お元気ですか?

大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。


なにをテーマに書こうかと迷いながら

2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。

2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、

気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。


戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。

通信兵だった父や防空監視隊にいた母から

聞かされた話は、

戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない

という思いを強くさせるものでした。

ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、

国家の理屈で議論が進みます。

同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。

しかし、戦争は、最悪の暴力です。

私は草の根の痛み、

どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で

書いていきたいと思っています。


あまり楽しめないブログかも知れませんが、

お気軽に感想やコメントをお寄せください。


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compliance2011/09/09

第三者委員会の中間報告が出た。

九州電力の「やらせメール」。
賛成意見286通中141通に及ぶ。
世論をねつ造し、調査を妨害する。

今回の危機をつくった東京電力。
津波による全電力喪失の危険の指摘を
無視し続けて、チェルノヴイリを
超える事故を引き起こした。

complianceをカタカナになおして、
コンプライアンス。
後者が日本語として流通している。
法令や規則を守ること。

経済界の要をなす団体に
それが突きつけられている。

どこかおかしい社会ではないのか。

「藩」という帰属意識2011/09/09

長州という文字が並ぶ
 引き続き「霊山墓地」
 志士の墓碑を正面から撮影したときは、一人ひとりの志士の名前しか見えず、それぞれの運命が気になっていた。側面から見ると別の属性が見えてくる。上の写真の箇所では、「長州」という文字がずらりと刻まれている。
 たしかに、霊山墓地の基礎をつくったのが長州の木戸孝允である。また長州が明治維新の中心的役割を演じた藩であった。
 また、そこは、「山口藩招魂社」の横手でもある。

 墓地の案内には、名前だけが書かれている。藩についての言及はないが、この墓地が築かれ、墓碑が建設された時点においてすら、「藩」がもつ意味は軽くなかったのだ。

「(旧)官修墳墓」としての霊山墓地2011/09/09

氏名だけが書かれている霊山墓地案内図
 「霊山墓地」には、幕末の志士の墓碑が建ち並ぶ。しかし、敵方となった幕府軍の戦死者などは葬られていない。新撰組もなければ、会津藩もない。不思議なことに薩摩藩という文字もまた見あたらない(見渡した限りだけれど)。ここは長州を中心とした「官軍」の墓地である。

 霊山墓地の正式名称は「旧霊山官修墓地」。

「官修墓地」とはなにか。
 Wikipediaでは、次のようになっている。
 官修墳墓は、(かんしゅうふんぼ)は、戊辰戦争の際、従軍殉難した者の各地の戦没地などにある墳墓、西南戦争における戦死者の墳墓で地方庁で調製された官製墳墓明細帳に登録されたものである。
監守人を置き、維持修繕に充当するため国庫から1所につき定額として 1箇年金6円25銭支給された。 全国の官修墳墓の数は、1013箇所で、最多は福島県の186箇所、最少は埼玉県の1箇所、ゼロは奈良、静岡、山梨、島根、和歌山、徳島、香川、愛媛および沖縄の9県であった。
 捕虜も眠る「陸軍墓地」などではなく、祀り方からいけば、西南戦争の「官軍墓地」と同じである。それは、招魂社(靖国神社・護国神社)としての性格から来ているのだろうと思われる。

「土藩」2011/09/09

「土藩」
 霊山墓地の個人墓碑。
「長州」と刻まれている墓碑が多数である。
そのほかに、「土藩」。
土佐藩のことだろうと思った。

飲み歩きスタンプラリー@浜大津・柴屋町2011/09/09

飲み歩きスタンプラリー
 私は下戸・・・ですが、飲み歩きスタンプラリーに誘われて参加。お客と飲み屋さんの双方にとって、安心できる取り組みというキャッチフレーズ。1人の参加料が3,500円。3人一組で一店あたり30分。各組が指定された3店を回るシステム。飲み屋さんの方に負担が多いが、賑わいにはなるかと思いました。

                            


BIN★「この記なんの記」ブログ情報 August 12 , 2011



 西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。

戦争にかかわる碑

  ■ 忠魂碑・慰霊碑

    ○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など

    ○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)

    ○ 大津市南部の忠魂碑

民間墓地の戦没者

 □ 滋賀県の西南戦争の戦没者

 □ 高島市(高島郡)の戦没者

  ■ 西南戦争(西南之役) 1877年

   ● 戦病死者名簿

      *高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)

  ■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年

   ,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)

      『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。

  ■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年

   ● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)

      ○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿

    ○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。

 公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
 □ ブロック 埋葬者名簿

     陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある

 □ ブロック 埋葬者名簿

     日清戦争期に戦病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

  ■ 大津市作成の名簿順

  ■ あいうえお順

     日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治8年から11年までに病死した下士官と
          兵卒の墓碑が37基


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
         すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
          合計98基。すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)

 □ 西南戦争の戦死者

 □ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿

 □『大津市志』

 □ 滋賀郡膳所町

 □ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)