お元気ですか?

大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。


なにをテーマに書こうかと迷いながら

2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。

2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、

気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。


戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。

通信兵だった父や防空監視隊にいた母から

聞かされた話は、

戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない

という思いを強くさせるものでした。

ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、

国家の理屈で議論が進みます。

同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。

しかし、戦争は、最悪の暴力です。

私は草の根の痛み、

どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で

書いていきたいと思っています。


あまり楽しめないブログかも知れませんが、

お気軽に感想やコメントをお寄せください。


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午後の空2010/09/30

国道から離れて農村地域を走りました。好きな道です。
先日、午後に、仕事から解放されました。

少し中途半端ですね。

暗くなるまでの時間、

大津市北部の農村地域を

一人車で走りました。


考え事から解放されたくて。

「六甲ミーツ・アート」にて2010/09/30

少し普通すぎる車ではないかと思いました、イベントには・・・
六甲山の山頂にでかけたとき、
現代アートのイベントがあるのを
すっかり忘れていました。

そして、この写真の情景に直面。

他に駐車場がなかったのかな?

とマジに思ってしまいました。

仰木の忠魂碑 ~台座はオリジナルではない?~2010/09/30

仰木の忠魂碑
仕事で回っているときに、偶然見つけることがあります。
あ、っと思っても、車は先に進みます。

少ない休暇のときに、出かけていって撮影。

この忠魂碑は、岡の上。
そして、学校の前に置かれています。
もともと、その位置なのかは、わかりません。

注意して見ると、台座の柵まわりが
いつも見るものとちがいます。
オリジナルの柵の柱ではない気がします

鎖でつないでいる支柱が、
砲弾型ではないのです。

もしかしたら、建て直されたときに、
別の形にされた可能性もあるのではと
思いました。

ということで、台座が気になりました。
いくつか紹介する記事を書いていきます。

忠魂碑の台座の柵 ~砲弾型の支柱 Ⅰ(和邇中)~2010/09/30

和迩中の天皇神社の忠魂碑の台座の回りには砲弾型の支柱があります
忠魂碑そのものの形もそうですが、
台座も、それぞれ違います。
鎖でつながれた柵があり、
その柵の支柱が砲弾型ですね。
入り口の門だけがちがいます。

台座は、完全に個別ではなく、
それなりにパターンがありますね。
地域性が、あるのかも知れませんし、
建立年代にかかわるのかも知れません。

上の二つの写真は、和邇中の天皇神社の忠魂碑

忠魂碑ではないのですが、
砲弾型の墓碑は、日露戦争期だけです。
ですから、台座に砲弾型の支柱が並ぶのは、
そういう時代に建てられたということも
考えられますね。

そう思って背面に回ると、
期待に反して、忠魂碑には、
「大正十年九月 建立」と刻まれています(笑)。

現代のわたしの感覚からいえば、
神社という神聖な場所に砲弾が立ち並ぶ
光景は、異様としかいいようがありません。
神社といっても、靖国神社では
普通のことかも知れませんけれど。

忠魂碑の台座の柵 ~砲弾型の支柱 Ⅱ(木戸)~2010/09/30

台座の門まで砲弾型の忠魂碑。戦争そのものを想起させます。
砲弾型の支柱が立ち並ぶ台座の柵。
このイメージが私のなかに定着したのは、
木戸共同墓地にある忠魂碑です。

この忠魂碑は、門にあたる部分も砲弾型。
(座薬を連想してはいけませんよ)
建立されたのは、大正11年3月10日。

忠魂碑の台座の柵 ~砲弾型の支柱 Ⅲ(朽木)~2010/09/30

朽木村の忠魂碑の柵の柱はすこし丸めです
旧朽木村で見た忠魂碑も、台座は砲弾型。
頭部がまるくなっていますが、
砲弾型のものでしょうね。
背面を見ると「大正十一年三月建立」の文字
柵の柱の断片が周囲におかれていました

柱もときが経つと、壊れるのでしょう。
断片が付近におかれていました。

忠魂碑の台座の柵 ~砲弾型の支柱 Ⅳ(安曇)~2010/09/30

整備された周囲は忠魂碑が”現役”として機能している気がしました
旧安曇村の忠魂碑は
周囲の広場も含めて
最もりっぱな施設の一つでした。

台座は奥行きもあり、大きいし、
忠魂碑の周囲は、草刈りも行き届き、
数十人規模の集会が今も可能です。

その有り様から、今も現役だと思えるほどです。
タイムスリップした異様な気分になりました。

その台座は、見ての通り
砲弾型の柱が、柵の鎖を支えています。

忠魂碑への門にあたる部分だけ、
砲弾型ではなく、形状が異なります。
これは、和迩中の忠魂碑と似ています。

「昭和三年十月建立」とあります。

アゴがなかったモーネコくん(2009年10月)2010/09/30

アゴがなかったモーネコくん(2009年10月)
入院中のモーを昨晩
病院までお見舞いに行きました。

集中治療装置に閉じこめられて
点滴をうけているモー。
気の毒でした。

お腹の部分の皮膚が
もともとはピンクでしたが、
色が茶色っぽくよどんでいます。

声をかけると返事をします。

目つきが鋭く、別ネコの感じ。

去年のモーの写真を捜しました。
なるほど猛烈なブタです。
アゴがありません。
糖尿を心配したのに・・・。

今晩は病院は休診。
見舞いにいけません。

                            


BIN★「この記なんの記」ブログ情報 August 12 , 2011



 西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。

戦争にかかわる碑

  ■ 忠魂碑・慰霊碑

    ○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など

    ○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)

    ○ 大津市南部の忠魂碑

民間墓地の戦没者

 □ 滋賀県の西南戦争の戦没者

 □ 高島市(高島郡)の戦没者

  ■ 西南戦争(西南之役) 1877年

   ● 戦病死者名簿

      *高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)

  ■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年

   ,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)

      『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。

  ■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年

   ● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)

      ○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿

    ○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。

 公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
 □ ブロック 埋葬者名簿

     陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある

 □ ブロック 埋葬者名簿

     日清戦争期に戦病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

  ■ 大津市作成の名簿順

  ■ あいうえお順

     日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治8年から11年までに病死した下士官と
          兵卒の墓碑が37基


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
         すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
          合計98基。すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)

 □ 西南戦争の戦死者

 □ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿

 □『大津市志』

 □ 滋賀郡膳所町

 □ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)