お元気ですか?

大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。


なにをテーマに書こうかと迷いながら

2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。

2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、

気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。


戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。

通信兵だった父や防空監視隊にいた母から

聞かされた話は、

戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない

という思いを強くさせるものでした。

ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、

国家の理屈で議論が進みます。

同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。

しかし、戦争は、最悪の暴力です。

私は草の根の痛み、

どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で

書いていきたいと思っています。


あまり楽しめないブログかも知れませんが、

お気軽に感想やコメントをお寄せください。


Google
WWW を検索 このブログ内を検索

9・11以後、アフガンでイラクで、米軍の戦死者はつづいている・・・2011/09/11

 2001年の9・11以後、ブッシュ政権は、「今後、テロリストをかくまい、援助を与えるいかなる国家も米国に敵対する政権とみなす」と宣言した。同年10月7日にはアフガニスタンに空爆を開始し、やがてタリバン政権を打倒した。2003年3月20日にはイラク戦争開戦。しかし、ともに政権を打倒したあとも、「戦争」は終わらなかった。
 米兵の戦死者は、今年の8月までに、アフガニスタンで1,734人、イラクで447名に達している。民間人の死者は十数万とも、数十万ともいわれている。
 戦死は今の現実そのものである。

高杉晋作、来島又兵衛、久坂玄瑞らも無名の志士も全く同じ形の墓碑2011/09/11

高杉晋作、来島又兵衛、久坂玄瑞らの個人墓碑@霊山墓地
 京都の「霊山墓地」に並ぶ維新の志士たちの墓碑の話。
 木戸孝允をのぞけば、どれも画一的な個人墓碑が並んでいる。書物や大河ドラマなどに登場するビッグネームも、そうではない無名の志士も区別がない。たとえば、この一角。右から高杉晋作、来島又兵衛、久坂玄瑞と続いている。
 不思議な気がしたが、次第に、好ましく思えるようになった。

高杉晋作の墓碑は新しい・・・?2011/09/11

高杉晋作の墓碑@霊山墓地
 司馬遼太郎『世に棲む日日』、池宮彰一郎『高杉晋作』、古川薫『高杉晋作 わが風雲の詩』などで描かれている高杉晋作。「霊山墓地」にある墓碑は、上の写真でわかるように新しいものでした。左側面に「昭和四十九年十月十四日建」。
高杉晋作の墓碑の背面@霊山墓地
 背面には「慶応三年四月十四日下関で病死」と刻まれています。実は、正面を見る前に、この部分が目立ったので撮影しました。高杉晋作の墓碑と気づかずに。なぜなら、他の墓碑は空白でしたから。
 今見る高杉晋作の墓碑は建て替えたのでしょう。しかし、それはまたなぜ?こういう歴史的な墓地に、戦後に新しく墓碑を入れ込むとは考えられません。よほど痛んでいたのでしょうか。

西南戦争の個人墓碑@霊山墓地2011/09/11

西南戦争の個人墓碑@霊山墓地
 霊山墓地には招魂社があり、招魂碑があり、個人墓碑がある。個人墓碑の多くは、戊辰戦争以前のものである。つまり、明治政府誕生までのもの。案内図に掲載されていない墓碑もある。日中戦争など後世の墓碑など。
 写真の墓碑は、西南戦争の墓碑である。同じ墓碑だが、上の写真ではわかりにくいけれど、下の写真では、独立して置かれているのがわかる。石質も志士の墓碑(花崗岩か)とちがい砂岩っぽい。
 長州出身の木戸孝允がこの墓地をつくったあと、明治10年に病死する。西南戦争の年である。西南戦争は独立王国の様相を強めていた鹿児島県(旧薩摩藩)の士族と明治政府の戦争である。戊辰戦争の主力であり、唯一の陸軍大将である西郷隆盛がいて、最強の士族軍団と明治政府の生き残りをかけた戦争。
この霊山墓地に薩摩の墓碑がないというのは、そういう事情があるのだろう。
 西南戦争をたたかう明治政府軍の中心は大阪にあった。その大阪には、わが国最大の陸軍墓地がある。旧真田山陸軍墓地である。この墓地の西南戦争の墓碑には、「鹿児島賊徒征討」という敵愾心が文字となって刻まれている。高島市でみつけた西南戦争の墓碑には、このような文字はない。
 では霊山墓地ではどうか。
河合萬七正信招魂之碑
明治十年三月十五日戦死 於肥後國山本郡田原阪 行年二十五歳
 あっさりした記述である。
そもそも、この墓碑はいつ建てられたのだろうか(背後の写真を取り忘れているので)。

藩名を見て回る@霊山墓地2011/09/11

徳山藩
 「長州」と刻まれた墓碑が居並ぶ区域を離れると、様々な藩の名前が登場する。上の写真は「徳山藩」、下は「十津川」。
「十津川」が並ぶ
下は、左から、久留米、土佐、土佐、土佐。
久留米、土佐・・・

「膳所藩 粟屋良之助源達道墓」@霊山墓地2011/09/11

諸藩の志士たちの墓碑が並ぶ
 霊山墓地の個人墓碑を次々と見ていきました。最初は通り過ぎましたが、帰り道で見直し、「膳所藩」という文字に気づきました。私が見た限り、膳所藩と刻まれているのは一つだけでした。
「膳所藩 粟屋良之助源達道墓」
膳所藩 粟屋良之助源達道墓
 帰宅して「新修大津市史」を読み直すと、出てきました。膳所藩を脱藩して、1864年7月のいわゆる「蛤御門の変」で長州側について戦死した若者でした。24歳だったとのことでした。

夏が終わり、ドッグランの季節に2011/09/11

 8月は人間の学校だけが休みではありません。ドッグスクールもお休み。ワンコは暑さに弱いからでしょうね。9月になり、確かに涼しくなりました。ドッグスクールも再開されました。楽しみだったドッグランに出かける日も間近です。

5月のカモ2011/09/11

5月のカモ
 5月に撮ったカモの写真です。一羽だけが澱んだ水面で、エサを探している様子でした。5月は過ごしやすい季節。9月も同じです。

アオサギ2011/09/11

アオサギ
 細見の体であまり動かないアオサギ。突然、私に気がついて、飛び立ちました。その一瞬の写真。

アオサギ 22011/09/11

アオサギ
さっきの写真より、このほうがいいのかも。

                            


BIN★「この記なんの記」ブログ情報 August 12 , 2011



 西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。

戦争にかかわる碑

  ■ 忠魂碑・慰霊碑

    ○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など

    ○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)

    ○ 大津市南部の忠魂碑

民間墓地の戦没者

 □ 滋賀県の西南戦争の戦没者

 □ 高島市(高島郡)の戦没者

  ■ 西南戦争(西南之役) 1877年

   ● 戦病死者名簿

      *高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)

  ■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年

   ,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)

      『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。

  ■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年

   ● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)

      ○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿

    ○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。

 公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
 □ ブロック 埋葬者名簿

     陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある

 □ ブロック 埋葬者名簿

     日清戦争期に戦病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

  ■ 大津市作成の名簿順

  ■ あいうえお順

     日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治8年から11年までに病死した下士官と
          兵卒の墓碑が37基


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
         すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
          合計98基。すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)

 □ 西南戦争の戦死者

 □ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿

 □『大津市志』

 □ 滋賀郡膳所町

 □ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)