン島ニテ戦死 四十三才」2009/07/07

ソロモン諸島の戦いの戦死者。年齢を見て絶句しました。
上の陸軍兵長の墓碑も、水車谷にありました。
戦死した場所は、「ソロモン島」と刻まれています。

ソロモン島・・・ソロモン諸島のことでしょうね。

・ブカ島
・ブーゲンビル島
・ショートランド島
・チョイセル島
・ベララベラ島
・コロンバンガラ島
・レンドバ島
・ニュージョージア島
・サンタイザベル島
・フロリダ島
・サボ島
・マライタ島
・ツラギ島
・ガダルカナル島
・サンクリストバル島
・レンネル島
などを含んでいます。

戦死されたのは、
「昭和十九年九月二十四日」

上陸する米軍との戦いのはじめの段階で
戦死されたのです。

年齢を見て驚きました。四十三才!
奥さんも、子どももいだでしょうに・・・。
無念の気持ちを抱いて、逝かれたことが、
想像できます。

                            


BIN★「この記なんの記」ブログ情報 August 12 , 2011



 西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。

戦争にかかわる碑

  ■ 忠魂碑・慰霊碑

    ○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など

    ○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)

    ○ 大津市南部の忠魂碑

民間墓地の戦没者

 □ 滋賀県の西南戦争の戦没者

 □ 高島市(高島郡)の戦没者

  ■ 西南戦争(西南之役) 1877年

   ● 戦病死者名簿

      *高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)

  ■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年

   ,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)

      『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。

  ■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年

   ● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)

      ○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿

    ○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。

 公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
 □ ブロック 埋葬者名簿

     陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある

 □ ブロック 埋葬者名簿

     日清戦争期に戦病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

  ■ 大津市作成の名簿順

  ■ あいうえお順

     日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治8年から11年までに病死した下士官と
          兵卒の墓碑が37基


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
         すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
          合計98基。すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)

 □ 西南戦争の戦死者

 □ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿

 □『大津市志』

 □ 滋賀郡膳所町

 □ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)