お元気ですか?

大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。


なにをテーマに書こうかと迷いながら

2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。

2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、

気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。


戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。

通信兵だった父や防空監視隊にいた母から

聞かされた話は、

戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない

という思いを強くさせるものでした。

ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、

国家の理屈で議論が進みます。

同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。

しかし、戦争は、最悪の暴力です。

私は草の根の痛み、

どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で

書いていきたいと思っています。


あまり楽しめないブログかも知れませんが、

お気軽に感想やコメントをお寄せください。


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K86からK102までの照応関係@旧大津陸軍墓地2007/10/28

Kブロック第6列目@旧大津陸軍墓地
●第6列

K1からK85までは、番号が飛ぶことはあっても、
Kのオーダーと西のオーダーは一致した。
これに対して、
K86から102までは、
Kは昇順なのに、西は降順というように、
逆転している。

なぜだろう??

K86=西98 村田?五郎
K87=西97 望月
K88=西96 中川 元吉
K89=西95 瀬尾
K90=西94 森 文六
    (西93はK47)
K91=西92 末 鉄次郎
K92=西91 濱地
K93=西90 渡辺
K94=西89 藤枝
K95=西88 中濱
K96=西87 仲井
K97=西86 松永
K98=西85 山野
K99=西84 
K100=西83 田畑
K101=西82 大中
K102=西81

K52からK85までの照応関係メモ@旧大津陸軍墓地2007/10/28

細かいデータは載せませんが、
以下の番号の照応関係は確認しました。
要するに、西側59を除くと、順番どおりです。

●第4列  

K52=西側46 寺島外吉
K53=西側47 
K54=西側48
K55=西側49
K56=西側50
K57=西側51
K58=西側52
K59=西側53
K60=西側54
K61=西側55
K62=西側56
K63=西側57
K64=西側58
    (西側59は、K46)
K65=西側60 
K66=西側61
K67=西側62
K68=西側63

●第5列 

K69=西側64
K70=西側65
K71=西側66
K72=西側67
K73=西側68
K74=西側69
K75=西側70
K76=西側71
K77=西側72
K78=西側73
K79=西側74
K80=西側75
K81=西側76
K82=西側77
K83=西側78
K84=西側79
K85=西側80 亀井新?郎

K1からK51までは台石1つの墓石を選んで連番順に改葬した@旧大津陸軍墓地2007/10/27

下段西側の墓石は全部で135基ありました。

そのうち、台石がひとつの墓石は、
1から45、59、93、127、132、133、
そして135の51基です。

1976年に新設されたKブロックでは、
見事にこの順番で並んでいます。

ちなみに残りの84基は、台石が2つ。

簡単に照応関係だけをメモします。

K1~K45は、そのまま西側1から45に照応。
K46=西側59  
K47=西側93 墓石の読みが間違っています。
           「生兵 田村勝治郎」(大津市作成名簿)ではなく
           「生兵三田村勝治郎」が正しい。
K48=西側127
K49=西側132
K50=西側133
K51=西側135

あらためてKブロックを観察する@旧大津陸軍墓地2007/10/27

Kブロック@旧大津陸具墓地=台石の数で配列を決めたようだ
Kブロックの連番は、1から45までは、
下段西側の1から45に照応しています。
ところが、新設46番は、西側49番。
いきなり、3つ飛ぶのです。
これは、なぜ?
そこで、気がついたのが、墓石の形状。
具体的には、台座の石が1つなのか、
それとも、2つなのかということです。

●あらためてKブロックを観察

それで、Kブロック全体を観察しなおす
ことにしたのです。
上の写真の左が正面です。

見てください。

前から3列目までが台石が1つ、
4列目以降が、台石が2つに
揃えられているのがわかります。

つまり、旧下段の墓石に便宜的であったにしても、
配列の順番につけたオーダーよりも、形状を
重視して並べられたことがわかります。
要するに、見場がいいようにということでしょうね。

下段の番号にしたがわず配列を変えた理由=墓の形状(台石の数)2007/10/27

●配列の順番を変えた理由はなにか

バイパス工事によって、上段・中段・下段と
あった旧陸軍墓地の形状を変えて、
下段を道路にしてしまい、
中段の西の谷を埋め立て、そこに敷地を
つくり、下段の西側・東側の墓石237柱を
ふたつのブロックに分けて、
改葬(移設)しました。

●基本的に西側はKブロック

ざっと見て、西側はKブロック。
問題は、配列。
K1からK45まで、下段西側の番号にしたがって
並べられていることが、わかりました。

しかし、K46は、下段西側46ではないのです。
K46=下段西側59なのです。

これはなぜ?

●下段の図の記号がヒントになるのでは?

http://nostalghia.asablo.jp/blog/2007/10/07/1840480

下段の図を見ていると、墓石をあらわす
記号が二種類あるのがわかります。
⊥と□です。
⊥は、台石がひとつ。
□は、台石が二つ。

西側1から45までは⊥。
西側46から58までは□。
西側59は⊥。
西側60から91までは□。
西側93は⊥。

この台石の数で統一するために、
K46は、西側46から58まで飛ばして、
西側59にしたのだと思います。
K47が西側93なら、この仮説が正しいと
なりますね。

それにしても、こだわるところがちがうんじゃないの。

Kブロックと下段西側の連番の照応は第3列K45まで@旧大津陸軍墓地2007/10/27

旧大津陸軍墓地・下段237柱の原状再現プロジェクト。

http://nostalghia.asablo.jp/blog/2007/10/27/1873519

K1からK45までは、下段西側の墓碑につけられた
連番と一致する。

K46から、ちがってくる。

第二列K18からK34も、下段西側18から34に照応 @旧大津陸軍墓地2007/10/27

旧大津陸軍墓地の下段の237柱の位置再現プロジェクト。

http://nostalghia.asablo.jp/blog/2007/10/27/1873519

Kブロックの第二列をチェックしたが、
これも最前列と同様に、
下段西側の連番と一致した。
つまり、1から34まではそのまま使えるということだ。

文字の誤記などもあるようだが、それはまた
あとでチェック。

●チェックを加速するために

基本的に、西側の連番がそのままだと仮定して、
チェックをする。
ちがった箇所から、ブログにメモを残すことにする。

どこまで一致するのだろうか?

最前列K1からK17までは下段西側1から17に照応@旧大津陸軍墓地2007/10/27

正面から見た旧大津陸軍墓地 Kブロック
旧大津陸軍墓地の
下段再現プロジェクト(と勝手に名づけて)を作業中。

●照応関係は単純?

K1から4まで検証してきて、
照応関係が単純かも知れないと思った。
そこで、一気に最前列をチェックしてみたら、
K1からK17まですべて
西側1から17に照応していることがわかった。

もちろん、なかには名前などで誤記と思われるもの、
階級がちがうと思われるものなどがある。
それはそれとして、いま問題は配列。
これに特化してチェックすると効果的かも知れない。

●列ごとのチェックにかえる

そこで、1から17のつぎは、
18から34まで一気にチェックして
その結果をブログにアップするという
ことで、メモをつくることに切り替えよう。

上の写真は、正面から、Kブロックを見たところ。
手前左から、K1、K2、K3と名づけている。

K4墓石@旧大津陸軍墓地⇔下段西側42007/10/27

「故陸軍歩兵二等卒 瀬戸喜蔵之墓」
旧大津陸軍墓地・下段237柱の原状再現プロジェクト。

http://nostalghia.asablo.jp/blog/2007/10/27/1873519

Kブロックの4番目の柱をチェックする。
墓碑銘は、
「故陸軍歩兵二等卒 瀬戸喜蔵之墓」

これも、下段西側にあった墓石である。
K1からK4まで順番に下段西側1から4に対応。

没年は、「大正13年4月」と名簿にある。
名簿を見る限り、もっとも新しい墓石ということになる。

位置の確認は、あと233柱。

K3墓石@旧大津陸軍墓地⇔下段西側32007/10/27

「故陸軍上等兵青山捨吉之墓」
旧大津陸軍墓地・下段の原状再現プロジェクト。

http://nostalghia.asablo.jp/blog/2007/10/27/1873519

K3の墓碑。
「故陸軍上等兵青山捨吉之墓」

大津市が作成した名簿には、
陸軍歩兵二等卒となっている。
墓碑銘とは、ずいぶんちがう。
墓碑が変わっていないかぎり、誤記。

これも、下段西にある。

大正11年2月歿。

再現すべきは237柱。残りは234柱。

                            


BIN★「この記なんの記」ブログ情報 August 12 , 2011



 西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。

戦争にかかわる碑

  ■ 忠魂碑・慰霊碑

    ○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など

    ○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)

    ○ 大津市南部の忠魂碑

民間墓地の戦没者

 □ 滋賀県の西南戦争の戦没者

 □ 高島市(高島郡)の戦没者

  ■ 西南戦争(西南之役) 1877年

   ● 戦病死者名簿

      *高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)

  ■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年

   ,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)

      『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。

  ■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年

   ● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)

      ○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿

    ○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。

 公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
 □ ブロック 埋葬者名簿

     陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある

 □ ブロック 埋葬者名簿

     日清戦争期に戦病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

  ■ 大津市作成の名簿順

  ■ あいうえお順

     日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治8年から11年までに病死した下士官と
          兵卒の墓碑が37基


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
         すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
          合計98基。すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)

 □ 西南戦争の戦死者

 □ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿

 □『大津市志』

 □ 滋賀郡膳所町

 □ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)