お元気ですか?
大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。
なにをテーマに書こうかと迷いながら
2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。
2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、
気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。
戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。
通信兵だった父や防空監視隊にいた母から
聞かされた話は、
戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない
という思いを強くさせるものでした。
ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、
国家の理屈で議論が進みます。
同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。
しかし、戦争は、最悪の暴力です。
私は草の根の痛み、
どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で
書いていきたいと思っています。
あまり楽しめないブログかも知れませんが、
お気軽に感想やコメントをお寄せください。
メモ「日清戦争の痕跡を求めて」 ― 2009/09/02
総選挙に出たある宗教政党が、北朝鮮への強攻策(ミサイルにはミサイルを)を唱えていました。その主張は、共感をえるものではありませんでしたが、広島での元航空幕僚長の暴言などと重ねてみると、難しい時代に入ったことを感じました。
さて、私は、近代日本の戦争の傷跡を自分の足で辿り、確認することが、休暇のすごし方になってしまいそうです。
大津市南部の墓地で、日清戦争の墓碑を見つけたことは、ブログに書いたとおりです。それを機会に、佐谷真木人『日清戦争 「国民」の誕生』(講談社現代新書)を読み返してみました。そして、再び衝撃をうけたのです。
軍隊も、そして国民の意識も、大きく変貌したのが、この戦争でした。そういう節目の戦争であるだけに、自衛隊の本格的な海外派兵が一つの焦点になってきた今の時代と重なる部分があるのです。
大津市で8月31日まで「戦争と市民 ~湖国から平和のメッセージ~」という展示会が、歴史博物館で行われていました。案内の方にきくと、市民の間から600点を超える資料の提供があり、その全てを展示できなかったそうです。入場者数も、当初の予想をはるかに超える規模だったともおっしゃっていました。
短時間でしたが、見学できてよかったと思いました。
市民の生活という角度からの展示があったことが新鮮だったように思います。不満があるとすれば、中国戦争や太平洋戦争期のものが多く、それ以前の戦争については、ほとんど見ることができなかったことでしょうか。
話がいろいろ飛びますが、たしかに太平洋戦争・日中戦争の時代を忘れないことは大事です。同時に、それ以前の戦争にも注目すべきだと思うのです。もしかしたら、日清戦争の方が、現代に近いかも知れないからです。いろんな本を読みながら、私は、日清戦争の時代は、今を照らす貴重な鏡となると感じているからです。
私は論を展開する力はありませんから、自分の目で確かめた資料をお見せすることで、過去から現代を見つめるきっかけになればとおもうのです。
私の普段の活動領域は、大津市と高島市。
そこで、見つけた日清戦争の痕跡は、旧大津陸軍墓地と民間墓地の墓碑、記念碑、そして、清国俘虜を受け入れた事実です。
「新修大津市史」にも言及がないものがあり、私は、新たなものを編集するとしたら、いれるべき値打ちのあるものがこれらのなかにあると思っています。
そういうアピールをしていきたいとも思うのです。
さて、私は、近代日本の戦争の傷跡を自分の足で辿り、確認することが、休暇のすごし方になってしまいそうです。
大津市南部の墓地で、日清戦争の墓碑を見つけたことは、ブログに書いたとおりです。それを機会に、佐谷真木人『日清戦争 「国民」の誕生』(講談社現代新書)を読み返してみました。そして、再び衝撃をうけたのです。
軍隊も、そして国民の意識も、大きく変貌したのが、この戦争でした。そういう節目の戦争であるだけに、自衛隊の本格的な海外派兵が一つの焦点になってきた今の時代と重なる部分があるのです。
大津市で8月31日まで「戦争と市民 ~湖国から平和のメッセージ~」という展示会が、歴史博物館で行われていました。案内の方にきくと、市民の間から600点を超える資料の提供があり、その全てを展示できなかったそうです。入場者数も、当初の予想をはるかに超える規模だったともおっしゃっていました。
短時間でしたが、見学できてよかったと思いました。
市民の生活という角度からの展示があったことが新鮮だったように思います。不満があるとすれば、中国戦争や太平洋戦争期のものが多く、それ以前の戦争については、ほとんど見ることができなかったことでしょうか。
話がいろいろ飛びますが、たしかに太平洋戦争・日中戦争の時代を忘れないことは大事です。同時に、それ以前の戦争にも注目すべきだと思うのです。もしかしたら、日清戦争の方が、現代に近いかも知れないからです。いろんな本を読みながら、私は、日清戦争の時代は、今を照らす貴重な鏡となると感じているからです。
私は論を展開する力はありませんから、自分の目で確かめた資料をお見せすることで、過去から現代を見つめるきっかけになればとおもうのです。
私の普段の活動領域は、大津市と高島市。
そこで、見つけた日清戦争の痕跡は、旧大津陸軍墓地と民間墓地の墓碑、記念碑、そして、清国俘虜を受け入れた事実です。
「新修大津市史」にも言及がないものがあり、私は、新たなものを編集するとしたら、いれるべき値打ちのあるものがこれらのなかにあると思っています。
そういうアピールをしていきたいとも思うのです。
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西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。
戦争にかかわる碑
■ 忠魂碑・慰霊碑
○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など
○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)
○ 大津市南部の忠魂碑
民間墓地の戦没者○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。
□ 滋賀県の西南戦争の戦没者
□ 高島市(高島郡)の戦没者
■ 西南戦争(西南之役) 1877年
● 戦病死者名簿
*高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)
■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年
,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)
『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。
■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年
● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)
○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿
○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
□ Aブロック 埋葬者名簿
陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある
□ Bブロック 埋葬者名簿
日清戦争期に戦病死した下士官の墓地
□ Cブロック 埋葬者名簿
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Dブロック 埋葬者名簿(作成中)
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Eブロック 埋葬者名簿
■ 大津市作成の名簿順
■ あいうえお順
日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。
□ Fブロック 埋葬者名簿
明治8年から11年までに病死した下士官と
兵卒の墓碑が37基
□ Kブロック 埋葬者名簿
「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
すべて兵卒の墓碑。
□ Lブロック 埋葬者名簿
「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
合計98基。すべて兵卒の墓碑。
□ Mブロック 埋葬者名簿(作成中)
陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)
□ 西南戦争の戦死者
□ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿
□『大津市志』
□ 滋賀郡膳所町
□ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)
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