お元気ですか?

大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。


なにをテーマに書こうかと迷いながら

2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。

2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、

気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。


戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。

通信兵だった父や防空監視隊にいた母から

聞かされた話は、

戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない

という思いを強くさせるものでした。

ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、

国家の理屈で議論が進みます。

同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。

しかし、戦争は、最悪の暴力です。

私は草の根の痛み、

どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で

書いていきたいと思っています。


あまり楽しめないブログかも知れませんが、

お気軽に感想やコメントをお寄せください。


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近代日本を代表する建築家の一人・武田五一設計の「石山忠魂碑」2010/11/20

近代日本を代表する建築家の一人・武田五一設計の「石山忠魂碑」
 三度も現地に足を運びながら出会うことができなかった忠魂碑がありました。それが、武田五一設計の「石山忠魂碑」です。
 近代日本を代表する建築家の一人で、「関西建築界の父」と呼ばれていた人です。私が幼いころに繰り返し見学した岐阜市の名和昆虫博物館・昆虫碑を設計した人であることもわかり、より親しみをもちました。
 ヨーロッパに留学し、アール・ヌーボーを日本に紹介した建築家と「忠魂碑」。
 この取り合わせには、違和感がないわけではありません。ともかく、見てみたいと思い続けていました。
 そして、最後は、同級生Oさんとの偶然の出会いに助けられて、見ることが出来ました。感謝しています。
 ただただ、驚いて見つめました。
 それは、自然石そのままのボリュームで圧倒する忠魂碑や、おきまりの四角柱(先端は尖っている)の忠魂碑とはかけ離れた存在でした。そこには、異質の精神=近代的な精神を感じました。
 それだけに、いっそう「忠魂碑」という本来の意味との間に、乖離が生まれます。簡単にいえば、私は、この碑からは、「忠魂」を感じません。たとえ、8角形の星形に私の知らない意味があったとしても。

コメント

_ 越前屋平太 ― 2011年10月24日 14時24分10秒

はじめまして。
私、大津市在住の者でして、滋賀県の古建築や文化財に興味を持ち、おこがましくもブログでご紹介などをしております。その過程で武田五一設計の「石山忠魂碑」の存在を知り、二年ほど前からあちこち探しまわっておりました。
実はBIN★様同様に支所や地元のお年寄りに尋ねたりもしたのですが、その所在が一向につかめず、「もしかしたら滋賀刑務所の中か???」とも思い(苦笑)、半ば発見を諦めかけておりました。本日こちらのブログにたどり着き、感動を覚えている次第です。
写真を拝見しますと住宅地の中のようですが、これは個人所有の敷地内でしょうか?もし差支えなければ所在地をご教示賜ればありがたいのですが。よろしくお願いいたします。

_ BIN★→越前屋平太さん ― 2011年10月24日 19時32分52秒

いらっしゃいませ。
越前屋平太さん・・・なんか、お名前を知っていますよ。
お名前だけなんですけど、きっと有名人なんですね(笑)。

所在地は、保育園の隣です。
保育園の知り合いに頼んで、
敷地を通過して入りました。
フェンスがあって、カギがかかっていました。
それを開けてもらって入ったのです。
住宅街からも入れますけれど、ややこしいらしいです。

管理者は遺族会だと思います。
忠魂碑の前で、慰霊祭を毎年つづけて
いたらしですが、高齢化のために
できなくなるところも生まれています。

より詳しいことはメールを送ります。

_ 越前屋平太 ― 2011年10月24日 23時15分30秒

こんばんは。早速のレスありがとうございます。
>お名前だけなんですけど、きっと有名人なんですね(笑)。
タレントの「越前屋俵太」とよく勘違いされます。全く無関係なんですが ^^;

なるほど保育園でしたか。旧石山小学校の敷地にあったというのは何かで知りまして、現在も公的な施設になっている可能性は高いなとは思っていたのですが・・・。
メールアドレスを入力させていただきました。よろしくお願いいたします。

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BIN★「この記なんの記」ブログ情報 August 12 , 2011



 西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。

戦争にかかわる碑

  ■ 忠魂碑・慰霊碑

    ○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など

    ○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)

    ○ 大津市南部の忠魂碑

民間墓地の戦没者

 □ 滋賀県の西南戦争の戦没者

 □ 高島市(高島郡)の戦没者

  ■ 西南戦争(西南之役) 1877年

   ● 戦病死者名簿

      *高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)

  ■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年

   ,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)

      『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。

  ■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年

   ● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)

      ○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿

    ○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。

 公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
 □ ブロック 埋葬者名簿

     陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある

 □ ブロック 埋葬者名簿

     日清戦争期に戦病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

  ■ 大津市作成の名簿順

  ■ あいうえお順

     日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治8年から11年までに病死した下士官と
          兵卒の墓碑が37基


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
         すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
          合計98基。すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)

 □ 西南戦争の戦死者

 □ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿

 □『大津市志』

 □ 滋賀郡膳所町

 □ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)