お元気ですか?

大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。


なにをテーマに書こうかと迷いながら

2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。

2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、

気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。


戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。

通信兵だった父や防空監視隊にいた母から

聞かされた話は、

戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない

という思いを強くさせるものでした。

ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、

国家の理屈で議論が進みます。

同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。

しかし、戦争は、最悪の暴力です。

私は草の根の痛み、

どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で

書いていきたいと思っています。


あまり楽しめないブログかも知れませんが、

お気軽に感想やコメントをお寄せください。


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台湾征服戦争と高島郡(市)の戦病死者2009/09/17

台湾征服戦争で亡くなった兵士の墓碑:履歴部分がほとんど読めない
 下関条約以降も、戦争は続いた。それが、台湾征服戦争といわれるものである。その規模は以外に大きいものであった。
 戦争の犠牲者という点だけに注目すれば、Wikipediaでは、台湾征服戦争(1895年5月29日~11月18日)で、「日本は約76000人の兵力(軍人約五万、軍夫二万六千人)を投入、死傷者5320名(戦死者164名、病死者4642名、負傷者514名)、さらに軍夫7000人の死者(大谷による推計)を出し、台湾民主国軍をはじめとする抵抗勢力は義勇兵・住民あわせて14000人の死者を出したとされる」とされている。
 しかし、1895年11月以降も戦闘は継続したのであって、征服する側の日本軍も、犠牲者を出し続けた。凱旋帰国は、翌1896年5月となる。
 こういう侵略戦争の一コマ一コマが、日本の片隅でも、犠牲者を生み出しているのである。
 たとえば、今調べている高島市では、日清戦争期17名の戦病死者中、以下の6名が台湾で亡くなっている。
 ○吉田伊之助 明治28(1895)年 8月27日
 ○三矢松太郎 明治28(1895)年 9月23日
 ○島村幸次郎 明治28(1895)年11月17日
 ○林 甚蔵   明治29(1896)年
 ○森 岩五郎 明治29(1896)年 6月30日
 ○金子 兼助 明治31(1898)年 9月15日
 『高島郡史』では、上記のうち、林甚蔵と森岩五郎は、歩兵第九聯隊所属とされており、三矢松太郎と島村幸次郎は「不明」。吉田伊之助は近衛歩兵第二聯隊、金子兼助は台湾守備歩兵第四聯隊である。
 これらの人々のうち、私が、高島市で、墓碑を見つけたのは、三矢松太郎ただ一人。側面(上の写真)に経歴が刻まれている様子だが、冒頭の「明治」と最後の行の干時に続くであろう「干」しか読み取ることはできない。『高島郡史』がなければ、台湾征服戦争で戦病死したとは、気づくよしもなかったのである。

「日露戦役の碑」を探して ~二人のバアちゃんに感謝~2009/09/17

お地蔵さんに鮮やかな色のお化粧ですね
 それは、「日露戦役記念碑」を探しに出かけたときのことです。
 地図で見当をつけて、車で向かいました。目的地あたりの集落に入ると、道は細く、曲がりくねって、ヘタをするとそのまま民家の入り口だったりします。両側の家は大きくて、見通しが利きません。駐車するなんて、とてもとても。ナビゲーターは、「これ以上の縮尺はありません」と冷たい一言を残して沈黙しています。目当ての神社にたどりつけず、村落わきに車を放置し、歩いて探すことにしました。途中、少し広くなっていた場所に、バアちゃんが二人。座ってなにやら話していたのを思い出し、立ち寄って聞いてみることにしました。

「こういう神社を探しているんですが」
「あ~、それはとなりの在所じゃぁ~」

なるほど、「森」を目指していたのに、ここは、「羽栗」でした。

「日露戦争の碑があるの知ってますか」
ふたりのバアちゃんは、顔を見合わせて、
「さぁ~、知らんなぁ~」
「歩いていけますか」
「あ~、行ける行ける」



小高い丘を目印に探すと、坂を登りきったあたりに鳥居が見えます。この神社ですね。
観光化している神社とちがい、駐車場もなにもありません。まったく地域の人だけの神社のようです。20分ほど見て回ったあと、帰りに、遠回りをしてお礼を言うことにしました。私の顔を見るなり、

「あ~にいさん、あったかい」
(にいさん??)
「ありがとうございます。ありました。」
「なんか、発表でもするんけ」
 がんばっとくれ」

元気に談笑する二人のバアちゃんに、しっかり、励まされてしまいました。バアちゃんに「チーズ!」という勇気は、私にはありません。ですから、よく似た石像さんを撮りました。なんか、笑っているみたいですね。

「戦役記念」碑@八幡宮(大津市森)2009/09/17

「戦役記念」碑@八幡宮(大津市森)
 『大津の碑』という本では、「日露戦役記念碑」となっています。この本によれば、建立は明治37か38年。、田上森町の八幡宮にあり、高さ2.15m。発起人は、敬愛社で、中司長三郎ほか17名と書かれています。台座もありますあが、本体だけを撮れば、こんな碑です。
 この碑が建立されるにいたった経過などは、これから調べないとわかりません。



 実はこの碑、最初は見つけることができませんでした。後で探そうと、写真を撮りまくっていたときに、存在に気がついたのです。上の写真でも、実は、写っているはずなのです。階段を上がった正面に位置していますから。その位置も重要だと思いましたが、なぜか、木で見えなくなっています。
 こんなといっては失礼ですが、片田舎においてさえ、日露戦争の熱気の発露があるなんてと驚くばかりです。そして、それと裏腹に、悲哀と困窮があったにちがいありません。

大津市立図書館で資料集め ~延々と続く戦死者の名簿~2009/09/17

戦死者の名簿が終わらない@『近江伊香郡志』下巻
 明日から、甲賀市へ一ヶ月間出張して仕事をすることになりました。4年前もたしかそうでした。今日は直前なので、お休みをもらいました。
 必要な資料を整えて、時間があるときに、目を通そうと、大津市立図書館に出かけてきました。県や市町村が発刊している公式の歴史書の兵事もしくは軍事の項目を閲覧することが目的です。
 天気がよい一日でしたから、外出して、遺跡のありそうなところを見学してもよかったのですが。
 私が目を通して、コピーをとったのは、
○『近江伊香郡志』下巻 昭和27・28年版(復刻版)
○『マキノ町誌』 昭和62年版
○『新旭町誌』 昭和60年版
○『滋賀県八幡町史』
 古いものは、戦死者をていねいに扱っていて、一人一人の名前や死亡場所まで掲載しています。そのために、何ページにもわたって累々たる戦死者の名簿を見ることになりました。私は、やりきれない思いでコピーを続けました。日清戦争や日露戦争を美化する人たちは、『県史』や『郡史』に刻まれているこの名簿を直視してはいないと思います。

民主党政権誕生~核密約問題の対応に注目しています~2009/09/17

不破哲三『日米核密約』
 核密約とは、1960年の日米安保条約改定のとき、《核を積んだ軍艦や飛行機の出入りは自由、そのときは事前協議はいらない》ということを確認しあった秘密協定のことです。
 不破哲三氏が2000年春の国会で、米外交文書をもとに、核密約文書を暴露して、政府を追及した(上の写真)のがはじまりです。
 自民党政府は一貫してその存在を認めませんでした。しかし、民主党の鳩山新首相と岡田新外相が、自民党政府とは異なる対応を公言していることが注目されます。
 たとえば、つぎのような報道です。
岡田外相「核密約を徹底調査」
9月17日7時56分配信 産経新聞
 岡田克也外相は17日未明、初閣議後の記者会見などで、核搭載米艦船の寄港などを認める日米核密約に関し、「外交は国民の理解と信頼に裏付けられていなければならない。大臣命令を事務次官に発して期間を切って徹底調査を命じる」と述べた。
 また、米国に対して核の先制不使用を働きかけるかどうかについて「私の持論は『先制使用すると明言する国に核軍縮や核の不拡散を言う資格があるのか』ということだ。先制不使用によって核の抑止力が弱まるとは考えていない。誰が考えてもそれ以外の結論はないのではないか」と述べ、外務省内で議論を進める考えを示した。
 在日米軍再編、アフガニスタン支援などに力点を置く考えを示し、来年1月で期限が切れるインド洋での給油活動について「単純延長はない」と明言した。
 一方、岡田氏は、昨年の日朝実務者協議の合意に基づき、北朝鮮側に拉致被害者に関する再調査を求める考えを示した。
このような姿勢をとる背景には、当事者の発言が相次いだことも挙げられます。
「核密約、現在も有効」 元政府高官が新証言
山陽新聞
 米軍核搭載艦船の日本への領海通過・寄港を黙認した核密約問題に絡み、首相官邸で外交政策立案に関与した元政府高官は1日、密約の存在を認めた上で「日本が『核の傘』に守られている以上(通過・寄港を認める)取り決めがあるのは当然」と言明。「(日米間で核密約を)殺したわけではない」とも述べ、密約を記した「秘密議事録」は現時点でも外交上有効との見解を示した。
 匿名を条件に共同通信に語った。
 元高官の証言は核密約の存在を新たに補強し、歴代保守政権が通過・寄港を黙認してきた背景に、「核の傘」を最優先する政策判断があったことを明確に認める内容。核密約が現在も有効だとしていることから、密約の全容解明を掲げる次期民主党政権は今後、難しい対米交渉を迫られる可能性が出てきた。
 元高官は、米国が冷戦終結後、核搭載艦船を日本に寄港させていない経緯から「(秘密議事録は)実態として死文化した」とする一方、仮に民主党政権が核密約を公開しても密約が失効するわけではないと語った。
 さらに、朝鮮半島有事に米軍が日米安全保障条約上の「事前協議」を経ずに在日米軍基地を使用できるとした密約に関しても、消滅したわけではないと述べ、核密約同様、現在も有効との認識を示した。
 元高官は「日本が守られているのに(核の通過・寄港を)ダメとは言えない」とし、「核の傘」堅持のために核密約が不可欠だったと指摘した。
(9月1日20時57分)

『近江伊香郡志』で5名が判明@日清戦争2009/09/17

「陸軍歩兵一等卒中嶋留次郎之墓」(伊香郡永原大浦出身)@旧大津陸軍墓地
 『高島郡誌』によって、旧大津陸軍墓地で墓碑を見ているだけではわからなかった埋葬者の情報をえることができました。わかったのは、日清戦争期の兵卒の墓碑206柱のうち、高島郡(現在は高島市)出身者は、7名だということです。あと若干大津市出身者がわかっていますが、圧倒的多数は、出身地が不明です。
 歩兵第九聯隊の所管する地域で観光されている「県市町村史」を参照すれば、さらに明らかにできるはずだと考えました。

 高島郡の北隣は、伊香郡です。『近江伊香郡志』(昭和27・28年)を調べたら、確かに出てきました。西南戦争(明治十年戦役)の伊香郡の戦病死者は8名で、日清戦争(明治二十七八戦役)のそれは、20名。「台湾土匪征討」では、11名。
 日清戦争の戦病死者の20名を旧大津陸軍墓地Eブロックの名簿と照らし合わせたら、以下の名が一致しました。
 ○中嶋留次郎(上の写真) 歩兵一等卒 永原大浦
    明治28年4月29日 清国沙家屯にて病死
 ○中川 力蔵 歩兵一等卒 古保利 東柳野
    明治28年9月1日 清国柝木城に於いて病死
 ○高橋伊之助 輜重輸卒 片岡 文室
    明治28年4月25日 劉家屯にて病死
 ○清水 留吉 歩兵一等卒 永原 八田部
    明治28年5月13日 清国孫家屯にて病死
 ○木谷 勇吉 歩兵二等卒 永原 大浦
    明治28年5月17日 清国沙河屯にて病死
 たしかに予想通り、日清戦争の戦病死者の一部は旧大津陸軍墓地に墓碑がありました。しかし、一致する人数が少ない気がします。残り15名の墓碑はありません。
 それは、なぜでしょう。
 明らかに歩兵第九聯隊に所属していないと思われる人はいます。たとえば、「海軍一等主計」(弓削善彌)、「軍役人夫」(横関藤三郎)、「砲兵一等卒」(岩佐由太郎)、「陸軍傭員」(高橋乙治郎)など。あとは、同じ歩兵でも、近衛歩兵聯隊(小野徳次・赤尾杢治郎・岩佐才次郎・布施繁松)や他の部隊(下村勘次郎)に所属している場合などです。
 残り6名には理由が見つかりません。
 こういう方法で、埋葬者の出身地の一部はわかりましたが、全員がわかるところまで行き着けるものなのでしょうか。

『滋賀県八幡町史』で1名(廣瀬助松)の出身地が判明@日清戦争2009/09/17

輜重輸卒高橋伊之助之墓@旧大津陸軍墓地
 日清戦争期の墓地(旧大津陸軍墓地)に於かれている206柱の兵卒の墓碑の一つ一つについて、生き様(死に様)を少しでも明らかにしようとしています。一人の人間の死として向かい合いたいと思うからです。
 『滋賀県八幡町史』によれば、「西南戦役」の戦病死者は2名。「日清戦役」は1名となっています。その記述方法jはつぎのとおり。
日清戦役
土田 陸軍輜重輸卒 廣瀬助松  明治二年生
明治二十八年五月六日満州国周家屯第一大隊仮設病舎に於て死亡、太光寺に葬る。
 明治2年生まれですから、26年の命だったことがわかります。この若者の墓碑は、在所のお寺(太光寺)以外にも、旧大津陸軍墓地に置かれていました。



 日清戦争と台湾征服戦争の戦病死者の墓碑(陸軍歩兵第九聯隊のみの)が、旧大津陸軍墓地には、将校が柱、下士官が14柱、兵卒が206(うち台湾は2)柱あります。これらの墓碑以上の情報がわかっているのは、下士官が名(太田末次郎)と兵卒17名(大津市が4名、高島市が7名、旧伊香郡が5名、旧八幡町が1名)ということになります。
 下士官で13名、兵卒で189名が墓碑に刻まれた以上のこと(生年月日、出身地など)はわからないということになります。

まだ「原風景」を残している気がします2009/09/17

まだ琵琶湖の「原風景」を残している気がします
 ここは旧仰木。遠くに見える湖岸には住宅が建てこんでいますが、農村風景と一体に、琵琶湖が見渡せるポイントになっています。



 なんか懐かしい風景に思えました。

後期高齢者医療制度廃止への道が拓かれる2009/09/17

 人間を民族で差別したり、肌の色で差別することが許されないように、命にかかわる医療を年齢で差別する・・・こんな制度が生き延びていいはずはありません。私も廃止の署名をしましたけれど、実際に廃止の道のりは楽ではないと思っていました。

 No easy walk to freedom.
 「自由への平坦な道はない」

 そうそう、こう歌っていた、PPMのマリーさんが亡くなりましたね。ニュースで知って、残念に思いましたが、1980年代にも、捕鯨禁止や環境を守れという内容の歌を歌い続けていました。
ピーター・ポール&マリーのトラバースさんが死去
 [ワシントン 16日 ロイター]
 米国の各メディアは16日、「花はどこへ行った」などのヒット曲で知られるフォークグループ、ピーター・ポール&マリーのマリー・トラバースさんが、コネティカット州の病院でがんのため死去したと報じた。72歳だった。
 ケンタッキー州ルイビルで生まれたトラバースさんは1961年、ピーター・ヤロウさん、ポール・ストゥーキーさんとグループを結成。ボブ・ディランが手掛け、同グループが歌った「風に吹かれて」は、公民権運動のテーマ曲にもなった。
 ほぼ同じ頃に、民主党の新しい厚生労働相が「廃止を表明」という記事を見ました。今後も平坦ではないけれど、あきらめなければ道は必ず開けると思いましたね。
 それに、この動きを止めようとする勢力はもう多数ではないはずです。時代の変化と目に見えない世論の力を強く感じたニュースでした。
後期高齢者医療制度の廃止を表明=具体的な時期などは言及せず-厚労相
9月17日1時4分配信 時事通信
 長妻昭厚生労働相は17日未明の初閣議後の記者会見で、75歳以上を対象とした後期高齢者医療制度を廃止する意向を表明した。ただ、具体的な廃止時期などについては言及しなかった。
 長妻厚労相は「民主党のマニフェスト(政権公約)でも廃止するということは明言している。年齢で区分して一つの保険制度に入れるのは無理がある」との認識を示した。その上で「新たな最終的な到達点もマニフェストで示している。その時期、手法については現状把握をした上で詳細に制度設計をつくり上げていきたい」と述べた。 

                            


BIN★「この記なんの記」ブログ情報 August 12 , 2011



 西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。

戦争にかかわる碑

  ■ 忠魂碑・慰霊碑

    ○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など

    ○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)

    ○ 大津市南部の忠魂碑

民間墓地の戦没者

 □ 滋賀県の西南戦争の戦没者

 □ 高島市(高島郡)の戦没者

  ■ 西南戦争(西南之役) 1877年

   ● 戦病死者名簿

      *高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)

  ■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年

   ,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)

      『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。

  ■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年

   ● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)

      ○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿

    ○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。

 公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
 □ ブロック 埋葬者名簿

     陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある

 □ ブロック 埋葬者名簿

     日清戦争期に戦病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

  ■ 大津市作成の名簿順

  ■ あいうえお順

     日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治8年から11年までに病死した下士官と
          兵卒の墓碑が37基


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
         すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
          合計98基。すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)

 □ 西南戦争の戦死者

 □ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿

 □『大津市志』

 □ 滋賀郡膳所町

 □ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)