お元気ですか?
大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。
なにをテーマに書こうかと迷いながら
2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。
2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、
気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。
戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。
通信兵だった父や防空監視隊にいた母から
聞かされた話は、
戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない
という思いを強くさせるものでした。
ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、
国家の理屈で議論が進みます。
同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。
しかし、戦争は、最悪の暴力です。
私は草の根の痛み、
どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で
書いていきたいと思っています。
あまり楽しめないブログかも知れませんが、
お気軽に感想やコメントをお寄せください。
水上勉 『櫻守』 ― 2009/12/02
私が大津パルコでの、「滋賀の大木」写真展で偶然見つけた砲弾型墓碑は、「清水の桜」が立っている墓地にあります。”清水”は、「しみず」と読まずに、「しょうず」と読むそうです。これも驚きでした。
「清水の桜」は、高島市のマキノ町海津にあります。
当地の観光協会のサイトには、りっぱな紹介文が書かれています。引用させていただきます。
『櫻守』には、御母衣ダムが登場します。「あっ」と思ったのですが、先日、TV放映されていたドラマ『さくら道 ~知られざる”奇跡の桜”物語~』と重なっているのです。そこでも、樹齢400年のサクラの木を移植する桜学者がでてきます。実在のモデルは、笹部新太郎。『櫻守』では、竹部庸太郎という名前で登場しますね。そのことがより思いを深くしました。
最後に、墓地に戻るのですが、『櫻守』には墓地の描写もあり、ますます見学に行きたいと思う私です。
「清水の桜」は、高島市のマキノ町海津にあります。
当地の観光協会のサイトには、りっぱな紹介文が書かれています。引用させていただきます。
海津のまちはずれの墓地の中に一本大きくそびえ、樹齢300年以上といわれる巨桜「清水の桜」は、アズマヒガンザクラと呼ばれる種類の桜で、高さ16メートル、幹の周囲6.4メートルの滋賀県自然記念物にも指定されている県下最大級の桜です。砲弾型墓碑から出発して、桜にゆき、そして水上勉の小説『櫻守』へと関心が向きました。そこで、上の写真にあるように、新潮文庫版を買ってきたのです。
この桜がこの地に根付いたころ、桜の前には北国北陸からの物資を京や大阪に運ぶ「七里半越」と呼ばれる山越えの道が通っており、数多くの荷駄や人々が海津から追坂峠道を通って、敦賀津へ出るこの七里半越で目的地へ向かっていったと思われます。のちにこの桜が成長するにつれ海津の街も姿を変え、当時の隆盛を偲ぶ物も減っていきましたが、この桜は人々の暮らしと海津の街の変化を見守りながら、現在でも四月の上旬にはその美しい姿で私たちを楽しませてくれます。
また、この桜は水上勉の小説『櫻守』でその題材とされたことや、その昔加賀藩主前田侯が上洛の折、その美しさに見とれ何度も振り返り眺めたことから「見返りの桜」ともいわれており、春にはこの桜を目当てに多くの人々が訪れます。
『櫻守』には、御母衣ダムが登場します。「あっ」と思ったのですが、先日、TV放映されていたドラマ『さくら道 ~知られざる”奇跡の桜”物語~』と重なっているのです。そこでも、樹齢400年のサクラの木を移植する桜学者がでてきます。実在のモデルは、笹部新太郎。『櫻守』では、竹部庸太郎という名前で登場しますね。そのことがより思いを深くしました。
最後に、墓地に戻るのですが、『櫻守』には墓地の描写もあり、ますます見学に行きたいと思う私です。
(近江)舞子から、北へ車をとばすと、海津にきた。ここで、弥吉は、いつか竹部からきいた、奇妙な大桜をみてびっくりした。村の共同墓地にある三百年は生きたであろう巨桜であった。竹部の話だとこれは彼岸桜である。そこは、海津の村から敦賀の方へ山ぞいの国道を少し入りかけた地点で、道のすぐ下の墓地である。墓地ぜんたいに、かぶさるように大枝を張った桜は見事だった。車がわきまでゆかなかったので、国道にとめておいて、弥吉は小雨の中を歩いていった。根もとから二た又になったこの彼岸桜は、U字型に大幹を二本伸ばし、宏大な墓地に存分に枝をはっていたが、真下の墓石はみな軍人の墓だった。何々上等兵、何々軍曹、何々兵曹と彫られた御影石の墓標が、まるで大桜の根をとりまくように密集していた。戦死すれば、桜の下へもどって来れることを夢にえがいて召されていったのだろう。弥吉は、小雨にぬれる戦死者の墓標に、傘をさしかけるようにして、枝を張る冬桜をみて瞼がぬれた。枝一本損傷していない桜は、おそらく、共同墓地の霊木ということで、誰もが手折ったりしないのだろう。原作者に申し訳ないほど、延々と引用したのは、きっと同じ思いで見ることになる気がしたからです。
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西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。
戦争にかかわる碑
■ 忠魂碑・慰霊碑
○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など
○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)
○ 大津市南部の忠魂碑
民間墓地の戦没者○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。
□ 滋賀県の西南戦争の戦没者
□ 高島市(高島郡)の戦没者
■ 西南戦争(西南之役) 1877年
● 戦病死者名簿
*高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)
■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年
,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)
『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。
■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年
● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)
○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿
○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
□ Aブロック 埋葬者名簿
陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある
□ Bブロック 埋葬者名簿
日清戦争期に戦病死した下士官の墓地
□ Cブロック 埋葬者名簿
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Dブロック 埋葬者名簿(作成中)
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Eブロック 埋葬者名簿
■ 大津市作成の名簿順
■ あいうえお順
日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。
□ Fブロック 埋葬者名簿
明治8年から11年までに病死した下士官と
兵卒の墓碑が37基
□ Kブロック 埋葬者名簿
「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
すべて兵卒の墓碑。
□ Lブロック 埋葬者名簿
「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
合計98基。すべて兵卒の墓碑。
□ Mブロック 埋葬者名簿(作成中)
陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)
□ 西南戦争の戦死者
□ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿
□『大津市志』
□ 滋賀郡膳所町
□ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)
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