お元気ですか?

大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。


なにをテーマに書こうかと迷いながら

2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。

2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、

気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。


戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。

通信兵だった父や防空監視隊にいた母から

聞かされた話は、

戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない

という思いを強くさせるものでした。

ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、

国家の理屈で議論が進みます。

同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。

しかし、戦争は、最悪の暴力です。

私は草の根の痛み、

どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で

書いていきたいと思っています。


あまり楽しめないブログかも知れませんが、

お気軽に感想やコメントをお寄せください。


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直四角柱型の二つの墓碑 ~稲田岩太郎(日清戦争)と小林廣三郎(日露戦争)~2011/09/01

小林廣三郎の墓碑の右側面と背面
 河原墓地の4基の日露戦争の墓碑のうち2基は、これまで見てきた戦没者の墓碑とは違う形をしています。「陸軍歩兵一等卒 國松藤次郎・國松喜三郎 墓」と「陸軍歩兵軍曹小林廣三郎墓」のことです。高島市にあるような砲弾型でもないし、四角柱の上に四角すいが載っている一般的な戦死者の墓碑の形でもありません。
 それで、いつ建てられたのか、その後の変化(積み直しや移転など)はないのか?
 二つの墓碑の側面も背面も見ましたが、建立年月日の記述はありませんでした。上の写真は、小林廣三郎の墓碑の右側面と背面です。残り2基については、後日。
「陸軍歩兵一等卒稲田岩太郎墓」(日清戦争)
 ところで、林廣三郎の墓碑とほぼ同じ形の戦病死者の墓碑があることを思い出しました。瀬田駅付近の西野墓地にある「陸軍歩兵一等卒稲田岩太郎墓」です。
「陸軍歩兵一等卒稲田岩太郎墓」右側面から
 なんらかの参考になるでしょうか?

 稲田岩太郎について、付け加えることがあります。岩太郎は、陸軍歩兵第九聯隊に所属した一等卒であり、日清戦争に出征しました。その墓碑は、旧大津陸軍墓地にもあるし、西野墓地にもあります。ともに、明治28年9月21日に死亡したことが記してあります。ただ、死亡場所の表示がありません。これが気になっています。

直四角柱型の戦没者の墓碑~「陸軍歩兵一等卒山田庄吉之墓」~2011/09/01

「陸軍歩兵一等卒山田庄吉墓」@高島市新旭町
 墓碑の形のことで思い出しました。
 「陸軍歩兵一等卒稲田岩太郎墓」(西野墓地)や「陸軍歩兵軍曹小林廣三郎墓」(河原墓地)と似た直四角柱型の戦没者の墓碑を新旭町で見たことがあります。
 それが「陸軍歩兵一等卒山田庄七之墓」です。
 養護学校のちかくの墓地・・・新庄墓地なんでしょうか・・・にありました。日露戦争の戦死者で砲弾型墓碑「故陸軍歩兵一等卒小林鹿治郎墓」のある墓地です。
 山田庄七は、日清戦争後に日本が清国から「割譲」された台湾の守備中に亡くなったことが墓碑に記されています。

 いましげしげと眺めると、石積みのうえに、台座が載っているのは、珍しい気がします。当初からこうなのか、そうではないのか。
 そういう扱いや変遷のなかに、戦死者の「死後の物語」があるように思います。
 稲田岩太郎や小林廣三郎の墓碑に比べると山田庄吉の墓碑は素朴です。そこに飾りを受けつけない厳しさを感じます。亡くなった当初は、美しい墓碑をつくるという発想は生まれない気がします。となると、岩太郎や廣三郎の墓碑は後の時代のものかも知れません。

直四角柱の墓碑 ~「陸軍歩兵軍曹石原作之烝墓」2011/09/01

「陸軍歩兵軍曹石原作之烝墓」@鵜川勝野墓地
 もう一基、直四角柱型の墓碑があるのを思い出しました。鵜川勝野墓地の「陸軍歩兵軍曹石原作之烝墓」でした。これは、新旭の山田庄吉とほとんど同じ形です。

二基の日露戦争の墓碑@西野墓地(大津市)2011/09/01

西野墓地@大津市
 JR瀬田駅のすぐ近くに「西野墓地」があります。ビルに囲まれた一角です。日清戦争「陸軍歩兵一等卒稲田岩太郎墓」がある墓地です。敷地には、戦死者・戦病死者の墓碑が林立していました。
 日露戦争の墓碑も2基ありました。
 一基は「陸軍歩兵中尉 松田義照 之墓」(上の写真)であり、もう一基は「陸軍歩兵上等兵 坂口伊之松 之墓」(下の写真)でした。
 坂口伊之松の墓碑はある意味なじみの形です。全体の印象とか、バランスとかですが。松田義照の墓碑はより尖った形をしています。
 上の写真は、2009年8月のもの。それから時間が経っています。もう一度行って、ていねいに見直せば、あと一二基、見つかるかも知れません。少し気が重いのは、どの民間墓地でも、新しい墓碑が次々と建っていることです。旧い墓碑は、無縁塚に集められていく姿は、うれしいものではありません。それについても、書きたい気持ちはあります。

日露戦争「陸軍歩兵中尉 松田義照 之墓」@西野墓地2011/09/01

日露戦争「陸軍歩兵中尉 松田義照 之墓」@西野墓地
 旧瀬田町は現在でこそ大津市ですが、日露戦争当時は違いました。ですから、『大津市志』には、松田義照も、坂口伊之松も名前がありません。経歴についても、わかりません。私の手掛かりは、目の前にあるこの墓碑だけです。

「陸軍歩兵上等兵 坂口伊之松 之墓」@西野墓地2011/09/01

「陸軍歩兵上等兵 坂口伊之松 之墓」@西野墓地
 西野墓地にある「陸軍歩兵上等兵 坂口伊之松 之墓」。

「1名の将校と14名の下士官、そして206名の兵卒」の日清戦争 その17 ~撤退命令以後~2011/09/02

「明治廿八年十二月八日於旅順口歿」(大塚長治郎墓碑)
 「1名の将校と14名の下士官、そして206名の兵卒」、あわせて219名の日清戦争戦病死者(旧大津陸軍墓地に眠る)が、どういう死を迎えたのかが知りたいと思って書いてきました。
 しかし、階級と氏名だけでは、読んでいただく方にも気持ちが入らないだろうと思いました。「その1」で、次のように書きました。
 さて、219名というだけでは、あまりに抽象的です。
   大津市に営所をおく陸軍歩兵第九聯隊のなかには、高島市出身の兵卒も多数入営していました。そのなかに、中村林蔵、福井乙吉、内田検次郎、奥村粂蔵、井花長次郎、大塚長治郎、日置卯市そして富田媒吉
これらの20代の若者を頭に描きながら、お読み下さい。
 これらの若者8名の運命ですが、まず4月29日に「「沙家屯」で日置卯市が亡くなりました。5月1日には、同じ場所で、中村林蔵、内田検次郎そして奥村粂蔵が命を落としました。6月18日には「柳樹屯」で冨田楳吉、9月11日には「金州」で福井乙吉、10月6日には「海城」で井花長太郎が亡くなりました。
 それぞれについて、わかることは書きました。
 残るは、大塚長治郎ひとりです。
 明治28年4月、下関条約で清国との講和が成立し、遼東半島と台湾を「割譲」させ、巨額の賠償金を手に入れた日本でしたが、ロシアなどによる「三国干渉」で、遼東半島の返還を求められます。5月、ついにそれを受け入れることを決め、条約は批准されます。しかし、遼東半島の返却にもなう清国との交渉が11月までつづき、その間、大塚長治郎らが所属する陸軍歩兵第九聯隊は、遼東半島に駐留しつづけます。  11月、賠償交渉が終わり、撤退命令が下ります。第九聯隊は11月23日から、舎営地を離れ、帰国のために柳樹屯に集結します。
 大塚長治郎は、その時点でも、まだ命を保っていました。しかし、以下の兵卒とともに、帰国の船に乗ることができず、異土で果てることになりました。
12月 3日 金州  一等卒 寺田 吉太郎(99)
12月 6日 (-)  一等卒 土井 友吉(66)
12月 8日 旅順口 一等卒 大塚 長治郎(189)
12月11日 金州  一等卒 宮島 岩松(49)
 いま、わかることはこれだけです。

「1名の将校と14名の下士官、そして206名の兵卒」の日清戦争 その18 ~明治29年歿の兵卒について~2011/09/02

「明治廿九年二月十四日於台湾歿」
 206名の兵卒は同じ墓地区画のなかに眠っています。204柱には「明治廿八年」と刻まれていますが、2柱だけ、「明治廿九年」と刻まれた墓碑があります。
明治29年2月14日 台湾  一等卒 小泉 彌太郎(24)
明治29年3月25日 台湾台北 一等卒 北川 長松(59)
 なぜ、二人だけ明治29年で、しかも台湾なのか。

 その答えは、『大津市史』(昭和17年)の文章のなかにあります。すこし面倒ですが、全体の流れがおさらいできます。
 明治二十七年征清の役起こるや十一月二十六日動員下令、十二月二日動員を完結した。十八日軍旗祭に併せて同連隊の管区滋賀・三重・京都・奈良の一府・三県有志者発起の出征予餞会を錬兵場に開き、長くも第四師団長白川宮殿下の御来臨を辱うし令旨を賜ふ。(中略)
 翌二十八年三月二十四日師団は第二軍に編入せられて広島に集合の命を受け、連隊は二十八日屯営を発し、四月十一日宇品を解纜して愈々出征の途に上った。十六日大連に入り、二十二日柳樹屯に上陸したが、既に講和休戦となったので五月十七日第二軍の戦闘序列を解かれ、師団は遼東半島守備の命を受けて、爾来連隊は海城その他に駐屯すること九ヶ月で、同年十二月凱旋の命に接して宿営地を発し、連隊(第二中隊員)は十二月二十五日衛戌地に帰り、同三十日第二中隊帰営して茲に出征の事は全く終わった。
 然るに凱旋後未だ日を経ざるに二十九年一月四日台湾匪徒討伐の命を受け、大久保混成旅団長の隷下に属して一月七日屯営出発、八日宇品出帆、同十三日台湾基隆港に上陸して石碇街・坪林尾・石漕・殺牛察等の匪徒を掃蕩し、七月より十一月に亘り凱旋した。
 日清戦争の実戦に参加した部隊は、明治28年7月に凱旋帰国を果たしています。ところが、講和条約締結後に、中国大陸に上陸した第九聯隊は、戦闘序列を解かれますが、そのまま遼東半島の守備に残されます。そこで、204名が病死。ようやく、12月に戻ったのはよいですが、わずか一週間の帰国で、今度は、台湾へ出征の命令。上記の2名は、無事遼東半島から戻れたものの、台湾へ送られ、そこで亡くなったと思われます。

「膳城烈士墳墓所」@岡山墓地2011/09/03

岡山墓地の入り口にある「膳城烈士墳墓所」石碑
 岡山墓地に4年ぶりに向かいました。そこに、日露戦争の墓碑があるからです。何基あるのかを確認しようと思いました。
 大津市の岡山墓地の入り口には「膳城烈士墳墓所」という石碑があります。これは、幕末の膳所事件で切腹を命じられた藩士の墓碑があるという意味です。
 膳所事件とは、1865年、第一次長州戦争にともなっておきた事件です。その顛末は、こうです。禁門の変をひきおこした長州に幕府軍が討伐に向かいます。その途上、将軍家茂が宿泊を予定(5月21日に)した膳所城で、暗殺を計画したとされる尊王攘夷派の藩士11名捕らわれ、長州と通じていたとして、10月21日に処刑された事件です。
 岡山墓地には7名の墓碑があり、安昌寺には4名の墓碑があります。

岡山墓地の日露戦争の墓碑は2基2011/09/03

岡山墓地@大津市
 私が民間墓地を巡るようになって4年目になります。岡山墓地にでかけたのは、2007年の9月と10月のことです。国道一号線からせり上がっていく岡に、墓碑がならんでいました。
 今年8月末に訪問て、気がついたことは墓地の区画が広がっていることです。下には広げることはできませんが、上へ上へと伸びていました。下の区画も整備され、あたらしい墓碑が建ち並んでいました。
 旧い墓碑は撤去されていくのは、維持管理の都合上(もしくは営業の都合上)、仕方のないことでしょうか。最近、それが目立つ気がしました。お墓ブームということばも、浮かびます。
 様子がかわっていることに、たじろぎながら、日露戦争の墓碑を探しました。日中戦争や太平洋戦争の墓碑は、多数建っています。場所を思い出しながら、一基はすぐに見つかりました。
「故陸軍歩兵上等兵小林勝次郎墓」
「陸軍歩兵上等兵小林勝治郎墓」
 もう一基あったはずなのに・・・・。
 一番高いところまで登り、見渡しましたが、見つかりません。もしかしたら無縁塚に・・・と不安がひろがったとき、目に前に焦げ茶色の墓碑が飛び込んできました。
「陸軍歩兵少尉富永東一墓」
「陸軍歩兵少尉富永東一墓」
 結局、この2基だけでした。
膳所町の日露戦争戦病死者名簿

○駒井 松太郎
   陸軍歩兵一等卒

●藤本 清三郎
   陸軍歩兵一等卒
   明治37年5月26日 金州南山にて戦死
   *別保墓地

●佐々木 松之助
   陸軍歩兵上等兵
   明治37年8月22日 東鶏冠山北砲台にて戦死
   *別保墓地

○臼杵 重英
   陸軍歩兵大尉
   明治37年11月8日。清国得利寺にて病歿

小林 泰蔵
   海軍一等水兵    明治37年2月13日。旅順口にて戦死
    *河原墓地

●富永 東一
   陸軍歩兵少尉
   明治37年8月22日。東鶏冠山北砲台にて戦死
   *岡山墓地

●徳大寺 亀一
   陸軍歩兵少尉
   明治37年8月22日。東鶏冠山北砲台にて戦死
   *旧大津陸軍墓地

●鈴木 房吉
   陸軍歩兵上等兵
   明治38年3月2日。北台子附近にて戦死
   *梅香山縁心寺(膳所藩主の菩提寺)

小林 勝次郎
   陸軍歩兵一等卒
   明治38年3月4日。来神堡にて戦死
   *岡山墓地

小林 廣三郎
   陸軍歩兵軍曹
   明治38年4月5日。小貴興堡にて戦死
   *河原墓地

●北脇 藤吉
   陸軍歩兵伍長
   明治38年3月5日。清国馬軍丹附近で戦死
     *河原墓地

●国松 藤次郎
   陸軍歩兵一等卒
   明治38年4月6日。大坂予備病院にて病死
     *河原墓地

●国松 喜三郎
   陸軍歩兵一等卒
   明治37年8月22日 東鶏冠山北砲台にて戦死
     *河原墓地

村治 昭
   陸軍少尉
   明治38年8月30日 遼陽附近にて戦死
   *(縁心寺が菩提寺)旧大津陸軍墓地

○山口 重造
   海軍中尉
   明治37年12月14日旅順口外敵艦襲撃の際戦死

                            


BIN★「この記なんの記」ブログ情報 August 12 , 2011



 西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。

戦争にかかわる碑

  ■ 忠魂碑・慰霊碑

    ○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など

    ○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)

    ○ 大津市南部の忠魂碑

民間墓地の戦没者

 □ 滋賀県の西南戦争の戦没者

 □ 高島市(高島郡)の戦没者

  ■ 西南戦争(西南之役) 1877年

   ● 戦病死者名簿

      *高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)

  ■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年

   ,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)

      『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。

  ■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年

   ● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)

      ○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿

    ○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。

 公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
 □ ブロック 埋葬者名簿

     陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある

 □ ブロック 埋葬者名簿

     日清戦争期に戦病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

  ■ 大津市作成の名簿順

  ■ あいうえお順

     日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治8年から11年までに病死した下士官と
          兵卒の墓碑が37基


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
         すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
          合計98基。すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)

 □ 西南戦争の戦死者

 □ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿

 □『大津市志』

 □ 滋賀郡膳所町

 □ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)