お元気ですか?

大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。


なにをテーマに書こうかと迷いながら

2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。

2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、

気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。


戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。

通信兵だった父や防空監視隊にいた母から

聞かされた話は、

戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない

という思いを強くさせるものでした。

ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、

国家の理屈で議論が進みます。

同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。

しかし、戦争は、最悪の暴力です。

私は草の根の痛み、

どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で

書いていきたいと思っています。


あまり楽しめないブログかも知れませんが、

お気軽に感想やコメントをお寄せください。


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陸軍歩兵伍長の墓碑に、なぜ「陸軍軍医正 村治重厚」の名前が?@旧大津陸軍墓地2007/11/12

 旧大津陸軍墓地にある下士官の墓碑を解読しています。

 その墓碑のひとつ、「陸軍伍長大関義之」は、安政5(1858)年3月15日に生まれて、明治11(1878)年8月27日に、20歳で病死していると刻まれています。
 病死を告げる部分に、「陸軍軍医正勲四等従六位村治重厚」の名前が見えます。
 上の写真の二行目です。
 全体がよく解読できないので困っていますが、担当医(?)の名前が刻まれているのをはじめて見ました。担当医ではなかったりして。

 ちなみに、「村治重厚」という名前を刻んだ大きな墓碑が、同じ旧大津陸軍墓地にあるのです。それは、上段の将校の墓地のほぼ真ん中。この陸軍墓地では、大きな部類に属する墓碑です。

「(明治)十年二月・・・鹿児島」の文字が見える陸軍歩兵伍長・大関義之の墓碑2007/11/12

もしかして西南戦争に参加?陸軍歩兵伍長・大関義之の墓碑
 旧大津陸軍墓地の「見学会」(24日)まで、あと二週間を切りました。私の作業もひとつの区切りにするつもり。それまでに、調べられることは調べてしまいたいと思うのです。一日中断したら、これまでの流れを忘れてしまうのは、睡眠不足のせい?
 それはさておき、今日は、昨晩に続き、Cブロック(下士官の墓地)を碑文を読むことにします。じっと見ていると、文字が不思議に読めてくるんです。時間がたつと、また読めなくなってしまいます。ですから、読めたときに、メモを残すのが大切。

●陸軍歩兵伍長・大関義之

 この方の碑文は、文字の角がまるくなっていて、消え始めています。それでも、断片的に読めます。
上の写真の4行目に、「鹿児島」という文字を見つけました。
 もしかして、西南戦争へ参加された方なのかも知れません。「鹿児島」の7から8字まえには(4行目の冒頭)、「同十年二月」という文字が見えます。ますます、その可能性が出てきましたね。
 とりあえず、メモ。

可通者島根県因幡国邑美郡・・・と刻まれた陸軍曹長橋尾可通の墓碑について2007/11/12

 旧大津陸軍墓地のCブロックの一番後ろの列の一番右に、「陸軍曹長橋尾可通之墓」があります。
 没年は、明治11(1878)年。31歳での病死です。
この方は、士族出身。旧大阪鎮台第五大隊時代から陸軍に入り、そのまま第九連隊に移ったのだと推測します。

●少し変だと思ったのは、「島根県」の出身。

 第五大隊は、明治6(1873)年、当時の鳥取・豊岡・北條・足羽・石川の5県の壮兵から編成されています。島根県はありません。
 でも、鳥取と島根の関係を調べてみて、納得がいきました。
 明治6年の段階では、「因幡国」は鳥取県に属しています。したがって、橋尾可通が第五大隊に編入されたのはおかしくありません。
 しかし、明治9(1876)年に、鳥取県は島根県に併合されます。橋尾曹長が死亡したのは、明治11(1878)年ですから、「因幡国」は、鳥取県ではなく、島根県。
 ですから、墓碑に「鳥取県」と書かれていても、第五大隊の編成地域(鳥取・豊岡・北條・足羽・石川)の外から応募したというわけではないのです。
 ささいなことですが、疑問を追及すると、それなりの答えがあるものなのですねぇ。

Cブロックの謎=ただ置かれているだけの石と読めない墓碑2007/09/30

墓碑が解読できない病没した下士官の墓碑
一番手前の左に、墓石がおかれるはずの位置に、石がひとつあります。
写真はこれ↓
http://nostalghia.asablo.jp/blog/2007/09/29/1827407

これはなに?

これがひとつの謎。

もうひとつは、読めない石碑。
文字が書かれているように見えます。
・・・でも解読できません。

夕方に撮影したせいかも知れませんが。

場所は、明治30年代の病没者の行の一番左にあります。

旧大津陸軍墓地:Cブロックから見る埋葬の順序2007/09/30

明治11年から大正12年まで病没した下士官の墓地(旧大津陸軍墓地)
埋葬の順序が、墓石に刻まれている年月日から、わかります。
私のつけた番号とは、行も列も逆の順序になるのです。

写真でいくと、右手前が一番古いお墓となり、
その左に順番に葬られています。
余地がなくなると、その前へいき、また右から左へ。

具体的には、
一番奥が右から左へ、明治11年から18年
次がその前へ行って、また右から左へ、明治30年から明治39年
さらに前へ、右から左へ、明治9年から12年

  ⑦⑥⑤④③②①
?⑭⑬⑫⑪⑩⑨⑧
       ⑰⑯⑮

埋葬場所の順番に例外がないなら、
年月日の読めない墓碑も推察することが可能になります。

この点、Bブロックとはちがいます。

旧大津陸軍墓地 :Cは病死された方が埋葬されたブロックか?2007/09/30

階級が読み取れたので、墓石に刻まれている碑文を読むことにします。
そこには、没年月日と場所以外に書かれているものもあります。

C0105 石
C0106 陸軍歩兵軍曹    大正12(1923)年11月24日病死
C0107 陸軍歩兵軍曹    大正12(1923)年8月20日没
C0108 故陸軍歩兵曹長   大正8(1919)年10月25日没

C0201 文字消失
C0202 陸軍歩兵軍曹    明治39(1906)年1月2日死
C0203 陸軍歩兵軍曹    明治36(1903)年5月31日死
C0204 陸軍歩兵伍長    明治3?年?月?7日
C0205 陸軍歩兵曹長    明治34(1901)年7月17日
C0206 陸軍歩兵軍曹    明治33(1900)年7月16日
C0207 陸軍歩兵軍曹   明治33(1900)年11月7日
C0208 陸軍歩兵軍曹   明治30(1897)年6月11日

C0302 故歩兵伍長    明治18(1885)年10月17日病死
C0303 歩兵軍曹     明治17(1884)年8月8日
C0304 故歩兵曹長    明治17(1884)年2月21日 19歳
C0305 歩兵軍曹     解読不可能
C0306 歩兵伍長     解読困難
C0307 陸軍伍長     解読困難
C0308 陸軍曹長     明治11(1878)年7月3日終没

それぞれの碑文を読んで、推察すれば、戦争によって戦死した方というよりは、平時に病没された方がこのCブロックに埋葬されているのではないかと思います。

21歳で病没した歩兵伍長の墓碑2007/09/29

大津営所(駐屯地)で21歳で病死した歩兵伍長の墓碑
生きた証というか、死に様を記録した墓石。

「明治十八年十月十七日没 於大津営所病室
 ?時齢二十一年九月」

C0301

生きた証が刻まれた墓碑2007/09/29

生きた証が刻まれた歩兵軍曹の墓碑
 Cブロックでは、ひとつの墓石をのぞくとすべての墓碑の階級名を読み取ることができました。
 細かい疑問はともかく、Bブロックとの違いは、墓石にその方の経歴が刻まれている墓石があることです(A、F、M、Lにもありますが)。

上の写真は、C0302

島根県、士族、元治元年二月十五日生、大阪鎮台などの文字が見えます。

旧大津陸軍墓地 :Cブロックに埋葬された人たち2007/09/29

なぜか石が置かれています。墓碑が失われたのか?
旧大津陸軍墓地のCブロック。
配置は、つぎのようになっています。■は墓石。

       1 2  3  4  5  6 7  8
第3行     ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■  7柱
第2行  ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■  8柱
第1行            ○ ■ ■ ■ 3柱
                ↑石(上の写真)            

C0105 石
C0106 陸軍歩兵軍曹
C0107 陸軍歩兵軍曹
C0108 故陸軍歩兵曹長

C0201 まったく解読できません。字そのものが喪失。
C0202 陸軍歩兵軍曹
C0203 陸軍歩兵軍曹
C0204 陸軍歩兵伍長
C0205 陸軍歩兵曹長
C0206 陸軍歩兵軍曹
C0207 陸軍歩兵軍曹
C0208 陸軍歩兵軍曹

C0302 故歩兵伍長
C0303 歩兵軍曹
C0304 故歩兵曹長
C0305 歩兵軍曹
C0306 歩兵伍長
C0307 陸軍伍長
C0308 陸軍曹長

旧大津陸軍墓地 : Cブロックの墓石配置2007/09/25

旧大津陸軍墓地  Cブロックの墓石群
皇子が丘の琵琶湖を見下ろす斜面につくられた陸軍墓地。
全部で559柱の個人の墓石があります。

形は、二段になっていて、
   上層は、将校らの墓。(Aブロック、Mブロック) 30柱
   下層は、兵卒らの墓。(それ以外)       529柱

琵琶湖に向かっては、一番右の山手。下から上ってくれば、一番左。
そこの一群をCブロックと名づけました。

「准将校」と「下士」の二つの日露戦争の碑の山手になります。

墓石も不ぞろいですし、置き方も特に考えられているとは思えません。

第3列 7柱
第2列 8柱
第1列 3柱(墓の基礎と思われる石が別にあり)
合計 19柱
             
            正面

                            


BIN★「この記なんの記」ブログ情報 August 12 , 2011



 西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。

戦争にかかわる碑

  ■ 忠魂碑・慰霊碑

    ○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など

    ○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)

    ○ 大津市南部の忠魂碑

民間墓地の戦没者

 □ 滋賀県の西南戦争の戦没者

 □ 高島市(高島郡)の戦没者

  ■ 西南戦争(西南之役) 1877年

   ● 戦病死者名簿

      *高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)

  ■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年

   ,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)

      『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。

  ■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年

   ● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)

      ○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿

    ○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。

 公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
 □ ブロック 埋葬者名簿

     陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある

 □ ブロック 埋葬者名簿

     日清戦争期に戦病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

  ■ 大津市作成の名簿順

  ■ あいうえお順

     日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治8年から11年までに病死した下士官と
          兵卒の墓碑が37基


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
         すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
          合計98基。すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)

 □ 西南戦争の戦死者

 □ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿

 □『大津市志』

 □ 滋賀郡膳所町

 □ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)