お元気ですか?
大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。
なにをテーマに書こうかと迷いながら
2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。
2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、
気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。
戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。
通信兵だった父や防空監視隊にいた母から
聞かされた話は、
戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない
という思いを強くさせるものでした。
ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、
国家の理屈で議論が進みます。
同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。
しかし、戦争は、最悪の暴力です。
私は草の根の痛み、
どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で
書いていきたいと思っています。
あまり楽しめないブログかも知れませんが、
お気軽に感想やコメントをお寄せください。
「1名の将校と14名の下士官、そして206名の兵卒」の日清戦争 ~その7 金州半島兵站監部 編成表~ ― 2011/08/24
「金州半島兵站監部 編成表」(明治28年7月)を、アジ歴で見つけました。これを見ると、第九聯隊が上陸した金州半島(遼東半島の先っぽ)のどこに、どれだけの規模をもつ医療機関を日本軍が配置していたのかが、わかります。
「編成表」を見ながら、これまでの経過をもう一度、さらってみたいと思います。
明治28年4月11日と13日に、第九聯隊は廣島の宇品港を出港します。遼東半島の先端の旅順口をへて、14日と16日に大連湾に到達したとあります。
廣島や船中をのぞけば、最初の死者がでるのは、このときです。旅順口で17日が1名、21日が1名。大連湾で21日に1名。
「編成表」を見ると、旅順口には、「旅順口兵站病院」がおかれていました。
二等軍医正が1名、三等軍医が4名、雇医が2名、雇薬剤師が2名、二等看護長が3名、三等看護長が2名、看病人が56名という陣容でした。死亡場所が「旅順口」とされている2名(山本重太郎と駒澤榮太郎)は、旅順兵站病院に船から降ろされて、ここで亡くなったのではないでしょうか。
大連湾には、「大連湾検疫所」がありました。
検疫ですから、医療関係者だけではなく、憲兵も配属されていました。それを除くと、一等軍医1名、三等軍医3名、一等看護長1名、三等看護長3名、二等薬剤手1名、看護手7名、看護人17名という体制です。21日に亡くなった1名(隠岐四郎)は、ここで死亡したと思われます。
第九聯隊全体は、大連湾で船に待機させられ、しばらく柳樹屯に上陸できませんでした。上陸したのは、22日と23日。大連湾に到達してから、一週間以上後のことです。
柳樹屯には、「柳樹屯兵站病院」がありました。ここが金州半島で最大規模の病院でした。
二等軍医正1名、兼務の一等軍医1名、三等軍医2名、雇医4名、雇薬剤師2名、一等看護長2名、二等看護長4名、三等看護長2名、看護手8、看護人70名。 上の墓碑は旧真田山陸軍墓地の第八聯隊の兵卒の墓碑です。病院名が刻まれています。第四師団は第七聯隊(姫路)、第八聯隊(大阪)、第九聯隊(大津)の三つから構成されていました。私が墓碑から明らかにできるのは、第九聯隊だけです。そこだけで、多数の死者を「柳樹屯」で出しています。実際は、3倍程度になったのではないでしょうか。
墓碑に「柳樹屯」と死亡地が書かれている墓碑の最初は、4月6日の森田阪松ですが、この日付はいまの資料では解明できません。つぎの日付は4月16日(増岡竹治郎)です。下の写真がそれです。 上陸した日付もしくはその2日後ですから、船から降ろされ、ただちに「柳樹屯兵站病院」に運ばれて、治療の甲斐なく亡くなったものと思われます。
以下、4月17日に木村市太郎、20日に森田友次郎と中川周太郎、21日に津崎辰之助、23日に前川藤市郎、24日に森田徳太郎と吉田市松と田井中重吉、25日に元武勇、26日に菊本萬次郎、27日に川富吉之がなくなりました。
すべてこの病院だと思われます。金州最大といっても、医者は7人。ほかの聯隊の患者もかかえて、戦場のような有様だったことでしょう。
なお、第九聯隊は柳樹屯を出発し、24日に沙家屯に到着しています。日程から見て、柳樹屯を経て、ただちに沙家屯にいく予定だったのでしょう。柳樹屯に重篤病人を残し、さらに沙家屯への途中で第二野戦病院が開設した「劉家屯避病室」に病人をあずけて、24日に沙家屯に到着したと思われます。「避病室」は「編成表」に載っていませんから、あくまで臨時的なもの(もともと野戦病院)で、4月29日以降は死者は出ていませんから、そのころに閉鎖したものと思われます。
「編成表」を見ると、沙家屯には、病院がありません。
第二野戦病院の「経歴書」には、24日に「沙家屯舎営病院」を解説したとあります。死亡場所が「沙家屯」と刻まれている兵卒らは、この病院で亡くなったと思われます。その規模は、わかりません。
墓碑の中には、4月24日に「金州」でなくなったと刻まれているものがあります。「金州」にはなにがあったのか。
「金州兵站病院」がありました。
一等軍医1名、三等軍医3名、雇医3名、雇薬剤師2名、二等看護長3名、三等看護長2名、看護人50名。
金州半島には、これ以外には、「大孤山兵站病院兼検疫所」と「営口兵站病院兼検疫所」があっただけでした。
人間が密集して行動する軍隊という性格を考えたとき、伝染病は最悪の事態です。大連湾からすぐ上陸できなかったのは、医療の受け入れ態勢が整わなかったのかも知れません。しかし、狭い部屋に押し込まれている船中はさらに条件が悪いはずでした。赤痢、腸チフス、コレラなどの事態のもとでは、これら小規模の病院では力不足であったと思いました。
「編成表」を見ながら、これまでの経過をもう一度、さらってみたいと思います。
明治28年4月11日と13日に、第九聯隊は廣島の宇品港を出港します。遼東半島の先端の旅順口をへて、14日と16日に大連湾に到達したとあります。
廣島や船中をのぞけば、最初の死者がでるのは、このときです。旅順口で17日が1名、21日が1名。大連湾で21日に1名。
「編成表」を見ると、旅順口には、「旅順口兵站病院」がおかれていました。
二等軍医正が1名、三等軍医が4名、雇医が2名、雇薬剤師が2名、二等看護長が3名、三等看護長が2名、看病人が56名という陣容でした。死亡場所が「旅順口」とされている2名(山本重太郎と駒澤榮太郎)は、旅順兵站病院に船から降ろされて、ここで亡くなったのではないでしょうか。
大連湾には、「大連湾検疫所」がありました。
検疫ですから、医療関係者だけではなく、憲兵も配属されていました。それを除くと、一等軍医1名、三等軍医3名、一等看護長1名、三等看護長3名、二等薬剤手1名、看護手7名、看護人17名という体制です。21日に亡くなった1名(隠岐四郎)は、ここで死亡したと思われます。
第九聯隊全体は、大連湾で船に待機させられ、しばらく柳樹屯に上陸できませんでした。上陸したのは、22日と23日。大連湾に到達してから、一週間以上後のことです。
柳樹屯には、「柳樹屯兵站病院」がありました。ここが金州半島で最大規模の病院でした。
二等軍医正1名、兼務の一等軍医1名、三等軍医2名、雇医4名、雇薬剤師2名、一等看護長2名、二等看護長4名、三等看護長2名、看護手8、看護人70名。 上の墓碑は旧真田山陸軍墓地の第八聯隊の兵卒の墓碑です。病院名が刻まれています。第四師団は第七聯隊(姫路)、第八聯隊(大阪)、第九聯隊(大津)の三つから構成されていました。私が墓碑から明らかにできるのは、第九聯隊だけです。そこだけで、多数の死者を「柳樹屯」で出しています。実際は、3倍程度になったのではないでしょうか。
墓碑に「柳樹屯」と死亡地が書かれている墓碑の最初は、4月6日の森田阪松ですが、この日付はいまの資料では解明できません。つぎの日付は4月16日(増岡竹治郎)です。下の写真がそれです。 上陸した日付もしくはその2日後ですから、船から降ろされ、ただちに「柳樹屯兵站病院」に運ばれて、治療の甲斐なく亡くなったものと思われます。
以下、4月17日に木村市太郎、20日に森田友次郎と中川周太郎、21日に津崎辰之助、23日に前川藤市郎、24日に森田徳太郎と吉田市松と田井中重吉、25日に元武勇、26日に菊本萬次郎、27日に川富吉之がなくなりました。
すべてこの病院だと思われます。金州最大といっても、医者は7人。ほかの聯隊の患者もかかえて、戦場のような有様だったことでしょう。
なお、第九聯隊は柳樹屯を出発し、24日に沙家屯に到着しています。日程から見て、柳樹屯を経て、ただちに沙家屯にいく予定だったのでしょう。柳樹屯に重篤病人を残し、さらに沙家屯への途中で第二野戦病院が開設した「劉家屯避病室」に病人をあずけて、24日に沙家屯に到着したと思われます。「避病室」は「編成表」に載っていませんから、あくまで臨時的なもの(もともと野戦病院)で、4月29日以降は死者は出ていませんから、そのころに閉鎖したものと思われます。
「編成表」を見ると、沙家屯には、病院がありません。
第二野戦病院の「経歴書」には、24日に「沙家屯舎営病院」を解説したとあります。死亡場所が「沙家屯」と刻まれている兵卒らは、この病院で亡くなったと思われます。その規模は、わかりません。
墓碑の中には、4月24日に「金州」でなくなったと刻まれているものがあります。「金州」にはなにがあったのか。
「金州兵站病院」がありました。
一等軍医1名、三等軍医3名、雇医3名、雇薬剤師2名、二等看護長3名、三等看護長2名、看護人50名。
金州半島には、これ以外には、「大孤山兵站病院兼検疫所」と「営口兵站病院兼検疫所」があっただけでした。
人間が密集して行動する軍隊という性格を考えたとき、伝染病は最悪の事態です。大連湾からすぐ上陸できなかったのは、医療の受け入れ態勢が整わなかったのかも知れません。しかし、狭い部屋に押し込まれている船中はさらに条件が悪いはずでした。赤痢、腸チフス、コレラなどの事態のもとでは、これら小規模の病院では力不足であったと思いました。
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西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。
戦争にかかわる碑
■ 忠魂碑・慰霊碑
○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など
○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)
○ 大津市南部の忠魂碑
民間墓地の戦没者○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。
□ 滋賀県の西南戦争の戦没者
□ 高島市(高島郡)の戦没者
■ 西南戦争(西南之役) 1877年
● 戦病死者名簿
*高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)
■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年
,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)
『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。
■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年
● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)
○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿
○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
□ Aブロック 埋葬者名簿
陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある
□ Bブロック 埋葬者名簿
日清戦争期に戦病死した下士官の墓地
□ Cブロック 埋葬者名簿
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Dブロック 埋葬者名簿(作成中)
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Eブロック 埋葬者名簿
■ 大津市作成の名簿順
■ あいうえお順
日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。
□ Fブロック 埋葬者名簿
明治8年から11年までに病死した下士官と
兵卒の墓碑が37基
□ Kブロック 埋葬者名簿
「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
すべて兵卒の墓碑。
□ Lブロック 埋葬者名簿
「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
合計98基。すべて兵卒の墓碑。
□ Mブロック 埋葬者名簿(作成中)
陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)
□ 西南戦争の戦死者
□ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿
□『大津市志』
□ 滋賀郡膳所町
□ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)
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