お元気ですか?
大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。
なにをテーマに書こうかと迷いながら
2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。
2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、
気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。
戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。
通信兵だった父や防空監視隊にいた母から
聞かされた話は、
戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない
という思いを強くさせるものでした。
ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、
国家の理屈で議論が進みます。
同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。
しかし、戦争は、最悪の暴力です。
私は草の根の痛み、
どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で
書いていきたいと思っています。
あまり楽しめないブログかも知れませんが、
お気軽に感想やコメントをお寄せください。
日露戦争での「特別合祀」 ~明治37年に赤痢病で戦病死した陸軍歩兵曹長の場合~ ― 2010/10/11
『大津市志』(明治44年版)の「人物志」には、戦没者の略歴が載っています。それらは、靖国神社への合祀の日付で締めくくられています。
日露戦争関係では、明治38年5月や39年5月、また明治40年5月や明治41年5月と書かれています。
合祀の年月の違いを、これまで全然気にとめませんでした。
最初に見た村治少尉の場合も、鎌倉少尉の場合も、戦死・戦傷死した年月日は、明治37年8月末から9月始めでした。ですから、明治38年5月に行われた第一回の臨時大祭で、合祀されたのでしょう。
小野八三郎上等兵は、明治38年3月の戦死。直近でしたから、同年の5月に合祀は間に合わず、翌39年5月の二回目の臨時大祭で追加合祀されたことは、納得がいきます。
ですが、年月日では説明のできない合祀年月が出てきます。
たとえば、富和義哉陸軍歩兵曹長の場合。
死亡年月日は、明治37年10月18日。合祀は、明治40年5月。
答えは、戦病死だからです。
「特別合祀」、つまり合祀基準には合わないが特別に認められて、明治40年5月に靖国神社に合祀されたのです。
本人で選び取ることができない戦没のあり方、つまり、戦闘死か、戦病死かをめぐって、差別が存在することが見えてきます。
『大津市志』「人物志」の記述を抜き書きしておきます。
どこにも、「特祀」とは書いていませんが、同じ明治三十七年の戦没なのに、明治三十八年どころか、明治40年まで放置されていたわけです。
合祀の年月の違いを、これまで全然気にとめませんでした。
最初に見た村治少尉の場合も、鎌倉少尉の場合も、戦死・戦傷死した年月日は、明治37年8月末から9月始めでした。ですから、明治38年5月に行われた第一回の臨時大祭で、合祀されたのでしょう。
小野八三郎上等兵は、明治38年3月の戦死。直近でしたから、同年の5月に合祀は間に合わず、翌39年5月の二回目の臨時大祭で追加合祀されたことは、納得がいきます。
ですが、年月日では説明のできない合祀年月が出てきます。
たとえば、富和義哉陸軍歩兵曹長の場合。
死亡年月日は、明治37年10月18日。合祀は、明治40年5月。
答えは、戦病死だからです。
「特別合祀」、つまり合祀基準には合わないが特別に認められて、明治40年5月に靖国神社に合祀されたのです。
本人で選び取ることができない戦没のあり方、つまり、戦闘死か、戦病死かをめぐって、差別が存在することが見えてきます。
『大津市志』「人物志」の記述を抜き書きしておきます。
大津市上関寺町十一番地
陸軍歩兵曹長勲七等 富和義哉
慶応二年五月十六日生
明治二十年徴兵出身後備役として第四師団石関兵站司令部に属し三十七八年戦役従軍明治三十七年十月十八日清国南風房店兵站病院に於て赤痢病の為め死亡同日叙勲七等青色桐葉章及従軍記章を授け賜ひ同四十年五月靖国神社に合祀せらる。
どこにも、「特祀」とは書いていませんが、同じ明治三十七年の戦没なのに、明治三十八年どころか、明治40年まで放置されていたわけです。
コメント
トラックバック
このエントリのトラックバックURL: http://nostalghia.asablo.jp/blog/2010/10/11/5397262/tb
※なお、送られたトラックバックはブログの管理者が確認するまで公開されません。
西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。
戦争にかかわる碑
■ 忠魂碑・慰霊碑
○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など
○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)
○ 大津市南部の忠魂碑
民間墓地の戦没者○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。
□ 滋賀県の西南戦争の戦没者
□ 高島市(高島郡)の戦没者
■ 西南戦争(西南之役) 1877年
● 戦病死者名簿
*高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)
■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年
,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)
『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。
■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年
● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)
○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿
○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
□ Aブロック 埋葬者名簿
陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある
□ Bブロック 埋葬者名簿
日清戦争期に戦病死した下士官の墓地
□ Cブロック 埋葬者名簿
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Dブロック 埋葬者名簿(作成中)
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Eブロック 埋葬者名簿
■ 大津市作成の名簿順
■ あいうえお順
日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。
□ Fブロック 埋葬者名簿
明治8年から11年までに病死した下士官と
兵卒の墓碑が37基
□ Kブロック 埋葬者名簿
「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
すべて兵卒の墓碑。
□ Lブロック 埋葬者名簿
「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
合計98基。すべて兵卒の墓碑。
□ Mブロック 埋葬者名簿(作成中)
陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)
□ 西南戦争の戦死者
□ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿
□『大津市志』
□ 滋賀郡膳所町
□ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)
コメントをどうぞ
※メールアドレスとURLの入力は必須ではありません。 入力されたメールアドレスは記事に反映されず、ブログの管理者のみが参照できます。
※なお、送られたコメントはブログの管理者が確認するまで公開されません。