お元気ですか?

大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。


なにをテーマに書こうかと迷いながら

2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。

2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、

気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。


戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。

通信兵だった父や防空監視隊にいた母から

聞かされた話は、

戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない

という思いを強くさせるものでした。

ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、

国家の理屈で議論が進みます。

同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。

しかし、戦争は、最悪の暴力です。

私は草の根の痛み、

どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で

書いていきたいと思っています。


あまり楽しめないブログかも知れませんが、

お気軽に感想やコメントをお寄せください。


Google
WWW を検索 このブログ内を検索

『米軍基地なくせ 沖縄県民に連帯する夕べ』@大津市(チラシ)2009/11/30

『米軍基地なくせ 沖縄県民に連帯する夕べ』@大津市のチラシ
ファックスでいただいたチラシですが、
勝手にブログに載せることにしました。
いい取り組みは、たくさんの人に知らせた方がいいと思って。
普天間の基地の沖縄県内たらいまわしはダメ
米軍基地は日本にいらないの声を全国から。

早乙女貢『近衛兵の叛乱 竹橋事件顛末記』(1978)2009/11/30

早乙女貢『近衛兵の叛乱 竹橋事件顛末記』(1978)
 ブックオフの105円コーナーを回っているときに、「竹橋事件」という文字に反応して購入した。
 早乙女貢『近衛兵の叛乱 竹橋事件顛末記』(新人物往来社)
 竹橋事件は、明治11年に起きた近衛兵の反乱事件。首謀者の銃殺だけではなく、事件そのものも、政府によって闇から闇へ葬られた。しかし、権力を支える中枢で起こった叛乱は強烈な危機感を明治政府にあたえ、軍人勅諭をはじめ、きびしい思想統制などに向かう契機ともなった。
 明治11年は西暦でいくと、1878年。この本が出版された1978年は、ちょうど100年目にあたる。「あとがき」によれば、初稿が発表されたのは、1975年の春らしい。単行本に収録されて、出版されたのが1978年で、その際、「若干、加筆」された。
 「竹橋事件」は、澤地久枝『火はわが胸中にあり―忘れられた近衛兵士の叛乱 竹橋事件 』以外にほとんど目にしたことがない主題。早乙女貢が、この小説でどう描いているのかとても興味がある。
 それにしても、著者の「あとがき」から、おおよその意図や内容が推察され、ますます興味をかき立てられた。
戦前は、天皇の親兵たる近衛兵の叛乱さわぎなどは、筆にするどころか口にすることさえ憚られた。そういう歪んだ時代を作ったものは薩長閥による明治政府であることは論を俟たないが、その原点となったものは、長州に於ける高杉晋作の奇兵隊であろう。私は以前「奇兵隊の叛乱」を書いた。・・・それを脱稿したときから、この「近衛兵の叛乱」もまた書くべきだと思った。・・・多くの困難にぶつかった。一つには戦前の陸軍が、必死になって資料を隠し、あるいは抹殺したことであり、一方では戦前の天皇の軍隊を神聖なものにしておきたい人々の思惑の邪魔である。・・・今年はこの叛乱から丁度百年目になるとかで、あらためて研究する人が出て来たようだが、どんな角度からでも、権力機構の陰湿なヴェールを引き剥がす作業は喜ばしいことだ。
 早乙女貢が、こういう反骨の人であることを、私は情けないことに、この本ではじめて知ったのである。

『滋賀の巨木めぐり』写真展で砲弾型墓碑を見つける2009/11/30

 大津パルコの紀伊國屋書店で『滋賀の巨木めぐり』という本のキャンペーン。郷土本コーナーの一角で、本に掲載されている巨木の写真展をしています。もちろん、すべてではなく十数本。
 思わず、見とれました。それに、油日神社にある木など、何本かは見たことがあるし、ブログでも写真を載せています。なつかしい・・・。
 仕事の領域でもある高島市の巨木もいくつかありました。
そのうちの1本は、とても有名。よく見ると、墓地の中に立っています。木から墓地に目を移して、ハッとしました。そういう反応をするのは、たぶん、私一人なんでしょうけれど(笑)、まだ見ていない砲弾型の墓碑が2柱写っているのです。おお~!発見だ。
 そういえば、この場所はまだ行っていませんでした。。機会を見つけて、見学しに行こうと思います。

                            


BIN★「この記なんの記」ブログ情報 August 12 , 2011



 西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。

戦争にかかわる碑

  ■ 忠魂碑・慰霊碑

    ○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など

    ○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)

    ○ 大津市南部の忠魂碑

民間墓地の戦没者

 □ 滋賀県の西南戦争の戦没者

 □ 高島市(高島郡)の戦没者

  ■ 西南戦争(西南之役) 1877年

   ● 戦病死者名簿

      *高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)

  ■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年

   ,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)

      『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。

  ■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年

   ● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)

      ○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿

    ○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。

 公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
 □ ブロック 埋葬者名簿

     陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある

 □ ブロック 埋葬者名簿

     日清戦争期に戦病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

  ■ 大津市作成の名簿順

  ■ あいうえお順

     日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治8年から11年までに病死した下士官と
          兵卒の墓碑が37基


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
         すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
          合計98基。すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)

 □ 西南戦争の戦死者

 □ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿

 □『大津市志』

 □ 滋賀郡膳所町

 □ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)