お元気ですか?
大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。
なにをテーマに書こうかと迷いながら
2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。
2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、
気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。
戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。
通信兵だった父や防空監視隊にいた母から
聞かされた話は、
戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない
という思いを強くさせるものでした。
ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、
国家の理屈で議論が進みます。
同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。
しかし、戦争は、最悪の暴力です。
私は草の根の痛み、
どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で
書いていきたいと思っています。
あまり楽しめないブログかも知れませんが、
お気軽に感想やコメントをお寄せください。
瀬田村、上田上村、下田上村、大石村 ― 2011/08/12
現在の大津市にかかわる「戦時事績」をすべて閲覧したつもりでしたが、欠落があることに気が付きました。日清戦争(明治27・28年戦役)・日露戦争(明治37・38年戦役)当時、瀬田村、上田上村、下田上村、大石村(現在の瀬田北、瀬田東、瀬田、瀬田南、上田上、大石の各学区)は、栗太郡に属していました。栗太郡の「戦時事績」を請求しないと、見ることができないのです。
これらの旧村は、琵琶湖と瀬田川の東岸にあります。いまでこそ、近江大橋、瀬田の唐橋、南郷洗堰、鹿跳橋などで気軽に行き来ができますが、地理的には、別の郡に属して当然の土地でした。
栗太郡は、いまはもうありません。
これらの旧村は、琵琶湖と瀬田川の東岸にあります。いまでこそ、近江大橋、瀬田の唐橋、南郷洗堰、鹿跳橋などで気軽に行き来ができますが、地理的には、別の郡に属して当然の土地でした。
栗太郡は、いまはもうありません。
「昭和十九年六月十九日午後三時三十分太平洋上ニテ戦死 四十二歳」 ― 2011/08/12
「昭和十九年六月十九日午後三時三十分太平洋上ニテ戦死 四十二歳」---戦死者の墓碑に刻まれたこの文言は、きっと戦死の通知をなぞったものなのでしょう。人生の最後の瞬間に、どうしう死に方をしたのか知りたいと願う気持ちに、応えた文面には思えません。それでも、最後を伝える唯一の言葉だったのでしょう。下士官であるとはいえ、四十二歳は高齢です。墓碑の「忠」という字が私には痛ましく思えます。
「昭和十九年十二月二十四日ボルネオノ北岸ノ戦闘ニテ戦死ス 二十三歳」 ― 2011/08/12
「昭和十九年十二月二十四日ボルネオノ北岸ノ戦闘ニテ戦死ス 二十三歳」---陸軍上等兵の墓碑には、こう刻まれています。戦史を検証すれば、どういう「戦闘」であったのかはわかりますが、この若者の生きた姿は、友人や遺族の胸のなかにしか見ることはできないのです。
「昭和十九年七月十八日於マリヤナ島方面戦死」 ― 2011/08/12
「昭和十九年七月十八日於マリヤナ島方面戦死」---戦死した場所に「方面」がついていることに違和感があります。しかし、東日本大震災のとき、津波にのまれた人たちのすべて見つかっているわけでもありません。どこで、どうして最後を迎えたのかも、わからない状態は、痛ましい限りです。日付も不安が残ります。ましてや、遺骨は帰ってきていないことでしょう。
「昭和二十年二月一日 比島レイテ島戦死」~二人の墓碑~ ― 2011/08/12
「空気遠近法」の世界 ― 2011/08/12
「大津市志」(明治44年)での日露戦争戦病死者名簿と墓碑の存在 ― 2011/08/12
上の写真には、日露戦争の戦病死者の墓碑がならんでます。右から、松岡七郎、大塚萬吉、片岡平次郎、そして山口三治郎。この4つの墓碑との出会いが、戦争の碑と墓碑の探究のはじまりでした。2007年8月のことです。
同じ墓地内で、日露戦争の墓碑をいくつか見つけました。墓参に訪れる人がなくなった墓碑が、、墓地の中央に積み上げられていました。台座はなく、本体だけの姿で羽田萬次郎の墓碑が見つかりました。
下は、田中卯之助の墓碑です。墓地の入口の4基のようにひとまとまりではなく、個別の墓碑として建っていました。
上の平野嘉一郎も、下の中崎佐次郎の墓碑も単独で建てられていました。石の質が違っています。
同じ墓地を散策するうちに、つぎつぎと日露戦争の墓碑を見つけました。全部で、7柱となりました。はるか昔の戦争の墓碑がいまなお時を止めるようにそこにあることに驚きました。
そこで、現在に残る日露戦争の墓碑を捜し歩くことになったのです。 その後、いくつか見つけました。それについては、つぎの記事に書きます。探す作業が本格的になるにつれ、日露戦争の戦死者の名簿があればと思いました。そこで見つけたのが、明治44(1911)年発行の『大津市志』でした。
巻末の記事から、下にあるような日露戦争の戦病死者の名簿をつくりました。
下は、田中卯之助の墓碑です。墓地の入口の4基のようにひとまとまりではなく、個別の墓碑として建っていました。
上の平野嘉一郎も、下の中崎佐次郎の墓碑も単独で建てられていました。石の質が違っています。
同じ墓地を散策するうちに、つぎつぎと日露戦争の墓碑を見つけました。全部で、7柱となりました。はるか昔の戦争の墓碑がいまなお時を止めるようにそこにあることに驚きました。
そこで、現在に残る日露戦争の墓碑を捜し歩くことになったのです。 その後、いくつか見つけました。それについては、つぎの記事に書きます。探す作業が本格的になるにつれ、日露戦争の戦死者の名簿があればと思いました。そこで見つけたのが、明治44(1911)年発行の『大津市志』でした。
巻末の記事から、下にあるような日露戦争の戦病死者の名簿をつくりました。
日露戦争
「明治三十七八年戦役戦病死者」
○小池 友愛 陸軍歩兵少佐
○安井 和三郎 陸軍歩兵大尉
○志賀 清直 陸軍一等主計
○柴山 勇吉 陸軍歩兵中尉
○鎌倉 誠一 陸軍歩兵少尉
*旧大津陸軍墓地に墓碑がある
○山本 政吉 陸軍歩兵少尉
○藤本 元吉 陸軍歩兵少尉
○村治 昭 陸軍歩兵少尉
*旧大津陸軍墓地に墓碑がある
○築山 銀之助 陸軍歩兵軍曹
○中井 市松 陸軍歩兵軍曹
*民間墓地に墓碑がある
○西村 幾太郎 陸軍歩兵軍曹
○二階堂 捨吉 陸軍歩兵伍長
○高野 寅次郎 陸軍歩兵伍長
○大塚 和吉 陸軍歩兵伍長
○山口 周次郎 陸軍歩兵伍長
○中西 藤三郎 陸軍歩兵上等兵
○勝山 安太郎 陸軍歩兵上等兵
○山口 三治郎 陸軍歩兵上等兵
*小関の墓地に墓碑がある
○酒井 儀三郎 陸軍歩兵上等兵
○磯野 榮次郎 陸軍歩兵上等兵
○山本 勇治郎 陸軍歩兵上等兵
○近松 益太郎 陸軍歩兵上等兵
○片岡 平次郎 陸軍歩兵上等兵
*小関の墓地に墓碑がある
○中崎 佐次郎 陸軍歩兵上等兵
*小関の墓地に墓碑がある
○石田 末吉 陸軍歩兵上等兵
○熊井 勇次郎 陸軍歩兵上等兵
○大塚 萬吉 陸軍歩兵上等兵
*小関の墓地に墓碑がある
○平野 嘉一郎 陸軍歩兵上等兵
*小関の墓地に墓碑がある
○平野 留三郎 陸軍歩兵上等兵
○小野 八三郎 陸軍歩兵上等兵
*民間墓地に墓碑がある
○羽田 萬次郎
*小関の墓地に墓碑がある
○里井 岩吉 陸軍歩兵一等卒
○山本 玄融 陸軍騎兵一等卒
*高山寺墓地に墓碑がある
○富和 義哉 陸軍歩兵曹長
○芝田 清三郎 陸軍歩兵上等兵
○杉本 熊吉 陸軍歩兵一等卒
*民間墓地に墓碑がある
○市田 清兵衛 陸軍歩兵一等卒
○田中 彌四郎 陸軍歩兵一等卒
○勝野 伊三郎 陸軍歩兵二等卒
○岸田 忠蔵 陸軍歩兵二等卒
○山本 治三郎 陸軍歩兵二等卒
○長瀬 甚之助 陸軍輜重輸卒
○大西 米蔵 陸軍輜重輸卒
○石井 音次郎 陸軍輜重輸卒
○田中 卯之助 陸軍輜重輸卒
*小関の墓地に墓碑がある。
○白井 猪奈次郎 陸軍輜重輸卒
○阿蘇 利三郎 陸軍輜重輸卒
○奥村 庄五郎 元陸軍輜重輸卒
○木村 彌惣吉 元陸軍輜重輸卒
○片岡 忠三 鐵道廳雇員
○山田 寅吉 鐵道線路工夫長
○松岡 七郎 鐵道掃除夫傭人
*小関の墓地に墓碑がある
○吉田 徳次郎 陸軍歩兵上等兵
大津市で見ることができる日露戦争の墓碑 ~その1 合葬碑~ ― 2011/08/12
現在の大津市で、日露戦争にかかわる墓碑・記念碑は、どれだけ造られ、そのうちのどれだけが残っているのでしょうか。
私が最初に思いつくのは、陸軍が建設した4柱で一セットとなっている合葬碑です。置かれている場所は、JR大津京駅の山手にある「旧大津陸軍墓地」。旧真田山陸軍墓地とまったく同じものが建てられています。
旧真田山陸軍墓地では、4基が横に並べられています。旧大津陸軍墓地では、3か所に分散しています。それは、旧真田山陸軍墓地が、平地であるのに対して、旧大津陸軍墓地が、山の傾斜地にあり、棚田のような形で三層構造になっていることと関係があると思います。上段は、将校の墓地。そこには、「明治三十七八年戦役将校同相當官戦病死者合葬碑」がおかれています。中段には、「明治三十七八年戦役准士官戦病死者合葬碑」と「明治三十七八年下士戦病死者合葬碑」の二つが並んで建てられています。 下段には、「明治三十七八年戦役兵卒戦病死者合葬碑」がありました。しかし、下段そのものは、、1970年代中ごろの道路工事のために破壊されて今は存在しません。中段を拡張し、そこに置かれています。それぞれの形は同じですが、大きさが違います。将校は大きく、兵卒のものは小さいのです。 ちなみに、旧大津陸軍墓地には、これら4つの集合碑以外の日露戦争の個人墓碑は、4柱あります。すべて将校の墓碑です。
私が最初に思いつくのは、陸軍が建設した4柱で一セットとなっている合葬碑です。置かれている場所は、JR大津京駅の山手にある「旧大津陸軍墓地」。旧真田山陸軍墓地とまったく同じものが建てられています。
旧真田山陸軍墓地では、4基が横に並べられています。旧大津陸軍墓地では、3か所に分散しています。それは、旧真田山陸軍墓地が、平地であるのに対して、旧大津陸軍墓地が、山の傾斜地にあり、棚田のような形で三層構造になっていることと関係があると思います。上段は、将校の墓地。そこには、「明治三十七八年戦役将校同相當官戦病死者合葬碑」がおかれています。中段には、「明治三十七八年戦役准士官戦病死者合葬碑」と「明治三十七八年下士戦病死者合葬碑」の二つが並んで建てられています。 下段には、「明治三十七八年戦役兵卒戦病死者合葬碑」がありました。しかし、下段そのものは、、1970年代中ごろの道路工事のために破壊されて今は存在しません。中段を拡張し、そこに置かれています。それぞれの形は同じですが、大きさが違います。将校は大きく、兵卒のものは小さいのです。 ちなみに、旧大津陸軍墓地には、これら4つの集合碑以外の日露戦争の個人墓碑は、4柱あります。すべて将校の墓碑です。
大津市で見ることができる日露戦争の墓碑・記念碑
□明治三十七八年戦役将校同相當官戦病死者合葬碑
*旧大津陸軍墓地(上段東)
□明治三十七八年戦役准士官戦病死者合葬碑
*旧大津陸軍墓地(中段東)
□明治三十七八年下士戦病死者合葬碑
*旧大津陸軍墓地(中段東)
□明治三十七八年戦役兵卒戦病死者合葬碑
*旧大津陸軍墓地(中段西)
大津市で見ることができる日露戦争の墓碑 ~その2 将校の墓地~ ― 2011/08/12
旧大津陸軍墓地の最上段に、将校の墓地があります。墓碑は20柱ですが、1柱は別だと思いますから、実際は19柱です。日露戦争で戦死した将校の墓碑は、このうちの5基です。
上の写真の手前から3番目に、陸軍歩兵大尉徳大寺龜一と同じく陸軍歩兵大尉の伏木徳太郎の墓碑が見えています。残り二柱は、大きな二つの墓碑の向こうなので、上の写真では確認が難しいので、下の写真を見てください。
左から2人目が、陸軍歩兵少佐奈良鉞治郎の墓碑。一つおいて、陸軍歩兵大尉谷村元吉、陸軍歩兵少尉村治昭。さらに一つおいて、陸軍歩兵少尉鎌倉誠一の墓碑です。写真からは、大きさがよくわからないと思います。
これらのうち、村治昭と鎌倉誠一の両名は、大津市出身者として『大津市志』に経歴が載せられています。村治昭の父は、陸軍二等軍医正村治重厚であり、その墓碑もこの地にあります。
旧大津陸軍墓地は、陸軍歩兵第九聯隊大津営所の附属埋葬地であり、この聯隊の関係者に限られています。
大津市で見ることができる日露戦争の墓碑
→その1 合葬碑
上の写真の手前から3番目に、陸軍歩兵大尉徳大寺龜一と同じく陸軍歩兵大尉の伏木徳太郎の墓碑が見えています。残り二柱は、大きな二つの墓碑の向こうなので、上の写真では確認が難しいので、下の写真を見てください。
左から2人目が、陸軍歩兵少佐奈良鉞治郎の墓碑。一つおいて、陸軍歩兵大尉谷村元吉、陸軍歩兵少尉村治昭。さらに一つおいて、陸軍歩兵少尉鎌倉誠一の墓碑です。写真からは、大きさがよくわからないと思います。
これらのうち、村治昭と鎌倉誠一の両名は、大津市出身者として『大津市志』に経歴が載せられています。村治昭の父は、陸軍二等軍医正村治重厚であり、その墓碑もこの地にあります。
旧大津陸軍墓地は、陸軍歩兵第九聯隊大津営所の附属埋葬地であり、この聯隊の関係者に限られています。
大津市で見ることができる日露戦争の墓碑・記念碑
個人墓碑
■陸軍歩兵大尉 徳大寺 龜一
*旧大津陸軍墓地 Aブロック
■陸軍歩兵大尉 伏木 徳太郎
*旧大津陸軍墓地 Aブロック
■陸軍歩兵少佐 奈良 鉞治郎
*旧大津陸軍墓地 Aブロック
■陸軍歩兵大尉 谷村 元吉
*旧大津陸軍墓地 Aブロック
■陸軍歩兵少尉 村治 昭
*旧大津陸軍墓地 Aブロック
■陸軍歩兵少尉 鎌倉 誠一
*旧大津陸軍墓地 Aブロック
合葬碑
□明治三十七八年戦役将校同相當官戦病死者合葬碑
*旧大津陸軍墓地(上段東)
□明治三十七八年戦役准士官戦病死者合葬碑
*旧大津陸軍墓地(中段東)
□明治三十七八年下士戦病死者合葬碑
*旧大津陸軍墓地(中段東)
□明治三十七八年戦役兵卒戦病死者合葬碑
*旧大津陸軍墓地(中段西)
大津市で見ることができる日露戦争の墓碑
→その1 合葬碑
西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。
戦争にかかわる碑
■ 忠魂碑・慰霊碑
○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など
○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)
○ 大津市南部の忠魂碑
民間墓地の戦没者○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。
□ 滋賀県の西南戦争の戦没者
□ 高島市(高島郡)の戦没者
■ 西南戦争(西南之役) 1877年
● 戦病死者名簿
*高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)
■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年
,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)
『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。
■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年
● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)
○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿
○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
□ Aブロック 埋葬者名簿
陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある
□ Bブロック 埋葬者名簿
日清戦争期に戦病死した下士官の墓地
□ Cブロック 埋葬者名簿
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Dブロック 埋葬者名簿(作成中)
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Eブロック 埋葬者名簿
■ 大津市作成の名簿順
■ あいうえお順
日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。
□ Fブロック 埋葬者名簿
明治8年から11年までに病死した下士官と
兵卒の墓碑が37基
□ Kブロック 埋葬者名簿
「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
すべて兵卒の墓碑。
□ Lブロック 埋葬者名簿
「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
合計98基。すべて兵卒の墓碑。
□ Mブロック 埋葬者名簿(作成中)
陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)
□ 西南戦争の戦死者
□ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿
□『大津市志』
□ 滋賀郡膳所町
□ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)
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