お元気ですか?
大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。
なにをテーマに書こうかと迷いながら
2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。
2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、
気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。
戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。
通信兵だった父や防空監視隊にいた母から
聞かされた話は、
戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない
という思いを強くさせるものでした。
ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、
国家の理屈で議論が進みます。
同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。
しかし、戦争は、最悪の暴力です。
私は草の根の痛み、
どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で
書いていきたいと思っています。
あまり楽しめないブログかも知れませんが、
お気軽に感想やコメントをお寄せください。
「二等卒柴田久治郎墓」@旧大津陸軍墓地F01 ― 2008/10/31
「陸軍兵曹藤井六蔵之墓」@旧大津陸軍墓地F02 ― 2008/10/31
「矢田権助墓」@旧大津陸軍墓地F03 ― 2008/10/31
「伊藤定次郎之墓」@旧大津陸軍墓地F04 ― 2008/10/31
「川端音次郎之墓」@旧大津陸軍墓地F05 ― 2008/10/31
「門田清助墓」@旧大津陸軍墓地F06 ― 2008/10/31
「門田清助」は、「明治十年十一月九日」に病死しています。
碑文では、二十三歳。
時期的には西南戦争直後の死です。
碑文を見ると、「明治九年八月」應徴。
墓碑の左側面は風化して、読み取りづらい状態です。
それでも「鹿児島縣」と読み取れる文字があります。
目の迷いでしょうか。
亡くなる直前(明治10年10月7日)に、
「大津営所付埋葬地」が竣功しています。
上段・中段・下段の三段構造で、下段が兵卒の墓地。
なぜ、下段に葬られなかったのか不思議です。
下段に葬られている兵卒の年代を見る必要がありますね。
右側面は、没年月日。
「明治十年十一月九日」と読むことができます。
わずか3行ですが、相当痛んでいて解読困難です。
時期的には西南戦争直後の死です。
碑文を見ると、「明治九年八月」應徴。
墓碑の左側面は風化して、読み取りづらい状態です。
それでも「鹿児島縣」と読み取れる文字があります。
目の迷いでしょうか。
亡くなる直前(明治10年10月7日)に、
「大津営所付埋葬地」が竣功しています。
上段・中段・下段の三段構造で、下段が兵卒の墓地。
なぜ、下段に葬られなかったのか不思議です。
下段に葬られている兵卒の年代を見る必要がありますね。
右側面は、没年月日。
「明治十年十一月九日」と読むことができます。
わずか3行ですが、相当痛んでいて解読困難です。
「乾福松之墓」@旧大津陸軍墓地F07 ― 2008/10/31
「細川弥次郎之墓」@旧大津陸軍墓地F10 ― 2008/10/30
「村田良助之墓」@旧大津陸軍墓地F11 ― 2008/10/30
「宮川清太郎之墓」@旧大津陸軍墓地F16 ― 2008/10/30
「宮川清太郎」は、碑文から見る限り、
西南戦争(1877年2月から9月)の最中に徴兵され、
翌年春に病死しています。
死亡年月日は、明治11年4月15日。
このときに、旧大津陸軍墓地は竣工していますから、
Fブロックではなく、正規の場所に葬られると
思うのですが、この場所にあります。
なぜでしょうか?
右側面の死亡年月日は、苔むして
読むことはできません。
碑文はいろんな角度から見て、
なんとか解読できそうです。
あと少し・・・。
西南戦争(1877年2月から9月)の最中に徴兵され、
翌年春に病死しています。
死亡年月日は、明治11年4月15日。
このときに、旧大津陸軍墓地は竣工していますから、
Fブロックではなく、正規の場所に葬られると
思うのですが、この場所にあります。
なぜでしょうか?
右側面の死亡年月日は、苔むして
読むことはできません。
碑文はいろんな角度から見て、
なんとか解読できそうです。
あと少し・・・。
清太郎者滋賀縣下近江國坂田郡@@@村農宮川@@@次男安政三年十一月三日生明治十年六月五日應徴為大坂鎮台歩兵第九聯隊第ニ大隊@入営同十一年四月十五日病死於大津営所病室干時二十有一年六ヶ月
西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。
戦争にかかわる碑
■ 忠魂碑・慰霊碑
○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など
○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)
○ 大津市南部の忠魂碑
民間墓地の戦没者○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。
□ 滋賀県の西南戦争の戦没者
□ 高島市(高島郡)の戦没者
■ 西南戦争(西南之役) 1877年
● 戦病死者名簿
*高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)
■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年
,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)
『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。
■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年
● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)
○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿
○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
□ Aブロック 埋葬者名簿
陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある
□ Bブロック 埋葬者名簿
日清戦争期に戦病死した下士官の墓地
□ Cブロック 埋葬者名簿
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Dブロック 埋葬者名簿(作成中)
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Eブロック 埋葬者名簿
■ 大津市作成の名簿順
■ あいうえお順
日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。
□ Fブロック 埋葬者名簿
明治8年から11年までに病死した下士官と
兵卒の墓碑が37基
□ Kブロック 埋葬者名簿
「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
すべて兵卒の墓碑。
□ Lブロック 埋葬者名簿
「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
合計98基。すべて兵卒の墓碑。
□ Mブロック 埋葬者名簿(作成中)
陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)
□ 西南戦争の戦死者
□ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿
□『大津市志』
□ 滋賀郡膳所町
□ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)
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