お元気ですか?
大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。
なにをテーマに書こうかと迷いながら
2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。
2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、
気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。
戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。
通信兵だった父や防空監視隊にいた母から
聞かされた話は、
戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない
という思いを強くさせるものでした。
ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、
国家の理屈で議論が進みます。
同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。
しかし、戦争は、最悪の暴力です。
私は草の根の痛み、
どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で
書いていきたいと思っています。
あまり楽しめないブログかも知れませんが、
お気軽に感想やコメントをお寄せください。
「昭和十九年六月十九日午後三時三十分太平洋上ニテ戦死 四十二歳」 ― 2011/08/12
「昭和十九年六月十九日午後三時三十分太平洋上ニテ戦死 四十二歳」---戦死者の墓碑に刻まれたこの文言は、きっと戦死の通知をなぞったものなのでしょう。人生の最後の瞬間に、どうしう死に方をしたのか知りたいと願う気持ちに、応えた文面には思えません。それでも、最後を伝える唯一の言葉だったのでしょう。下士官であるとはいえ、四十二歳は高齢です。墓碑の「忠」という字が私には痛ましく思えます。
コメント
_ やつしろ ― 2011年08月14日 01時17分35秒
_ やつしろ ― 2011年08月14日 02時08分53秒
どの時代にも、偉大な人はいるもので、戦争に反対する僧侶がいました。
竹中彰元(慶応3年~昭和20年10月21日)真宗大谷派岐阜県垂井町明泉寺住職。
日露戦争の際は、従軍布教使を務めましたが、日中戦争を「戦争は最大の罪悪である。」と、戦争の本質を見抜き、身をもって戦争に反対しました。
これらの言動により逮捕され、昭和13年に有罪判決を受けました。
宗派は、国家の処分に準じて、僧侶の資格を最低の位に落とし、布教使の資格を剥奪しました。
戦後随分経って「名誉回復運動」が始まり、平成19年10月、宗派主催の「復権顕彰大会」の席上、宗務総長が謝罪、当時の処分を70年ぶりに取り消しました。
コメディアン植木等の父、植木徹誠師も戦争反対を訴えて、治安維持法違反で4年間投獄されています。
しかし、これらは極めて例外なものであって、仏教界は総じて戦争遂行に協力しました。
境内は農作物の畑に化し、地方寺院の一部は、学童疎開など都会からの疎開者を受け入れました。
仏教界全体が、時代の波に翻弄されたのです。
竹中彰元(慶応3年~昭和20年10月21日)真宗大谷派岐阜県垂井町明泉寺住職。
日露戦争の際は、従軍布教使を務めましたが、日中戦争を「戦争は最大の罪悪である。」と、戦争の本質を見抜き、身をもって戦争に反対しました。
これらの言動により逮捕され、昭和13年に有罪判決を受けました。
宗派は、国家の処分に準じて、僧侶の資格を最低の位に落とし、布教使の資格を剥奪しました。
戦後随分経って「名誉回復運動」が始まり、平成19年10月、宗派主催の「復権顕彰大会」の席上、宗務総長が謝罪、当時の処分を70年ぶりに取り消しました。
コメディアン植木等の父、植木徹誠師も戦争反対を訴えて、治安維持法違反で4年間投獄されています。
しかし、これらは極めて例外なものであって、仏教界は総じて戦争遂行に協力しました。
境内は農作物の畑に化し、地方寺院の一部は、学童疎開など都会からの疎開者を受け入れました。
仏教界全体が、時代の波に翻弄されたのです。
_ BIN★→やつしろさん ― 2011年08月16日 15時53分24秒
コメントありがとうございました。
大変、参考になるお話でした。そういう種類の本を先日以来、読んでいました。
仏教の名誉を守った人がいたことは、仏教全体の財産となるべきことだと思いました。
大変、参考になるお話でした。そういう種類の本を先日以来、読んでいました。
仏教の名誉を守った人がいたことは、仏教全体の財産となるべきことだと思いました。
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西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。
戦争にかかわる碑
■ 忠魂碑・慰霊碑
○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など
○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)
○ 大津市南部の忠魂碑
民間墓地の戦没者○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。
□ 滋賀県の西南戦争の戦没者
□ 高島市(高島郡)の戦没者
■ 西南戦争(西南之役) 1877年
● 戦病死者名簿
*高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)
■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年
,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)
『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。
■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年
● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)
○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿
○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
□ Aブロック 埋葬者名簿
陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある
□ Bブロック 埋葬者名簿
日清戦争期に戦病死した下士官の墓地
□ Cブロック 埋葬者名簿
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Dブロック 埋葬者名簿(作成中)
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Eブロック 埋葬者名簿
■ 大津市作成の名簿順
■ あいうえお順
日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。
□ Fブロック 埋葬者名簿
明治8年から11年までに病死した下士官と
兵卒の墓碑が37基
□ Kブロック 埋葬者名簿
「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
すべて兵卒の墓碑。
□ Lブロック 埋葬者名簿
「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
合計98基。すべて兵卒の墓碑。
□ Mブロック 埋葬者名簿(作成中)
陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)
□ 西南戦争の戦死者
□ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿
□『大津市志』
□ 滋賀郡膳所町
□ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)
「如何にこの人が、君(天皇)のために忠義を尽くし、進んで聖戦に参加したか」を、称えた意味を顕す法名です。
戦時中、仏教のどの宗派も、戦争に全面的に協力しました。
進んで戦いに参加することを勧め、戦場まで出かけて激励し、死ねば、名誉の戦死と持ち上げ、立派な法名をつけ、盛大な葬儀を営みました。
「仏教が広まれば、世の中は安穏で兵戈は無用になる」という釈迦の言葉に反して・・・・
戦後、こうしたことに対する反省が表明されていますが、十分ではありません。