お元気ですか?
大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。
なにをテーマに書こうかと迷いながら
2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。
2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、
気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。
戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。
通信兵だった父や防空監視隊にいた母から
聞かされた話は、
戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない
という思いを強くさせるものでした。
ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、
国家の理屈で議論が進みます。
同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。
しかし、戦争は、最悪の暴力です。
私は草の根の痛み、
どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で
書いていきたいと思っています。
あまり楽しめないブログかも知れませんが、
お気軽に感想やコメントをお寄せください。
1891.5.11テロ事件 :吉村昭『ニコライ遭難』 ― 2009/07/31
まとめ買いをした本のなかに、
吉村昭『ニコライ遭難』(新潮文庫)があった。
今晩、これを拾い読み。
私が生まれ育った地は、旧大津町。
現在の大津市の中核である。
そして、この小さな地域で、
1891年5月11年に、
訪日中のロシア皇太子へのテロが起こる。
いわゆる大津事件である。
犯人は、津田三蔵。
ニコライを警備する側の巡査であるだけに、
国家間の紛争と戦争に直結しかねない
重大事件であった。
吉村昭『ニコライ遭難』(1993)は、
この事件を小説として描いている。
そこで登場する地名は、すべてなじみ
のものである。
そういう気軽さで読み続けていると、
旧大津陸軍墓地のなかでも、
目だって大きな墓碑をもつ
ある人物の名前が意外にも登場した。
村治重厚・・・陸軍二等軍医正である。
その部分(新潮文庫で126ぺーじ)。
他にも、この事件についての本を
読んだのだが、この名前に気がつかなかった。
載っていなかったのだろうか、
それとも、見落としたのだろううか。
墓碑によれば、村治重厚は、
大正5(1916)年12月21日に
72歳で亡くなっている。
大津事件のときは、40台半ばである。
軍医になった経過は不明だが、
この事件とその後の日露戦争が
大きな契機になったのだろうと思われる。
日露戦争では、個人的な不幸が訪れる。
重厚のニ男村治昭少尉が
戦死しているのだ(下の墓碑)。
明治37(1904)年8月31日のことである。
ロシアとの関係は、この人物の生涯に
忘れがたい影を落としているのだ。
その発端の事件が、
1891.5.11のテロではないだろうか。
吉村昭『ニコライ遭難』(新潮文庫)があった。
今晩、これを拾い読み。
私が生まれ育った地は、旧大津町。
現在の大津市の中核である。
そして、この小さな地域で、
1891年5月11年に、
訪日中のロシア皇太子へのテロが起こる。
いわゆる大津事件である。
犯人は、津田三蔵。
ニコライを警備する側の巡査であるだけに、
国家間の紛争と戦争に直結しかねない
重大事件であった。
吉村昭『ニコライ遭難』(1993)は、
この事件を小説として描いている。
そこで登場する地名は、すべてなじみ
のものである。
そういう気軽さで読み続けていると、
旧大津陸軍墓地のなかでも、
目だって大きな墓碑をもつ
ある人物の名前が意外にも登場した。
村治重厚・・・陸軍二等軍医正である。
その部分(新潮文庫で126ぺーじ)。
津田巡査を組み伏せた木村警部は、部下と手分けして、大津町の医師村治重厚と塚本安巳のもとに走り、治療をたのんだ。村治と塚本は、診療具を手にして永井宅前に駆けつけた。しかし、ロシア医官ランバフは、応急手当をすませたので、治療にはおよばないと拒否した。
他にも、この事件についての本を
読んだのだが、この名前に気がつかなかった。
載っていなかったのだろうか、
それとも、見落としたのだろううか。
墓碑によれば、村治重厚は、
大正5(1916)年12月21日に
72歳で亡くなっている。
大津事件のときは、40台半ばである。
軍医になった経過は不明だが、
この事件とその後の日露戦争が
大きな契機になったのだろうと思われる。
日露戦争では、個人的な不幸が訪れる。
重厚のニ男村治昭少尉が
戦死しているのだ(下の墓碑)。
明治37(1904)年8月31日のことである。
ロシアとの関係は、この人物の生涯に
忘れがたい影を落としているのだ。
その発端の事件が、
1891.5.11のテロではないだろうか。
コメント
_ たまのまさと ― 2009年07月31日 16時05分35秒
_ BIN★→たまのまさとさん ― 2009年07月31日 22時34分47秒
コメントありがとうございます。
村治重厚氏についての、吉村昭さんの記述は、正確でない気がします。1891年当時は、町医者じゃないかと思えます(私もそう読みました)が、実際は、すでに軍医だった可能性が高いのです。
それについて、記事をかくつもりでいます。
この村治重厚氏の息子敏男氏は、中将にまでなった軍人です。つまり、軍人一家だったのかも知れません。
村治重厚氏についての、吉村昭さんの記述は、正確でない気がします。1891年当時は、町医者じゃないかと思えます(私もそう読みました)が、実際は、すでに軍医だった可能性が高いのです。
それについて、記事をかくつもりでいます。
この村治重厚氏の息子敏男氏は、中将にまでなった軍人です。つまり、軍人一家だったのかも知れません。
_ (未記入) ― 2012年01月14日 00時34分53秒
たまたま自分の先祖の名前をウェブで辿っていったら、こちらの記事を見つけました。私の両親もこのエピソードは知らなかったので、この本を勧めておきました。貴重な情報に感謝いたします。
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西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。
戦争にかかわる碑
■ 忠魂碑・慰霊碑
○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など
○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)
○ 大津市南部の忠魂碑
民間墓地の戦没者○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。
□ 滋賀県の西南戦争の戦没者
□ 高島市(高島郡)の戦没者
■ 西南戦争(西南之役) 1877年
● 戦病死者名簿
*高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)
■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年
,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)
『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。
■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年
● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)
○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿
○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
□ Aブロック 埋葬者名簿
陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある
□ Bブロック 埋葬者名簿
日清戦争期に戦病死した下士官の墓地
□ Cブロック 埋葬者名簿
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Dブロック 埋葬者名簿(作成中)
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Eブロック 埋葬者名簿
■ 大津市作成の名簿順
■ あいうえお順
日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。
□ Fブロック 埋葬者名簿
明治8年から11年までに病死した下士官と
兵卒の墓碑が37基
□ Kブロック 埋葬者名簿
「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
すべて兵卒の墓碑。
□ Lブロック 埋葬者名簿
「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
合計98基。すべて兵卒の墓碑。
□ Mブロック 埋葬者名簿(作成中)
陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)
□ 西南戦争の戦死者
□ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿
□『大津市志』
□ 滋賀郡膳所町
□ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)
町医者だった村治重厚が40歳を過ぎて軍医となったというのは不思議ですね。
当時は他にもそういう例があったのでしょうか。
二男が少尉だったということは、この一家は大津事件をきっかけに家族の運命を陸軍に預けることになったのでしょうか。その挙げ句に二男の戦死は気の毒ですね。
いくら現代と明治では個人と国家を考える基準や基軸が違うとはいっても、奥さんはきっといたたまれなかったのではと感じます。
拝見していて、日清・日露の戦役のお陰で地方の農村部でも新聞を購読する家が増え、今の全国紙の基礎ができあがったことを思い出しました。