お元気ですか?

大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。


なにをテーマに書こうかと迷いながら

2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。

2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、

気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。


戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。

通信兵だった父や防空監視隊にいた母から

聞かされた話は、

戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない

という思いを強くさせるものでした。

ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、

国家の理屈で議論が進みます。

同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。

しかし、戦争は、最悪の暴力です。

私は草の根の痛み、

どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で

書いていきたいと思っています。


あまり楽しめないブログかも知れませんが、

お気軽に感想やコメントをお寄せください。


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カテゴリーの整理2011/09/10

 カテゴリーを乱造したために、不便になっています。必要な記事にすぐアクセスできるように工夫したいと思います。戦争の碑や戦死者の墓碑などは、旧市町村で区別するのが便利だと思いました。そのためには、満タン状態のカテゴリーを20ぐらい減らす必要があります。しかし、それが簡単ではありません。カテゴリーを登録した記事を一つ一つ編集しなければならないからです。もっと便利な方法はないのかと思います。

幸福の押しつけはよくない2011/09/10

 山手を開発して生まれた仰木の里、仰木の里東の住宅地。琵琶湖を一望にできる緑豊かな環境に惹かれて入居した人が多数。しかし、近年、住民生活に影を落とす出来事が相次いでいる。バイパス無料化による騒音問題など。 いま大問題は、「幸福の科学」学園の建設計画。

ネコのセリフに見える2011/09/10

もう勝負していいんじゃないですか。そろそろ。
「もう勝負していいんじゃないですか。そろそろ。」
ムーとチーが勝負したい相手はだれ?

もしかして、最近ナマイキになったワンコのQoo?

寿命寺墓地には日清戦役と日露戦役の墓地がある2011/09/10

寿命寺の戦死者の墓碑
 私の地元滋賀県大津市の話にもどります。
 仰木の里の大学グラウンドの下手に真新しい墓地がありました。旧雄琴村の墓地であったことと、その移設の経緯は、下の記念碑から読み取れました。
 戦没者の墓碑は、上の写真のように1箇所にまとめられています。最初は、左の二柱は別物だと思っていました。しかし、碑文を読めば、やはり戦争にかかわる墓碑でした。右の背の低い墓碑5柱とその左となりの高く尖った墓碑が、昭和の墓碑でした。
 それ以外の三つの墓碑については、別々に紹介します。
 碑文は摩耗して読み取れない部分もありましたが、一番左が、日清戦争の墓碑ではないかと思います。右の二つの柱は日露戦争の墓碑。

 旧雄琴村の「戦時事績」から作成したのが下の名簿でした。日清については名簿がありません(私は見つけることができていません)。
(旧)滋賀郡雄琴村 日露戦争戦病死者

●陸軍歩兵曹長 小谷 鏻之助
   戦死
●陸軍砲兵二等卒 小川 清太郎
   病死
●陸軍歩兵上等兵 三上 秀哲
    病死

「陸軍々楽二等楽手古川直次郎墓」@寿命寺2011/09/10

「陸軍々楽二等楽手古川直次郎墓」@寿命寺
 旧雄琴村(現在は大津市)にあった寿命寺の墓碑。
 背が高く尖った墓碑の正面には「陸軍々楽二等楽手勲七等古川直次郎墓」と刻まれています。右側面には、「明治四十四年四月十五日建立」とあります。
 「陸軍軍楽二等楽手」という階級は、初めて目にするものでした。日露戦争にかかわる墓碑だと私が考えるのは、さしあたり、この建立年月日にしかありません。
 左手には建立者の名前「古川清八」が刻まれていました。

 なお、古川直次郎の名前は、旧雄琴村の「戦時事績」にはありませんでした。

陸軍歩兵上等兵三上秀哲の墓碑(日露戦争)@寿命寺2011/09/10

陸軍歩兵上等兵三上秀哲の墓碑(日露戦争)@寿命寺
 旧雄琴村・寿命寺墓地で紹介させていただく二柱目の墓碑。正面には、「釋秀哲」とだけ刻まれています。これだけでは戦病死者の墓碑とはわかりません。左側面には、死亡にいたる経歴が刻まれていました。
明治三十八年十一月廿八日征露役ニ従軍中清国盛京省許家台開原兵站病院許家台分院ニ於イテ病死
 この記述は、「戦時事跡」の内容(病死)と一致します。
 右側面には「明治三十八年八月建立 三上庄吉」とあります。

「故近衛歩兵一等軍曹 切烈無比釋義淳」@寿命寺2011/09/10

「故近衛歩兵一等軍曹 切烈無比釋義淳」
 旧雄琴村・寿命寺墓地の続きです。

  戦死者の墓碑の一番左にある墓碑を見てみます。
 墓碑の正面には、次のように刻まれています。
故近衛歩兵一等軍曹 切烈無比釋義淳
 この正面の碑文からは、埋葬されている人の名前がわかりません。「義淳」なのでしょうか。どの戦争で亡くなったのかという問題もここからは答えがありません。
 右側面を見てみます。
 しかし、「明治廿八年・・・・台湾・・・・・・・・病死 三上政吉」ぐらいしか読み取れません。「廿八年」も微妙なところです。しかし、氏名が「三上政吉」、近衛歩兵と台湾の文字から考えて、日清戦争でなくなったのではないかと思います。
 左側面の「三上庄吉」は、建立された方の名前でしょう。しかし、そうなると、同じ三上庄吉さんが二つの墓碑(三上秀哲三上政吉)を建立されているということになります。日清戦争と日露戦争の双方で?それとも、二つの墓碑は同じ日露戦争で?  旧雄琴村の日露戦争の「戦時事績」には、三上秀哲さんは、戦病死者として掲載されています。同じ日露戦争ならば、しかも、もしかしたら兄弟かもしれない三上政吉さんが掲載されないのは変ではないでしょうか。ですから、政吉さんは日清、秀哲さんは日露戦争で亡くなったと思います。

日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)2011.9.10更新2011/09/10

旧高島郡の日露戦争戦没者名簿

 『高島郡誌』によれば、日露戦争の戦病死者は、ちょうど100名です。その名簿を、日露戦争直後の2町15村の区分で分けて、掲載します。

海津村  3名

○中村 治平  海津村大字海津
   歩兵上等兵
   明治38年3月1日 奉天附近

●小谷 彌吉  海津村大字西濱
   歩兵上等兵
   明治38年3月1日 北臺子
   *西浜共同墓地に砲弾型墓碑

●土肥 定吉  海津村大字西濱
   歩兵一等卒
   明治37年9月3日 遙陽附近
   *西浜共同墓地に砲弾型墓碑


剣熊村   3名

○岩本 岩三郎  剣熊村大字小荒路
   歩兵上等兵
   明治38年3月4日 来神堡

○上田 興市  剣熊村大字浦
   歩兵一等卒
   明治37年12月22日 旅順

○安本 孫吉  剣熊村大字野口
   歩兵一等卒
   明治37年8月23日 盤龍山

西庄村   8名

○久保井 友吉  西庄村大字寺久保
   歩兵曹長
   明治37年8月24日 盤龍山

○田中 仙吉  西庄村大字開田
   歩兵伍長
   明治37年9月3日 シュアンシュダイ

○青谷 富蔵  西庄村大字牧野
   歩兵上等兵
   明治38年3月2日 角面堡

○青谷 重太郎  西庄村大字牧野
  明治37年8月21日 旅順

○木下 龍之介 西庄村大字下開田
  明治37年8月24日 盤龍山

○橋本 甚右衛門 西庄村大字下開田
  明治38年9月1日 大房身(病死)

○黒川 幸次郎  西庄村大字寺久保
  明治37年8月1日 滾子泡

○藤田 吉之助  西庄村大字蛭口
  明治37年7月23日 五臺山(病死)

百瀬村

○伊吹 米蔵  百瀬村大字中庄
  明治38年3月7日 小貴興堡

○鳥居 宗七  百瀬村大字知内
  明治37年8月22日 旅順要塞

○黒川 辰三郎  百瀬村大字新保
  明治37年10月8日 長嶺子(病死)

川上村

○新井 勝吉  川上村大字深清水
  明治37年8月22日 旅順

○木下 石松  川上村大字酒波
  明治38年11月6日 大坂予備病院(病死)

○山室 源治郎  川上村大字日置前
  明治37年8月20日 旅順要塞

○松本 由太郎  川上村大字福岡
  明治37年7月24日 金州(病死)

○古谷 徳次郎  川上村大字日置前
  明治37年8月22日 東鶏冠山

●原田 徳松  川上村大字深清水
  明治38年3月8日 小貴興堡
   *深清水の墓地に砲弾型墓碑

○州崎 善吉  川上村大字濱分
  明治37年7月23日 大石橋

●雲野 辰之助  川上村大字深清水
  明治38年1月27日 沙河(病死)
  *深清水の墓地に砲弾型の墓碑

今津町

○古我 彦四郎  今津町大供
  明治38年3月2日 北臺子

○山田 長蔵  今津町大字藺生
  明治37年8月24日 盤龍山

●小川 友吉  今津町大字弘川
  明治37年8月22日 旅順
  *弘川霊苑に砲弾型墓碑

○圓山 禅学  今津町大字今津
  明治38年3月7日 小貴興堡

●柴田 権次郎  今津町大字今津
  明治38年3月1日 北臺子
  *大字今津共同墓地に砲弾型墓碑

○桂田 久蔵  今津町大字梅原
  明治37年3月26日 金州南山

●中村 十治郎  今津町大字今津
  明治37年5月26日 金州南山
  *大字今津共同墓地に砲弾型墓碑

●中川 萬助  今津町大字今津
  明治37年8月21日 旅順
  *大字今津共同墓地に砲弾型墓碑

●前川 重五郎  今津町大字弘川
  明治37年11月14日 廣島予備病院(病死)
  *弘川霊苑に砲弾型墓碑

三谷村

○浅井 順誠  三谷村大字追分
  明治38年3月7日 小貴興堡

○中山 四良平  三谷村大字椋川
  明治37年11月5日 遼陽病院(病死)

○松田 豊治  三谷村椋川
  明治37年8月23日 青泥窪病院(病死)

新儀村

●小林 鹿治郎 新儀村大字新庄
  明治38年3月7日 清国小貴堡 (21歳)
   *砲弾型墓碑

○多胡 源蔵  新儀村大字新庄
  明治39年2月23日 大津衛戍病院 (23歳)

○三重生 辰蔵 北畑
  明治37年8月5日 清国大平庄兵站病院 (24歳)

○兼子 捨松  新儀村大字藁園
  明治37年8月22日 清国東鶏冠山付近 (27歳)

○桂田 才治郎  新儀村大字藁園
  明治38年3月1日 清国盛京有腰屯陣地 (25歳)

○清水 末吉  新儀村大字太田
  明治38年3月23日 対馬西ノ水道付近 (20歳)

○清水 音治郎  新儀村大字太田
  明治37年8月22日 清国東鶏冠山付近 (31歳)

○森 安三郎  新儀村大字太田
  明治38年3月5日 清国盛京省唐家屯北方高地 (21歳)

饗庭村

○内藤 秀吉  木津
  明治38年3月14日 清国盛京省樹林子 戦地病院 (25歳)
   *『高島郡誌』では、饗庭村大字饗庭

○桒原 元次郎  今市
  明治37年8月21日 清国旅順鶏冠山北砲台 (22歳)
   *『高島郡誌』では、饗庭村大字熊ノ本

○遠藤 辰次郎  堀川
  明治37年10月12日 清国老峮峪北高地 (24歳)
   *『高島郡誌』では饗庭村大字旭。

○川島 乕太郎  霜降
  明治38年3月7日 清国盛京省小貴堡 (22歳)
   *『高島郡誌』では”虎太郎”。饗庭村大字旭

●中村 新九郎  饗庭村大字深溝
  明治38年2月15日 清国遼陽兵站病院 (31歳)
   *砲弾型墓碑がある


廣瀬村

○入江 初次郎  廣瀬村大字上古賀
  明治37年8月24日 旅順

○横井 喜久太郎  廣瀬村大字中野
  明治37年8月29日 大坂予備病院(病死)

●黒丸 藤吉  廣瀬村大字南古賀
  明治37年7月31日 野戦病院(病死)
  *南古賀墓地に角錐型墓碑

○北村 勘七  廣瀬村大字下古賀
  明治38年3月2日 北臺子

○西澤 石松  廣瀬村大字南古賀
  明治39年 関東陸軍病院(病死)

○北村 梅吉  廣瀬村大字長尾
  明治37年8月21日 旅順

○平井 嘉十郎  廣瀬村大字上古賀
  明治38年8月20日 茨林子療養院(病死)

安曇村

●横江 菊次郎  安曇村大字西萬木
  明治37年8月21日 東鶏冠山
   *西万木墓地。砲弾型

●薬師川 彌市  安曇村大字田中
  明治37年8月24日 旅順
   *田中墓地。砲弾型墓碑

●藤澤 傳治郎  安曇村大字田中
  明治37年8月21日 旅順要塞
   *田中墓地。砲弾型墓碑

○日置 鹿蔵  安曇村大字西萬木
  明治37年8月21日 旅順要塞

●前川 幸太郎  安曇村大字田中
  明治37年10月6日 東干家野戦病院(病死)
   *田中墓地。砲弾型墓碑

●福井 彌七  安曇村大字三尾里
  明治38年4月1日 廣島予備病院(病死)
  *常盤木・十八川墓地

●河井 角右衛門  安曇村大字常盤木
  明治38年3月12日 大坂予備病院(病死)
  *常盤木・十八川墓地

○多胡 徳治郎  安曇村大字常盤木
  明治37年10月3日 遼陽兵站病院(病死)

●熊谷 新次郎  安曇村大字田中
  明治37年9月3日 ドウズアシュアンシウズイ
   *田中墓地。砲弾型墓碑

●中西 傳次郎  安曇村大字西萬木
  明治38年3月23日 対馬付近船内
   *西万木墓地。砲弾型。「傳」でなく「鍵」

青柳村

○吹畑 鐵蔵  青柳村大字小川
  明治38年9月21日 戦地舎営病院(病死)

○木原 幾太郎  青柳村大字青柳
  明治38年3月7日 小貴興堡

○岡田 亀吉  青柳村大字青柳
  明治37年8月22日 東鶏冠山北砲台

○小島 松之助  青柳村大字下小川
  明治37年8月24日 盤龍山西砲台

本庄村

●梅村 七松  本庄村大字四津川
  明治37年10月31日 青泥窪兵站病院(病死)
  *砲弾型墓碑

●山本 鶴吉  本庄村大字四津川
  明治37年8月21日 旅順
  *砲弾型墓碑

●拝藤 勇蔵  本庄村大字四津川
  明治38年3月7日 小貴興堡
  *砲弾型墓碑

●梅村 伊三郎  本庄村大字四津川
  明治37年6月15日 得利寺
  *砲弾型墓碑

●澤井 六之丞  本庄村大字横江濱
  明治38年10月7日 古城堡(病死)
  *砲弾型墓碑

●橋本 伊三郎  本庄村大字南船木
  明治38年3月7日 小貴興堡
  *四角柱の墓碑

●竹原 岩次郎  本庄村大字南船木
  明治37年8月21日 旅順
  *四角柱の墓碑

●早藤 彌三郎  本庄村大字四津川
  明治38年1月24日 遼陽兵站病院(病死)
  *砲弾型墓碑

高島村

●大塚 徳松  高島村大字鹿ヶ瀬
  明治37年10月15日 大坂予備病院
   *黒谷墓地に四角錐の墓碑

●八田 金蔵  高島村大字高島
  明治37年8月22日 旅順
   *伊黒墓地に四角錐の墓碑

●西川 元治郎  高島村大字高島
  明治38年3月7日 小貴興堡
   *伊黒墓地に四角錐の墓碑

●西 歳徳  高島村大字鹿ヶ瀬
  明治37年8月22日 東鶏冠山北砲台
  *鹿ガ瀬に巨大な碑

大溝町

●山田 與三郎  大溝町大字勝野
  明治38年3月2日 角面堡
  *中野墓地に四角錐の墓碑

●竹下 伊三郎  大溝町大字勝野
  明治38年3月4日 来神堡
  *中野墓地に四角錐の墓碑

○仁賀 富蔵  大溝町大字勝野
  明治38年4月15日 遼陽兵站病院(病死)

●萬木 音吉  大溝町大字勝野
  明治38年3月8日 小貴興堡
  *中野墓地に四角錐形の墓碑

○和治 庄蔵  大溝町大字勝野
  明治37年7月30日 小倉予備病院(病死)

○仁賀 半兵衛  大溝町大字勝野
  明治38年9月11日 佐世保港三笠艦遭難

水尾村


●鈴木 勘三郎  水尾村大字宮野
  明治37年8月1日 滾子泡
   *宮野墓地に四角錐の墓碑

○伊藤 岩吉  水尾村大字武曽横山
  明治37年11月8日 廣島予備病院(病死)

○林 善蔵  水尾村大字鴨
  明治38年3月31日 遼陽兵站病院(病死)
   *鴨の共同墓地に四角錐墓碑

○横田 元蔵  水尾村大字武曽横山
  明治37年5月26日 金州南山

○中村 嘉治郎  水尾村大字鴨
  明治37年11月21日 青泥窪兵站病院

○横田 寅吉  水尾村大字武曽横山
  明治37年10月19日  廣島予備病院(病死)

『高島郡地図』(郡誌から)の一部(朽木村付近)
朽木村

○岡本 常吉  朽木村大字麻生
  明治37年8月24日 盤龍山

○三浦 新左衛門  朽木村大字麻生
  明治37年5月26日 金州南山

○久保 留吉  朽木村大字平良
  明治38年10月1日 南嶺病院(病死)

○中辻 大三郎  朽木村大字小川
  明治38年3月2日 北臺子

○久保 吉蔵  朽木村大字大野
  明治38年3月2日 北臺子

○松谷 松右衛門  朽木村大字地子原
  明治38年8月22日 野戦病院(病死)

○米村 岩吉  朽木村大字雲洞谷
  明治38年3月2日 北臺子

『高島郡誌』に記載のない戦没者

百瀬村

●栗本 藤三郎  大沼
  *大沼霊園にある

本庄村

●橋本 卯之助  北舟木
  *砲弾型墓碑。

安曇町

●福井 捨治  
  *砲弾型墓碑 常磐木・十八川墓地

●井上 庫吉
  *通常型墓碑。西万木墓地

Events of 11 September そのとき私は2011/09/10

 私は自宅でその瞬間をネットで多くの人たちと共有した。
 2001年9月11日。.仕事を終えて、チャットに入った。そのとき、チャットの世界は騒然としていた。旅客機が衝突した映像を流すIDにアクセスが集中。
 まもなく、自宅の別室から大きな声が挙がった。二機目が突っ込んだ瞬間だった。いくつかの映像が流されていて、そのどれもに目を奪われた。・・・まだ何が起こったのか、わからない状態であった。
 チャットの相方に、私から伝えた。相方には、NewYorkのそのビルに友人がいた。声の震えはわからなかったが、心配が文面にあふれていた。そして、ビルは二棟とも目の前で崩れ去った。沈黙が生まれ、長い日数、それきりであった。

                            


BIN★「この記なんの記」ブログ情報 August 12 , 2011



 西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。

戦争にかかわる碑

  ■ 忠魂碑・慰霊碑

    ○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など

    ○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)

    ○ 大津市南部の忠魂碑

民間墓地の戦没者

 □ 滋賀県の西南戦争の戦没者

 □ 高島市(高島郡)の戦没者

  ■ 西南戦争(西南之役) 1877年

   ● 戦病死者名簿

      *高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)

  ■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年

   ,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)

      『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。

  ■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年

   ● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)

      ○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿

    ○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。

 公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
 □ ブロック 埋葬者名簿

     陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある

 □ ブロック 埋葬者名簿

     日清戦争期に戦病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

  ■ 大津市作成の名簿順

  ■ あいうえお順

     日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治8年から11年までに病死した下士官と
          兵卒の墓碑が37基


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
         すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
          合計98基。すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)

 □ 西南戦争の戦死者

 □ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿

 □『大津市志』

 □ 滋賀郡膳所町

 □ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)