お元気ですか?
大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。
なにをテーマに書こうかと迷いながら
2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。
2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、
気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。
戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。
通信兵だった父や防空監視隊にいた母から
聞かされた話は、
戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない
という思いを強くさせるものでした。
ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、
国家の理屈で議論が進みます。
同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。
しかし、戦争は、最悪の暴力です。
私は草の根の痛み、
どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で
書いていきたいと思っています。
あまり楽しめないブログかも知れませんが、
お気軽に感想やコメントをお寄せください。
竹田市で、素麺をいただきました ― 2011/08/01
「フラワーズヴァレー」のオムレツカレー ― 2011/08/01
「砲弾型墓碑」が3基@四津川墓地(高島市) ― 2011/08/01
田の真ん中あたりのあぜ道にそって墓地がありました。一番右には、背が高くて四角柱・四角錐型の墓碑が立っていましたが、その左には、写真のように砲弾型墓碑が3基並んでいました。
2007年の11月に、大字今津共同墓地ではじめて「砲弾型」墓碑を見ました。そのときも、3基並んでいました。上の写真がそのとき撮ったものです。オーバーかも知れませんが、立ちすくむ位の衝撃をうけました。そういう驚きが、墓碑探索を後押ししているのだと思います。
高島市の日露戦争の戦病死者は100名とされています。これまでにかなりの数の墓碑を拝見しました。もっとも古いものは、安曇川の田中墓地にありますが、「砲弾型」墓碑は、けっして珍しいものではなく、日露戦争基の墓碑に限っては多数派を構成しているように思えます。
墓碑の正面の文字を読んでみました。
2007年の11月に、大字今津共同墓地ではじめて「砲弾型」墓碑を見ました。そのときも、3基並んでいました。上の写真がそのとき撮ったものです。オーバーかも知れませんが、立ちすくむ位の衝撃をうけました。そういう驚きが、墓碑探索を後押ししているのだと思います。
高島市の日露戦争の戦病死者は100名とされています。これまでにかなりの数の墓碑を拝見しました。もっとも古いものは、安曇川の田中墓地にありますが、「砲弾型」墓碑は、けっして珍しいものではなく、日露戦争基の墓碑に限っては多数派を構成しているように思えます。
墓碑の正面の文字を読んでみました。
「故陸軍歩兵伍長勲八等功七級 山本鶴吉 之碑」続いて、一つひとつ見ていきましょう。
「故陸軍歩兵軍曹勲七等 梅村七松 之碑」
「故陸軍輜重輸卒勲八等 早藤彌三郎 之碑」
旅順要塞第一次総攻撃で戦死「故陸軍歩兵伍長山本鶴吉之碑」 ― 2011/08/01
「陸軍歩兵伍長」といえば、下士官(特務曹長、曹長、伍長、軍曹)です。兵卒(上等兵、一等卒、二等卒)ではありません。
思い出すのは、旧大津陸軍墓地です。ここでは、将校はもちろんですが、下士官と兵卒では埋葬地も違えば、墓碑の大きさも違います。たとえば、日清戦争のときは、戦病死者のために個人墓碑がつくられましたが、埋葬場所と大きさで差別されていました。 上が下士の墓地、下が兵卒の墓地です。
日露戦争のときは、あまりの戦死者の多さに、個人墓碑はつくられず、集合碑がつくられました。しかも、4柱も。4柱つくった意味は、将校、准士官、下士、兵卒という区別をつけるためで、碑の大きさも違います。このような階級差別は、官製墓地では厳格でした。
ところが、民間墓地では、平等の扱いを受けています。そのことがまず印象的でした。
墓碑の右側面には、「法名」という文字が見えます。
『高島郡誌』は、山本鶴吉の出身地は「本庄村大字四津川」、兵種を「歩兵」、階級を「伍長」、勲等功級を「勲八等功七級」、戦病死年月日を「明治三十七年八月二十一日」、戦病死場所を「旅順」としています。
前にも書きましたが、乃木将軍の第三軍が旅順要塞に第一次総攻撃をかけたのが、明治37(1904)年8月19日でした。山本鶴吉は21日に「旅順」で亡くなっています。さしあたり、これ以上のことはわかりません。
思い出すのは、旧大津陸軍墓地です。ここでは、将校はもちろんですが、下士官と兵卒では埋葬地も違えば、墓碑の大きさも違います。たとえば、日清戦争のときは、戦病死者のために個人墓碑がつくられましたが、埋葬場所と大きさで差別されていました。 上が下士の墓地、下が兵卒の墓地です。
日露戦争のときは、あまりの戦死者の多さに、個人墓碑はつくられず、集合碑がつくられました。しかも、4柱も。4柱つくった意味は、将校、准士官、下士、兵卒という区別をつけるためで、碑の大きさも違います。このような階級差別は、官製墓地では厳格でした。
ところが、民間墓地では、平等の扱いを受けています。そのことがまず印象的でした。
墓碑の右側面には、「法名」という文字が見えます。
『高島郡誌』は、山本鶴吉の出身地は「本庄村大字四津川」、兵種を「歩兵」、階級を「伍長」、勲等功級を「勲八等功七級」、戦病死年月日を「明治三十七年八月二十一日」、戦病死場所を「旅順」としています。
前にも書きましたが、乃木将軍の第三軍が旅順要塞に第一次総攻撃をかけたのが、明治37(1904)年8月19日でした。山本鶴吉は21日に「旅順」で亡くなっています。さしあたり、これ以上のことはわかりません。
hummingbirdさんへ ― 2011/08/02
遼東半島の青泥窪兵站病院で亡くなった「故陸軍歩兵軍曹梅村七松之碑」@四津川墓地 ― 2011/08/03
映画「ロック ~わんこの島~」のなかで、繰り返されるセリフがあります。「一週間で人は半分忘れる、つぎの一週間で残りの半分を忘れる」と。しかし、忘れなかった人たちとワンコがいたわけです。ですから、逆説のように思えました。それでも、忘れられないことがあり、忘れない人がいるのだと。
戦争の記憶はどうでしょうか。悲しみの記憶をのこす人が亡くなると、それを引き継ぐのは難しくなります。墓碑は、形は世代を超えて残っても、思いが残るとは思えません。
私のように、まったく見知らぬ人の墓碑を訪ね歩く、姿は奇妙なものでしょうね。墓地の関係者にモノを訪ねるときの怪訝そうな反応は何度も経験します。私は、石に刻まれた無念の思いに耳を傾けようと思いました。可能な限り、生きたという証を探しながら。
さて、この墓碑は、日露戦争で亡くなった「陸軍歩兵軍曹 梅村七松」のお墓です。
出身地は高島郡「本庄村大字四川」、兵種は「歩兵」、階級は「軍曹」、勲等功級は「勲七等」、戦病死年月日は「明治三十七年十月三十一日」、戦病死場所は「青泥窪兵站病院(病死)」と、『高島郡誌』には書かれています。
いくつかの疑問があります。きっと、それらがこの軍曹の生きた姿につながる手がかりとなるのでしょう。たとえば、勲八等と勲七等の違いはどこにあるのか、功級がつくひととつかない人との違いはどこにあるのか。また、病死したという「青泥窪兵站病院」は、中国大陸のどこにあったのでしょうか。 調べてみました。「青泥窪」とは、「大連」の旧地名。旅順の近くの商業都市です。梅村七松が病死したのは、明治37(1904)年10月31日。旅順要塞への攻撃の最中にあたります。
戦争の記憶はどうでしょうか。悲しみの記憶をのこす人が亡くなると、それを引き継ぐのは難しくなります。墓碑は、形は世代を超えて残っても、思いが残るとは思えません。
私のように、まったく見知らぬ人の墓碑を訪ね歩く、姿は奇妙なものでしょうね。墓地の関係者にモノを訪ねるときの怪訝そうな反応は何度も経験します。私は、石に刻まれた無念の思いに耳を傾けようと思いました。可能な限り、生きたという証を探しながら。
さて、この墓碑は、日露戦争で亡くなった「陸軍歩兵軍曹 梅村七松」のお墓です。
出身地は高島郡「本庄村大字四川」、兵種は「歩兵」、階級は「軍曹」、勲等功級は「勲七等」、戦病死年月日は「明治三十七年十月三十一日」、戦病死場所は「青泥窪兵站病院(病死)」と、『高島郡誌』には書かれています。
いくつかの疑問があります。きっと、それらがこの軍曹の生きた姿につながる手がかりとなるのでしょう。たとえば、勲八等と勲七等の違いはどこにあるのか、功級がつくひととつかない人との違いはどこにあるのか。また、病死したという「青泥窪兵站病院」は、中国大陸のどこにあったのでしょうか。 調べてみました。「青泥窪」とは、「大連」の旧地名。旅順の近くの商業都市です。梅村七松が病死したのは、明治37(1904)年10月31日。旅順要塞への攻撃の最中にあたります。
「故陸軍輜重輸卒 早藤彌三郎 之碑」@四津川墓地 ― 2011/08/03
横江浜にも「砲弾型」墓碑が一基 ― 2011/08/03
「故陸軍歩兵上等兵 澤井六之丞碑」@横江浜墓地 ― 2011/08/03
澤井六之丞の出身地は高島郡「本庄村大字横江浜」、兵種は「歩兵」、階級は「上等兵」、勲八等功級は「勲八等功七級」、戦病死年月日は「明治三十八年十月七日」、戦病死場所は「古城堡(病死)」。
古城堡が具体的な地名なのかどうか、不明。
赤字はまだ見学ができていない墓碑です。
古城堡が具体的な地名なのかどうか、不明。
本庄村の日露戦争戦病死者
●梅村 七松 本庄村大字四津川
明治37年10月31日 青泥窪兵站病院(病死)
*四津川墓地に砲弾型墓碑
●山本 鶴吉 本庄村大字四津川
明治37年8月21日 旅順
*四津川墓地に砲弾型墓碑
●拝藤 勇蔵 本庄村大字四津川
明治38年3月7日 小貴興堡
*砲弾型墓碑
●梅村 伊三郎 本庄村大字四津川
明治37年6月15日 得利寺
*砲弾型墓碑
●澤井 六之丞 本庄村大字横江濱
明治38年10月7日 古城堡(病死)
*横江浜墓地に砲弾型墓碑
●橋本 伊三郎 本庄村大字南船木
明治38年3月7日 小貴興堡
*四角柱の墓碑
●竹原 岩次郎 本庄村大字南船木
明治37年8月21日 旅順
*四角柱の墓碑
●早藤 彌三郎 本庄村大字四津川
明治38年1月24日 遼陽兵站病院(病死)
*四津川墓地に砲弾型墓碑
赤字はまだ見学ができていない墓碑です。
唯一の女性戦死者・宮田愛子@「戦没者御遺影」(今津町) ― 2011/08/03
西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。
戦争にかかわる碑
■ 忠魂碑・慰霊碑
○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など
○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)
○ 大津市南部の忠魂碑
民間墓地の戦没者○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。
□ 滋賀県の西南戦争の戦没者
□ 高島市(高島郡)の戦没者
■ 西南戦争(西南之役) 1877年
● 戦病死者名簿
*高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)
■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年
,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)
『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。
■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年
● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)
○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿
○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
□ Aブロック 埋葬者名簿
陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある
□ Bブロック 埋葬者名簿
日清戦争期に戦病死した下士官の墓地
□ Cブロック 埋葬者名簿
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Dブロック 埋葬者名簿(作成中)
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Eブロック 埋葬者名簿
■ 大津市作成の名簿順
■ あいうえお順
日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。
□ Fブロック 埋葬者名簿
明治8年から11年までに病死した下士官と
兵卒の墓碑が37基
□ Kブロック 埋葬者名簿
「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
すべて兵卒の墓碑。
□ Lブロック 埋葬者名簿
「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
合計98基。すべて兵卒の墓碑。
□ Mブロック 埋葬者名簿(作成中)
陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)
□ 西南戦争の戦死者
□ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿
□『大津市志』
□ 滋賀郡膳所町
□ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)
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