お元気ですか?
大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。
なにをテーマに書こうかと迷いながら
2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。
2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、
気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。
戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。
通信兵だった父や防空監視隊にいた母から
聞かされた話は、
戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない
という思いを強くさせるものでした。
ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、
国家の理屈で議論が進みます。
同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。
しかし、戦争は、最悪の暴力です。
私は草の根の痛み、
どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で
書いていきたいと思っています。
あまり楽しめないブログかも知れませんが、
お気軽に感想やコメントをお寄せください。
オリハはオリガ ~『物語 ウクライナの歴史』を読む~ ― 2009/10/25
黒川祐次さんの『物語 ウクライナの歴史』(中公新書)を楽しみながら、読んでいます。
ロシア国家も、ウクライナ国家も、9世紀から13世紀まで続いたキエフ国家(キエフ・ルーシ)を自らの祖としています。ですから、二つの国家史は、ともにキエフ・ルーシからはじまることになります。
資料も同じ『原初年代記』(『過ぎし年月の物語』)です。都市としてのキエフの誕生は6世紀後半。ビザンツ帝国との交易のなかで成長していくことがわかります。
国家としてのまとまりは、ヴァイキングの時代とともに訪れます。スカンディナヴィアのスウェーデン人は、当時、スラヴ人からヴァリャーグ人と呼ばれていたといいます。バルト海沿岸にノヴゴロドという都市がありますが、そこの東スラヴ人が貢納を納めていたヴァリャーグ人をいったん追放します。ところが内紛が発生し、それを収拾するために再び「ルーシ」(その地方ではヴァリャーグ人をこう呼んだ)を招いて、統治することを求めました。それに応じたのが首長のリューリック。862年にノヴゴロドの公(支配者)となり、リューリック朝を開きます。
リューリックの家臣がビザンツ帝国の首都・コンスタンチノープルへ向かう途中、キエフなどの南部の都市を落とし、領地としていきます。勢力が増大するなかで、コンスタンチノープルの攻略を企て、その結果、有利な通商条約を結ぶなどの記事もでてきます。
ビザンツ帝国との関係で新たな発展があるのは、キリスト教の受容です。6世紀後半から10世紀後半まで、キエフ国家の指導者はキリスト教を取り入れたわけではありません。
指導者の改宗は、幼い公の後見人となって事実上、キエフ・ルーシを支配したオリハから始まります。ロシア語ではオリガ。「Г」という文字は、ロシア語では、英語ではGにあたります。ウクライナ語では「H」。この違いを理解すれば、名前の違いは気になりません。
オリハの改宗物語は、色恋ざたが混じって、思わず微笑んでしまいます。その顛末はこうです。オリハがコンスタンチノープルを訪問したとき、オリハの美貌と才気に魅せられたビザンツ皇帝が求婚。寡婦オリハは、これを見事にかわします。私は異教徒。皇帝自らが洗礼しないかぎり、洗礼をうけません。皇帝が洗礼をほどこし、改めて娶ろうとすると、キリスト教では、洗礼親が”娘”と結婚できるはずがありませんと断るのです。957年のことです。
ロシアの事実上の支配者オリハへのビザンツ皇帝の求婚がほんとうだとすれば、色恋沙汰以上の思惑があったのではと想像するのは、野暮なことかも知れません。
ロシア国家も、ウクライナ国家も、9世紀から13世紀まで続いたキエフ国家(キエフ・ルーシ)を自らの祖としています。ですから、二つの国家史は、ともにキエフ・ルーシからはじまることになります。
資料も同じ『原初年代記』(『過ぎし年月の物語』)です。都市としてのキエフの誕生は6世紀後半。ビザンツ帝国との交易のなかで成長していくことがわかります。
国家としてのまとまりは、ヴァイキングの時代とともに訪れます。スカンディナヴィアのスウェーデン人は、当時、スラヴ人からヴァリャーグ人と呼ばれていたといいます。バルト海沿岸にノヴゴロドという都市がありますが、そこの東スラヴ人が貢納を納めていたヴァリャーグ人をいったん追放します。ところが内紛が発生し、それを収拾するために再び「ルーシ」(その地方ではヴァリャーグ人をこう呼んだ)を招いて、統治することを求めました。それに応じたのが首長のリューリック。862年にノヴゴロドの公(支配者)となり、リューリック朝を開きます。
リューリックの家臣がビザンツ帝国の首都・コンスタンチノープルへ向かう途中、キエフなどの南部の都市を落とし、領地としていきます。勢力が増大するなかで、コンスタンチノープルの攻略を企て、その結果、有利な通商条約を結ぶなどの記事もでてきます。
ビザンツ帝国との関係で新たな発展があるのは、キリスト教の受容です。6世紀後半から10世紀後半まで、キエフ国家の指導者はキリスト教を取り入れたわけではありません。
指導者の改宗は、幼い公の後見人となって事実上、キエフ・ルーシを支配したオリハから始まります。ロシア語ではオリガ。「Г」という文字は、ロシア語では、英語ではGにあたります。ウクライナ語では「H」。この違いを理解すれば、名前の違いは気になりません。
オリハの改宗物語は、色恋ざたが混じって、思わず微笑んでしまいます。その顛末はこうです。オリハがコンスタンチノープルを訪問したとき、オリハの美貌と才気に魅せられたビザンツ皇帝が求婚。寡婦オリハは、これを見事にかわします。私は異教徒。皇帝自らが洗礼しないかぎり、洗礼をうけません。皇帝が洗礼をほどこし、改めて娶ろうとすると、キリスト教では、洗礼親が”娘”と結婚できるはずがありませんと断るのです。957年のことです。
ロシアの事実上の支配者オリハへのビザンツ皇帝の求婚がほんとうだとすれば、色恋沙汰以上の思惑があったのではと想像するのは、野暮なことかも知れません。
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西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。
戦争にかかわる碑
■ 忠魂碑・慰霊碑
○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など
○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)
○ 大津市南部の忠魂碑
民間墓地の戦没者○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。
□ 滋賀県の西南戦争の戦没者
□ 高島市(高島郡)の戦没者
■ 西南戦争(西南之役) 1877年
● 戦病死者名簿
*高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)
■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年
,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)
『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。
■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年
● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)
○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿
○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
□ Aブロック 埋葬者名簿
陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある
□ Bブロック 埋葬者名簿
日清戦争期に戦病死した下士官の墓地
□ Cブロック 埋葬者名簿
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Dブロック 埋葬者名簿(作成中)
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Eブロック 埋葬者名簿
■ 大津市作成の名簿順
■ あいうえお順
日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。
□ Fブロック 埋葬者名簿
明治8年から11年までに病死した下士官と
兵卒の墓碑が37基
□ Kブロック 埋葬者名簿
「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
すべて兵卒の墓碑。
□ Lブロック 埋葬者名簿
「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
合計98基。すべて兵卒の墓碑。
□ Mブロック 埋葬者名簿(作成中)
陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)
□ 西南戦争の戦死者
□ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿
□『大津市志』
□ 滋賀郡膳所町
□ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)
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