お元気ですか?

大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。


なにをテーマに書こうかと迷いながら

2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。

2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、

気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。


戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。

通信兵だった父や防空監視隊にいた母から

聞かされた話は、

戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない

という思いを強くさせるものでした。

ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、

国家の理屈で議論が進みます。

同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。

しかし、戦争は、最悪の暴力です。

私は草の根の痛み、

どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で

書いていきたいと思っています。


あまり楽しめないブログかも知れませんが、

お気軽に感想やコメントをお寄せください。


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ロシア人捕虜の墓石を考える2007/10/16

ロシア人捕虜の墓石
旧大津陸軍墓地にある
ただひとつのロシア人兵士の墓。
これについて
考えてみることにした。

●位置

この墓石の位置だけれど、かつての中段で、
目の前が崖となる端に、ひっそり建っていたという。

位置そのものは、地図から見ると変わっていないと思う。

Gブロック :日露戦争・ロシア人捕虜の墓がたった一柱あります2007/09/21

大津陸軍墓地のロシア人捕虜の墓碑:これだけが離れたところにある。
 日露戦争のときに、数万規模のロシア人捕虜が日本国内に連れてこられて収容されていた事実を、私も知りませんでした。
 「日露戦争と習志野」というサイトに詳しく紹介されています。
習志野市教育委員会のものです(↓)。
http://www.city.narashino.chiba.jp/siyakusyo/kyouiku/nichiro/index.html
 予備知識のないまま、大津陸軍墓地に来て、ロシア人の墓を見つけた驚きはいまでも残っています。
http://nostalghia.asablo.jp/blog/2007/09/06/1775806

 考えてみれば、不思議なことではありませんでした。
しかし、こうして生の墓を見ると深い思いに囚われます。

 日本に輸送されたロシア人捕虜は、79,637人。習志野では15,000人を超えています。習志野では34名が死亡。
 大津ではたった一人だったのでしょうか?

 異国で病死することは、さぞ心細く、淋しかったことと思います。
また、死んでなお、たった一柱離れて葬られています。
 しかも、途中から折れていて、あとで修理されていますね。

 二重、三重に、気の毒に思えます。

大津旧陸軍墓地 Gブロック(ロシア人兵士の墓のみ)2007/09/21

大津旧陸軍墓地 エリアG(ロシア人兵士の墓)手前右
大津陸軍墓地の略図(↓)に従って、ここをGブロックと呼ぶことにします。
http://nostalghia.asablo.jp/blog/2007/09/21/1810909

写真では、手前右の木の陰にあるたった一柱しかない部分です。
をGブロックと呼びたいと思います。
ロシア人兵士(捕虜)のお墓です。
他とは区別されています。

以上、A、B、C、D、E、F、Gは、国有地。
大津市に無償貸与されているそうです。
これは、戦前と同じ状態だと思われます。

ロシア人捕虜の墓が大津陸軍墓地にあります2007/09/06

 先日、陸軍墓地に行ったときに、ひとつだけ、離れたところにあるお墓に気づきました。下の入り口から入ったので、ロシア兵士の墓があるとは知りませんでした。
 でも、不思議な気がして近づくと、十字架が墓石に刻まれているのが目につきました。
 これはキリスト教徒の墓であり、おなじ日本人兵士でも、区別されているのかと思ったのです。
 しかし、さらに近づくと、露西亜の文字が見え、カタカナの名前が判読できました。
 驚きでした。

 この驚きと発見が、中島峰夫氏への訪問の動機でした。
 そして、H氏を紹介されたのも、この件です。

 午前中に訪問した大津市歴史博物館のH氏は、このお墓について、「それはロシア人兵士で捕虜になった人の墓です。日露戦争のときに、捕虜として日本に連れてこられて、大津だけでなく、各地に預けられていました。たとえば、三井寺にもいたそうです」

                            


BIN★「この記なんの記」ブログ情報 August 12 , 2011



 西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。

戦争にかかわる碑

  ■ 忠魂碑・慰霊碑

    ○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など

    ○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)

    ○ 大津市南部の忠魂碑

民間墓地の戦没者

 □ 滋賀県の西南戦争の戦没者

 □ 高島市(高島郡)の戦没者

  ■ 西南戦争(西南之役) 1877年

   ● 戦病死者名簿

      *高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)

  ■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年

   ,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)

      『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。

  ■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年

   ● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)

      ○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿

    ○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。

 公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
 □ ブロック 埋葬者名簿

     陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある

 □ ブロック 埋葬者名簿

     日清戦争期に戦病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

  ■ 大津市作成の名簿順

  ■ あいうえお順

     日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治8年から11年までに病死した下士官と
          兵卒の墓碑が37基


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
         すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
          合計98基。すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)

 □ 西南戦争の戦死者

 □ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿

 □『大津市志』

 □ 滋賀郡膳所町

 □ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)