お元気ですか?

大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。


なにをテーマに書こうかと迷いながら

2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。

2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、

気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。


戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。

通信兵だった父や防空監視隊にいた母から

聞かされた話は、

戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない

という思いを強くさせるものでした。

ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、

国家の理屈で議論が進みます。

同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。

しかし、戦争は、最悪の暴力です。

私は草の根の痛み、

どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で

書いていきたいと思っています。


あまり楽しめないブログかも知れませんが、

お気軽に感想やコメントをお寄せください。


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テニアン島で戦死した若者(28歳)の墓碑2009/07/28

テニアンの戦いの戦死者の墓碑
私が戦死者の墓碑を探し歩ける範囲は、
大津市と高島市にほぼ限定されています。

その狭い範囲の中でさえ、
幕末の勤王派弾圧犠牲者の墓碑、
徴兵軍に先立つ士族軍の墓碑、
西南戦争の戦死者、
日清戦争、台湾征服戦争、日露戦争、
第一次世界大戦とシベリア出兵、
日中戦争、太平洋戦争・・・
近代の日本が行った内戦から
中国やラオス、インド、フィリピンなど
への侵略戦争まで
すべての戦争の戦死者の
墓碑を見ることができます。
(細かい戦闘まではよくわかりませんが)

近代日本が、いかに
日本中あまねく、
犠牲者を出してきたのかが、
わかるのです。

上の墓碑には、
「昭和十九年八月二日内南洋
テニアン島ニ於テ戦死」
と刻まれています。

マリアナ沖海戦(1944年6月)で
日本が制海権を失ったあと、
米軍は、つぎつぎと日本軍が
占領している島を攻略します。

サイパンは、7月8日に陥落。
そして、テニアン島へ。
テニアンの戦いは、7月24日から始まり、
8月2日に組織的戦闘は終結します。

この28歳の若者は、
終結の当日に亡くなっているわけです。
(もしくはそうなっているのです)

2009/07/28

小さな河川が町を流れていますが・・・・
たしかに、なんでもない写真です。
ピンぼけで、溝のように細い
河川が写っています。

自分でもなぜ写したのか
わかりません。たぶん、
街中にこんな川があったんだ
・・・くらいの気持ちでした。

それから数日して、雨が降りました。
しかも、わずか10分でしたが、
猛烈な雨でした。

傘を持たずに、昼食に出て、
仕事にもどろうとしたとき、
激しい音を立てて、水が
地上に落ちてきたのです。

傘をもっていても
役立ちそうにありませんでした。
どうしようもなくて、
雨宿りをしていたら、
すぐに空が明るくなり、
澄んだ夏空となりました。

その落差に、雨が降ったという
現実が薄らいでいきました。
しかし、道路は別世界。
水があふれて、
横断歩道と歩道の間は、
ジャンプして渡る他ありません。

静かに流れていた川も
わずかの間に変身し、
茶色く濁り、音と泡を立てて、
流れていました。



ケータイなので、二つとも
写りがよくありませんね。

激しい降雨が1時間以上続くと
どんな事態になるのか・・・・
被災された方々への思いとともに、
恐怖を実感したのでした。

村上春樹『神の子どもたちはみな踊る』2009/07/28

FROG or MR.FROG ?
『A Wild Haruki Chase 世界は村上春樹をどう読むか』は、翻訳話が面白いのです。たとえば、「かえるくん」と「かえるさん」。
 『神の子どもたちはみな踊る』中の短編「かえるくん、東京を救う」には、体長2メートルの話すカエルが登場します。このカエルは、自分を「かえるくん」と自己紹介します。しかし、主人公は、圧倒されてつい「かえるさん」と言ってしまうのです。そのたび、カエルは一本指を立てて、「かえるくん」と訂正するのです。
 そのやりとりのおかしさを英語をどう表現するのかと、アメリカのジェイ・ルービンさんが、悩むのです。
 というのも、英語では、「くん」と「さん」の区別がないからです。
 で、結局どうしたのか。
「かえるくん」=Frog
「かえるさん」=Mr.Frog

 こういうやりとりがあったので、『神の子どもたちはみな踊る』を読んでみようと思いました。
 「かえるくん、東京を救う」は6編ある短編中の5編目にあたりました。
・・・・で、どうだったのか?
「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」・・・を連想しましたが、もう少したってから、感想を書いてみたいと思います。

大谷昭弘 『事件記者』2009/07/28

大谷昭弘 『事件記者』
 TVでよく見るので知人のような気がする大谷昭弘さん。その経歴を見ると読売新聞社の記者だったんですね。私は、黒田ジャーナル時代からしか知りませんでした。
 『事件記者』は、黒田ジャーナルで活躍する原点のような作品なんですね、きっと。そう思って読みました。
 本文は一気に読みましたが、「プロローグ」も「あとがき」もいいですね。
 大谷さんが「帰りなん、いざ」といい、いまある仕事の「原風景」というのは、刑事も、新聞記者も、かつてもっていた「濡れた心」「潤いの心」なんですね。
 彼が言う「濡れた心」は、全編に描かれていますが、形として表現すれば、引用されているある記者の言葉ということになりますね。

神戸・須磨の事件では、阪神大震災を経験した多くの記者がまたこの事件の取材にあたっていた。その一人は「震災を通して、人の心はみんな傷つきやすく、壊れやすい、そんな弱いものなんだ、と初めてわかったような気がする。社会全体も人の弱さを認めてくれたように思った。だからこそ、震災の時に芽生えた神戸のやさしさの芽を摘み取りたくなかった」と記している。記者もまたこんな濡れた心を大事にしてほしい。

                            


BIN★「この記なんの記」ブログ情報 August 12 , 2011



 西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。

戦争にかかわる碑

  ■ 忠魂碑・慰霊碑

    ○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など

    ○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)

    ○ 大津市南部の忠魂碑

民間墓地の戦没者

 □ 滋賀県の西南戦争の戦没者

 □ 高島市(高島郡)の戦没者

  ■ 西南戦争(西南之役) 1877年

   ● 戦病死者名簿

      *高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)

  ■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年

   ,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)

      『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。

  ■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年

   ● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)

      ○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿

    ○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。

 公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
 □ ブロック 埋葬者名簿

     陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある

 □ ブロック 埋葬者名簿

     日清戦争期に戦病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

  ■ 大津市作成の名簿順

  ■ あいうえお順

     日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治8年から11年までに病死した下士官と
          兵卒の墓碑が37基


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
         すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
          合計98基。すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)

 □ 西南戦争の戦死者

 □ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿

 □『大津市志』

 □ 滋賀郡膳所町

 □ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)