お元気ですか?

大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。


なにをテーマに書こうかと迷いながら

2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。

2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、

気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。


戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。

通信兵だった父や防空監視隊にいた母から

聞かされた話は、

戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない

という思いを強くさせるものでした。

ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、

国家の理屈で議論が進みます。

同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。

しかし、戦争は、最悪の暴力です。

私は草の根の痛み、

どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で

書いていきたいと思っています。


あまり楽しめないブログかも知れませんが、

お気軽に感想やコメントをお寄せください。


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「釈○○」のように法名のある兵卒の墓碑の存在@旧大津陸軍墓地2010/10/29

 陸軍墓地の墓碑に、法名が刻まれていることは考えたことがありませんでした。しかし、「釈」と共通して読める文字が階級名にあたる部分の最初に刻まれているのは確かな様子です。
 他の陸軍墓地にもあるのかどうか、また、その墓碑が建て直されたものではないのか、など、さらに調べる課題が見つかりました。

解明のヒントとなる「中西丹(次)」の墓碑(東30=L176)2010/10/28

解明のヒントとなる「中西丹(次)」の墓碑(東30=L176)
東29の墓碑でははっきりしていなかった文字が、東30の墓碑では読み取ることができます。
 冒頭の一字は、やはり「釈」でしょうね。となると、戒名ではないかと思います。あとは不明ですが、階級名とは思えません。その下ですが、「中西」までは、しっかり読めます。

追加記事。
やつしろさんのコメントでの指摘どおり、戒名ではなく、「法名」に訂正します。上の記事はそのまま残しますが。おっしゃるように「釈勇進」と読めますね。その下の文字ですが、「俗名」と刻まれているようです。ですから全体は、「釈勇進 俗名 中西丹次」でしょうね。

「釈強覚?」と読めますが、法名?中村勘四郎のものとされる墓碑(東29=L177)2010/10/28

「釈強覚?」と読めますが、法名?中村勘四郎のものとされる墓碑(東29=L177)
 この墓碑は、その位置と墓碑の名簿から、「中村勘四郎」のものと考えられます。ところが、階級名も不明ですし、(大津市役所に保管されている名簿ではしっかり書かれている)本人の名前も、実際の墓碑からは(私には)読み取れません。じっと観察すれば、階級名というよりは、戒名のような気がします。あえて読めば「釈強覚」。

1970年代には読めていた?「平野彌三八」の墓碑(東17=L150)2010/10/28

1970年代には読めていた?「平野彌三八」の墓碑(東17=L150)
1970年代前半に移葬された239の墓碑の名簿を、その作業中に作成されていました。さっきから、それを見ながら、写真と対照しているのです。
一人ひとりの名簿は、たとえば次のように書かれています。「2.歩兵二等卒 馬場 寅吉」。上の墓碑については、「17.     平野彌三八」と書かれています。階級名が空白。しかし、名前はしっかり記録されているのですが、今、とてもこのようには、読めません。

階級名不明の墓碑「大北雅郎之墓」(東25=L158)2010/10/28

階級名不明の墓碑「大北雅郎之墓」(東25=L158)
 とりあえず、階級名が読み取れない墓碑を掲載してみることにします。読める方がいるかも知れませんから。

この墓碑は、氏名は確定されていましたが、名簿では「雅郎」であろうという意味の表記がされていました。写真で見ると、まちがいないと思います。
しかし、階級名は読めません。

階級名の部分が不明な墓碑(東31=L175)について2010/10/28

階級名の部分が不明な墓碑(東31=L175)
 旧大津陸軍墓地の現在のLブロックの墓碑を、かつて存在した場所を念頭において、記録しています。1970年代につくられた名簿を再検討していると、階級名にあたる部分が空白になっている墓碑があります。読み取れないというものもありますが、階級名が刻まれているとは思われない墓碑があります。

 たとえば、この「中尾庄三」の墓碑ですが、「沢?勇?勤?」と読めます。でも、意味不明です。ヒントになるかと、左右の側面を見ても、刻まれているのは、「明治三十四年五月○日」という死亡年月日だけです。

「生兵」から「二等卒」への期間 ~「二等卒 堀田源七 之墓」(東102=L235)より~2010/10/27

「二等卒堀田源七之墓」正面@旧大津陸軍墓地Lブロック
 山県有朋の建議によって推進された徴兵制と六鎮台制。そのもとで、明治8年に新設された大坂鎮台第九聯隊の大津営所。その営所に付属する施設としての埋葬所が旧大津陸軍墓地の最初の姿でした。
 滋賀県をはじめ近隣諸県の農民や町民の子弟が徴兵され、大津営所に入営し、軍事訓練を受けました。そして、訓練の成果よろしく軍隊内の階級を「拝命」するのです。
 堀田源七の墓碑の左側面には、つぎのように刻まれています。
明治十年六月五日應徴入営於大津鎮台歩兵第九聯隊第二大隊同年八月十七日二等卒拝命同十二年一月十日病没於大津営所病室二十二年十一月
「二等卒堀田源七之墓」左側面
 入営して、わずか二ヶ月で二等卒???

「下段東側」には「生兵(せいへい)」の墓碑が102柱中15柱(訂正)2010/10/26

空襲により破壊された墓碑が集められた場所@旧真田山陸軍墓地
上の写真は、大阪市玉造にある旧真田山陸軍墓地の一部です。空襲をうけて、破壊された墓碑が無縁塚のように固められているところです。さまざまな階級に混じって「生兵」の墓碑もありました。

旧大津陸軍墓地の話に、戻ります。

下段東側の墓碑のなかに、思ったより「生兵(せいへい)」の墓碑が多いことに気がつきました。そこで、カウントすることにしました。102基の個人碑のうち15がそれでした。
 下は下段東の一覧表。東のあとの番号は、下段東での位置をしめす通し番号。(L)は、現在の位置を示す通し番号です。
 1.東96(L230) 橋爪 佐次郎
     明治12年 8月

 2.東93(L227) 川崎 松之助
     明治12年10月

 3.東90(L225) 原田 國兵
     明治12年 9月

 4.東89(L224) 西出 勇吉
     明治12年 9月

 5.東87(L222) 西口 丈吉
     明治13年10月

 6.東80(L204) 山下 音松
     明治15年 2月

 7.東81(L203) 永田 春吉
     明治15年

 8.東70(L214) 松本 岩吉
     明治15年 9月

 9.東78(L206) 西野 仁吉
     明治14年12月

10.東72(L212) 小林 甚九郎
     明治15年 9月

11.東66(L205) 小松 正
     明治16年10月

12.東64(L199) 梶川太郎市(?)
     明治16年 9月

13.東60(L195) 久野 彌三郎
     明治18年12月

14.東57(L192) 中岡 捨吉
     明治17年12月

15.東54(L189) 水川 丑松
     明治19年10月

明治20年以降はありません。

梶川太郎市(?)を追加。

生兵・橋爪佐次郎(東96=L230)の出身地「紀伊国牟婁郡上市木村」は現在どこにあるのか?2010/10/26

一行目に「三重縣」二行目に「紀伊国牟婁郡上市木村」と読み取れます
 先に紹介した「生兵橋爪佐次郎之墓」に刻まれてる「三重縣・・・紀伊国牟婁郡上市木村」とは、現在のどこにあたるのか?を調べてみました。佐次郎が21歳で亡くなったのは、明治12(1879)年です。このことを念頭に置くことが大事になります。
 「紀伊国牟婁郡」ですが、明治11(1878)年7月22日 - 郡区町村編制法制定に伴い、紀伊国牟婁郡を、和歌山県に属する西牟婁郡・東牟婁郡と、三重県に属する北牟婁郡・南牟婁郡に分割したという経過があります。「上市木村」は、南牟婁郡に属しました。
  Wikipediaで、明治22(1889)年の市町村制以降の合併の動きを知ることができます。上市木村は、明治22年4月1日に下市木村と合併して、南牟婁郡市木村となります。・・・これだけでも、墓碑が明治22年以前に建立されたことがわかりますね・・・戦前はずっとこのままです。
 戦後は、昭和31年9月30日に尾呂志村と合併して、南牟婁郡市木尾呂志村になりました。そのわずか2年後の昭和33年9月1日には、阿田和村、神志山村と合併し、御浜町となり、現在に至っています。
南牟婁郡御浜町上市木

 Mブロックでも、Lブロックでも(つまり、下段西でも東でも)、「三重縣」と出身地が刻まれた墓碑がいくつかあります。第九聯隊の徴兵範囲がここまで及んでいることを示すとともに、旧大津陸軍墓地がそれらの範囲の庶民の嘆きの場であることをあらためて確認することが大事だと思います。

「生兵橋爪佐次郎之墓」(東96=L230)を見る2010/10/25

下段東側96「生兵橋爪佐次郎之墓」正面
橋爪佐次郎の墓碑の右側面
上の写真は、明治12年8月に亡くなった橋爪佐次郎の墓碑の正面と右側面です。正面には階級と氏名。左右に履歴が刻まれています。右側面は途中で終わっていますが、残りは左側面にあります。
三重縣平民橋爪甚七次男安政五年三月八日生於紀伊國牟婁郡上市木村明治十二年四月廿九日應徴入営於大坂鎮台歩兵第九聯隊第一大隊第三中隊
下の写真が、左側面です。
明治十二年十月十七日死於大津営所病室干時年廿一年六月
墓碑の左側面

 橋爪佐次郎は二十一歳の生涯を衛戍病院の病室で終えました。わずかな期間の兵役生活のために、「生兵」、つまり兵としての階級をえるまえに。故郷・三重県にいる父親の名前は、甚七。次男を徴兵され、わずか半年で亡骸をいだくことになりました。はるかな距離を知らせを聞いて駆けつけたことでしょう。再会の光景は痛ましいものがあったはず。母親の名前はわかりませんが、その嘆きはどこにも記録されていません。

 この墓碑は、東側の墓地の上から二列目に並んでいた墓碑の一つです。下段東には、墓地の真ん中あたりに樹木のベルトがあった様子です。この木をよけるために、二列目は、4柱しか並んでいません。
東97 明治12年 8月
     二等兵卒 脇谷 榮吉
     Lブロック231

東96 明治12年 8月
     生兵     橋爪 佐次郎
     Lブロック230

東95 明治12年 8月
     二等兵卒 今井 藤松
       Lブロック229

東94 明治12年 8月
     二等卒     増田 重吉
     Lブロック164 二行

                            


BIN★「この記なんの記」ブログ情報 August 12 , 2011



 西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。

戦争にかかわる碑

  ■ 忠魂碑・慰霊碑

    ○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など

    ○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)

    ○ 大津市南部の忠魂碑

民間墓地の戦没者

 □ 滋賀県の西南戦争の戦没者

 □ 高島市(高島郡)の戦没者

  ■ 西南戦争(西南之役) 1877年

   ● 戦病死者名簿

      *高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)

  ■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年

   ,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)

      『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。

  ■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年

   ● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)

      ○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿

    ○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。

 公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
 □ ブロック 埋葬者名簿

     陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある

 □ ブロック 埋葬者名簿

     日清戦争期に戦病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

  ■ 大津市作成の名簿順

  ■ あいうえお順

     日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治8年から11年までに病死した下士官と
          兵卒の墓碑が37基


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
         すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
          合計98基。すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)

 □ 西南戦争の戦死者

 □ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿

 □『大津市志』

 □ 滋賀郡膳所町

 □ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)