お元気ですか?
大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。
なにをテーマに書こうかと迷いながら
2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。
2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、
気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。
戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。
通信兵だった父や防空監視隊にいた母から
聞かされた話は、
戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない
という思いを強くさせるものでした。
ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、
国家の理屈で議論が進みます。
同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。
しかし、戦争は、最悪の暴力です。
私は草の根の痛み、
どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で
書いていきたいと思っています。
あまり楽しめないブログかも知れませんが、
お気軽に感想やコメントをお寄せください。
「兵卒の墓碑と階級名」Ⅰ~Ⅸの中間的なまとめ ① 記録文書の誤記について~ ― 2010/10/23
旧大津陸軍墓地のKブロックの139柱の墓碑名と階級名を、大津市保管の移葬時の名簿と照らし合わせながら、チェックしてきました。墓碑は正面、右側面、左側面、背面の4面ありますが、当面は正面のみのチェックです。
大津市保管の書類は、①オリジナルの墓地の形態と②そこの墓碑の位置、③氏名、④階級、⑤死亡年月を記録しています。たとえば、兵卒の墓碑の場合は、東側と西側にわけて、墓碑に番号をふっています。一覧表は二枚(東と西)、そして、地図上に墓碑の記号を並べて、その下に番号をつけて、どの墓碑がどの位置にあったのかが、わかるようになっている書類が二枚(東と西)あります。
氏名や階級の誤記は、実際の墓碑と照らし合わせれば、わかります。思った以上に間違いがありましたし、「二等卒」と記載されてても、実際は「陸軍歩兵二等卒」であったり、「歩兵二等卒」であったりします。その違いが重要なことは、K072の例でわかると思いますが、大津の名簿では配慮されていませんでした。
しかし、兵卒の墓碑のもとあったはずの位置の情報は、名簿を信頼する以外に、確認する方法がないのです。オリジナルの兵卒の墓地は破壊されて存在しませんから。当時の墓地全体がわかる写真が残っていればいいのですが。
疑いだせばきりがないのですが、破壊をまぬがれて、現在も原型をとどめているはずの墓地でも、名簿や位置の記録と実際はちがうのです。たとえば、ブロックFです(それは、またの機会にします)。
死亡年月についても、似たところがあります。実際の墓碑は、正面の名前すら読み取るのが不可能となっている墓碑もあります。死亡年月日が刻まれているはずの場所は、さらに見にくい状態です。ですから、むしろ、それに依拠するしかない唯一の記録となっている場合もあります。
ただ、死亡年月についても、碑文の解読間違いや名簿に清書するときの書き間違い(大津市保管の名簿は手書きです)の可能性は捨てきれません。
たとえば、K072(大津市の記録では西67)。
この墓碑の兵卒は、文書記録では、明治29年に死亡したことになっています。これは間違いだと思います。
第一に、埋葬位置と一致しません。左右や周囲は、明治19年に死亡した兵卒の墓碑が並んでいるのに、これだけが、明治29年と10年間のずれがあります。
第二に、階級名の表記の仕方と合いません。明治10年代末の階級名は「歩兵○○卒」などの表記方法。明治20年代末は(Kブロックで見る限り)「陸軍歩兵○○卒」というように「陸軍」がつけられています。では、K072はどうか。「歩兵○○卒」と刻まれていて、「陸軍」はついていません。
第三に台石の段数。明治22年まではほとんど例外なく、二段。K072は二段。明治29年の他の墓碑はすべて一段です。
位置も、階級表記も、台石も明治19年ということを示しているわけです。これは、誤記だと思います。実際の墓碑で確認すれば済むことですが、残念ながら、読み取れないのです。
大津市保管の書類は、①オリジナルの墓地の形態と②そこの墓碑の位置、③氏名、④階級、⑤死亡年月を記録しています。たとえば、兵卒の墓碑の場合は、東側と西側にわけて、墓碑に番号をふっています。一覧表は二枚(東と西)、そして、地図上に墓碑の記号を並べて、その下に番号をつけて、どの墓碑がどの位置にあったのかが、わかるようになっている書類が二枚(東と西)あります。
氏名や階級の誤記は、実際の墓碑と照らし合わせれば、わかります。思った以上に間違いがありましたし、「二等卒」と記載されてても、実際は「陸軍歩兵二等卒」であったり、「歩兵二等卒」であったりします。その違いが重要なことは、K072の例でわかると思いますが、大津の名簿では配慮されていませんでした。
しかし、兵卒の墓碑のもとあったはずの位置の情報は、名簿を信頼する以外に、確認する方法がないのです。オリジナルの兵卒の墓地は破壊されて存在しませんから。当時の墓地全体がわかる写真が残っていればいいのですが。
疑いだせばきりがないのですが、破壊をまぬがれて、現在も原型をとどめているはずの墓地でも、名簿や位置の記録と実際はちがうのです。たとえば、ブロックFです(それは、またの機会にします)。
死亡年月についても、似たところがあります。実際の墓碑は、正面の名前すら読み取るのが不可能となっている墓碑もあります。死亡年月日が刻まれているはずの場所は、さらに見にくい状態です。ですから、むしろ、それに依拠するしかない唯一の記録となっている場合もあります。
ただ、死亡年月についても、碑文の解読間違いや名簿に清書するときの書き間違い(大津市保管の名簿は手書きです)の可能性は捨てきれません。
たとえば、K072(大津市の記録では西67)。
この墓碑の兵卒は、文書記録では、明治29年に死亡したことになっています。これは間違いだと思います。
第一に、埋葬位置と一致しません。左右や周囲は、明治19年に死亡した兵卒の墓碑が並んでいるのに、これだけが、明治29年と10年間のずれがあります。
第二に、階級名の表記の仕方と合いません。明治10年代末の階級名は「歩兵○○卒」などの表記方法。明治20年代末は(Kブロックで見る限り)「陸軍歩兵○○卒」というように「陸軍」がつけられています。では、K072はどうか。「歩兵○○卒」と刻まれていて、「陸軍」はついていません。
第三に台石の段数。明治22年まではほとんど例外なく、二段。K072は二段。明治29年の他の墓碑はすべて一段です。
位置も、階級表記も、台石も明治19年ということを示しているわけです。これは、誤記だと思います。実際の墓碑で確認すれば済むことですが、残念ながら、読み取れないのです。
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西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。
戦争にかかわる碑
■ 忠魂碑・慰霊碑
○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など
○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)
○ 大津市南部の忠魂碑
民間墓地の戦没者○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。
□ 滋賀県の西南戦争の戦没者
□ 高島市(高島郡)の戦没者
■ 西南戦争(西南之役) 1877年
● 戦病死者名簿
*高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)
■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年
,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)
『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。
■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年
● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)
○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿
○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
□ Aブロック 埋葬者名簿
陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある
□ Bブロック 埋葬者名簿
日清戦争期に戦病死した下士官の墓地
□ Cブロック 埋葬者名簿
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Dブロック 埋葬者名簿(作成中)
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Eブロック 埋葬者名簿
■ 大津市作成の名簿順
■ あいうえお順
日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。
□ Fブロック 埋葬者名簿
明治8年から11年までに病死した下士官と
兵卒の墓碑が37基
□ Kブロック 埋葬者名簿
「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
すべて兵卒の墓碑。
□ Lブロック 埋葬者名簿
「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
合計98基。すべて兵卒の墓碑。
□ Mブロック 埋葬者名簿(作成中)
陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)
□ 西南戦争の戦死者
□ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿
□『大津市志』
□ 滋賀郡膳所町
□ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)
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