お元気ですか?
大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。
なにをテーマに書こうかと迷いながら
2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。
2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、
気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。
戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。
通信兵だった父や防空監視隊にいた母から
聞かされた話は、
戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない
という思いを強くさせるものでした。
ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、
国家の理屈で議論が進みます。
同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。
しかし、戦争は、最悪の暴力です。
私は草の根の痛み、
どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で
書いていきたいと思っています。
あまり楽しめないブログかも知れませんが、
お気軽に感想やコメントをお寄せください。
鎮魂の聖域として残る「忠魂碑(旌忠記念碑)」 ― 2009/07/17
身近な場所にある忠魂碑をネットで探した。
大津市の歴史博物館のサイトでは、検索できなかったが、市内で一つヒットした。場所は、下阪本四丁目。それは、杉浦重剛が乃木希典に依頼して揮毫してもらった碑文をもつ忠魂碑であった。二人とも知られた名前(天皇の教育者としても)であるので、興味がわく。
とりあえず、現物を見に行くことにした。
それらしき付近の神社に立ち寄り、子どもと蝉とりをしていた高齢者に聴いたら、「小学校の近くにあるそれだと思う。毎年、清掃と式典をやっているから」という返事だった。
車を飛ばして、小学校付近を回る。しかし、石柱が見えない。
支所に立ち寄りたずねることにした。表で立ち話をしている職員(実は支所長)の方ともうひとりの人に尋ねたら、即答だった。
「ええ!?あそこがそれだよ!」。
しかし、そんなところに石柱はなかった・・・のだけど。
支所長は、「車をここに止めてどうぞ」と私を促す。
「あんな有名なものを知らないのか」といわれた感じがした。
近くまで行っても、実は、まだわからなかった。
正面に来て、ようやくわかったのだ。
そこの茂み全体が忠魂碑を囲む空間。戦死者の鎮魂のためのサンクチュアリだったのだ。
見終えて戻ると、つかまってしまった。
そこで忠魂碑談義。
「市内で、どれだけの忠魂碑を知っている?」「どれだけ見た?」にはじまって、「昔は、各学区にひとつづつあった。そもそも、唐崎は下阪本村の一部であって」と下阪本のアピールが続く。
やっと終わったと思ったら、「坂本の忠魂碑は見たか?」と聞かれた。 「いいえ」と答えると、場所を教えてもらい、「さあ、いっといで」といわんばかりに見送られた。
大津市の歴史博物館のサイトでは、検索できなかったが、市内で一つヒットした。場所は、下阪本四丁目。それは、杉浦重剛が乃木希典に依頼して揮毫してもらった碑文をもつ忠魂碑であった。二人とも知られた名前(天皇の教育者としても)であるので、興味がわく。
とりあえず、現物を見に行くことにした。
それらしき付近の神社に立ち寄り、子どもと蝉とりをしていた高齢者に聴いたら、「小学校の近くにあるそれだと思う。毎年、清掃と式典をやっているから」という返事だった。
車を飛ばして、小学校付近を回る。しかし、石柱が見えない。
支所に立ち寄りたずねることにした。表で立ち話をしている職員(実は支所長)の方ともうひとりの人に尋ねたら、即答だった。
「ええ!?あそこがそれだよ!」。
しかし、そんなところに石柱はなかった・・・のだけど。
支所長は、「車をここに止めてどうぞ」と私を促す。
「あんな有名なものを知らないのか」といわれた感じがした。
近くまで行っても、実は、まだわからなかった。
正面に来て、ようやくわかったのだ。
そこの茂み全体が忠魂碑を囲む空間。戦死者の鎮魂のためのサンクチュアリだったのだ。
見終えて戻ると、つかまってしまった。
そこで忠魂碑談義。
「市内で、どれだけの忠魂碑を知っている?」「どれだけ見た?」にはじまって、「昔は、各学区にひとつづつあった。そもそも、唐崎は下阪本村の一部であって」と下阪本のアピールが続く。
やっと終わったと思ったら、「坂本の忠魂碑は見たか?」と聞かれた。 「いいえ」と答えると、場所を教えてもらい、「さあ、いっといで」といわんばかりに見送られた。
コメント
トラックバック
このエントリのトラックバックURL: http://nostalghia.asablo.jp/blog/2009/07/17/4440918/tb
※なお、送られたトラックバックはブログの管理者が確認するまで公開されません。
西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。
戦争にかかわる碑
■ 忠魂碑・慰霊碑
○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など
○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)
○ 大津市南部の忠魂碑
民間墓地の戦没者○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。
□ 滋賀県の西南戦争の戦没者
□ 高島市(高島郡)の戦没者
■ 西南戦争(西南之役) 1877年
● 戦病死者名簿
*高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)
■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年
,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)
『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。
■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年
● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)
○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿
○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
□ Aブロック 埋葬者名簿
陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある
□ Bブロック 埋葬者名簿
日清戦争期に戦病死した下士官の墓地
□ Cブロック 埋葬者名簿
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Dブロック 埋葬者名簿(作成中)
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Eブロック 埋葬者名簿
■ 大津市作成の名簿順
■ あいうえお順
日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。
□ Fブロック 埋葬者名簿
明治8年から11年までに病死した下士官と
兵卒の墓碑が37基
□ Kブロック 埋葬者名簿
「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
すべて兵卒の墓碑。
□ Lブロック 埋葬者名簿
「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
合計98基。すべて兵卒の墓碑。
□ Mブロック 埋葬者名簿(作成中)
陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)
□ 西南戦争の戦死者
□ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿
□『大津市志』
□ 滋賀郡膳所町
□ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)
コメントをどうぞ
※メールアドレスとURLの入力は必須ではありません。 入力されたメールアドレスは記事に反映されず、ブログの管理者のみが参照できます。
※なお、送られたコメントはブログの管理者が確認するまで公開されません。