お元気ですか?
大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。
なにをテーマに書こうかと迷いながら
2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。
2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、
気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。
戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。
通信兵だった父や防空監視隊にいた母から
聞かされた話は、
戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない
という思いを強くさせるものでした。
ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、
国家の理屈で議論が進みます。
同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。
しかし、戦争は、最悪の暴力です。
私は草の根の痛み、
どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で
書いていきたいと思っています。
あまり楽しめないブログかも知れませんが、
お気軽に感想やコメントをお寄せください。
ロダン「説教するヨハネ」@大原美術館 ― 2011/09/26
拠出の危機をのりこえた「カレーの市民」像@大原美術館 ― 2011/09/26
広島でも倉敷でも時間は限られていました。大原美術館に入場できたのは、入場の締切時間である4時30分。30分間の駆け足の見学には悔いが残りました。
大原美術館の入り口をロダンの二つの彫刻(「説教する聖ヨハネ」と 「カレーの市民―ジャン=デール」)が飾ってあります。戦争とは無縁でなかった像---大原美術館そのものの説明を引用させてもらいました。
余談ですが、10代だった私がロダン展に行って、最も興味を引かれたのが「カレーの市民」でした。「カレー」の意味も最初はわからず、集団像の写真を買って部屋に飾りました。なにかにひたすら耐える大人達の姿は高貴であるとは思っていました。
大原美術館の入り口をロダンの二つの彫刻(「説教する聖ヨハネ」と 「カレーの市民―ジャン=デール」)が飾ってあります。戦争とは無縁でなかった像---大原美術館そのものの説明を引用させてもらいました。
「説教する聖ヨハネ」「カレーの市民」の両作品は、1922(大正12)年、児島虎次郎がロダン美術館で交渉し、鋳造してもらったものです。 1939(昭和14)年、太平洋戦争が勃発。1943(昭和18)年夏、ロダンの銅像2体に金属供出命令が出されました。 当時の館長、武内潔真は、直ちに回収免除の申請を岡山県に提出しましたが、免除される見通しは暗いものでした。たしかに、奇跡という気がします。岡山県がどういう過程をへてそう決断したのか知りたいと思いました。
日本は、長引く戦争によって多くの労働力が軍や軍需産業に従事し、物資の不足から生活必需品さえ入手困難な状況に陥っていました。 少ない物資は軍需優先。さらに兵器製造のための金属を集めるため、金属類回収令が出されたのです。
美術品、文化的遺産といえども例外はなく、すでにお寺の仏具や釣鐘などが供出されており、 さらには仏像、銅像、鉄びん、文鎮、学生服の金ボタンまで供出しなくてはならないほどでした。
その年の秋、岡山県物資課職員、審議会委員による視察が行われました。 職員、委員の何人かにも供出を惜しむ声があったそうです。 審議会では、その他の供出物件ともあわせた報告書を県に提出しました。
「供出の必要なし」
岡山県が出した決定でした。 岡山県下で約170体の銅像が供出されることとなり、残されたのは大原美術館のロダン2体を含め、7体のみでした。
日本の文化財であってもこの命令が免除されることは稀であった上に、ロダン作品は敵側の芸術作品。 この決定はまさに奇跡的とも言えるのではないでしょうか。
余談ですが、10代だった私がロダン展に行って、最も興味を引かれたのが「カレーの市民」でした。「カレー」の意味も最初はわからず、集団像の写真を買って部屋に飾りました。なにかにひたすら耐える大人達の姿は高貴であるとは思っていました。
「六甲ミーツ・アート」にて ― 2010/09/30
「若冲ワンダーランド」展のお土産 ― 2009/11/08
「こども歌舞伎」ポスター ― 2009/10/25
足下のアート ― 2009/07/27
岡本太郎 『青春ピカソ』 ― 2009/07/10
岡本太郎は、岡本一平と岡本かの子の
子として生まれました。
それだけでも、尋常のことではありません。
私が岡本太郎を知った1970年ごろには、
考えもしなかったのですけれど、
やぱり、プレッシャーであったことが
よくわかるし、それを乗り越えるのは
大きな課題だったのですね。
そのことを、つまり生きる道を見出す
プロセスを、「ピカソ発見」で読むことができました。
これだけでも興味ぶかったのですが、
全編、ピカソづくし。
「ピカソへの挑戦」
「ピカソ芸術の本質」
「ピカソの作品」
「青春ピカソ」
「ピカソとの対話」
ピカソの存在がいかに大きく、
それを乗り越えることを自分に課した
岡本太郎の意欲と偉大さ、情熱が
よくわかる本です。
1953年の作品!!
子として生まれました。
それだけでも、尋常のことではありません。
私が岡本太郎を知った1970年ごろには、
考えもしなかったのですけれど、
やぱり、プレッシャーであったことが
よくわかるし、それを乗り越えるのは
大きな課題だったのですね。
そのことを、つまり生きる道を見出す
プロセスを、「ピカソ発見」で読むことができました。
これだけでも興味ぶかったのですが、
全編、ピカソづくし。
「ピカソへの挑戦」
「ピカソ芸術の本質」
「ピカソの作品」
「青春ピカソ」
「ピカソとの対話」
ピカソの存在がいかに大きく、
それを乗り越えることを自分に課した
岡本太郎の意欲と偉大さ、情熱が
よくわかる本です。
1953年の作品!!
グザヴィエ・ジラール『マティス - 色彩の交響楽』 ― 2009/06/23
マティス。
とても楽天的で鮮やかな作品を残した作家。
だから、成功に包まれた華麗な人生。
陽気で、あっけからんとした人柄
そんなイメージをもっていました。
この本は、マティスがどのような道筋をへて、
マティスになっていくのかが、
わかって興味は尽きません。
印象に残った文章はつぎのもの。
人間観が豊かになった気がしませんか?
複製を一枚張っておきたい気がします。
『夢』(1940)なんかがいいのですが。
とても楽天的で鮮やかな作品を残した作家。
だから、成功に包まれた華麗な人生。
陽気で、あっけからんとした人柄
そんなイメージをもっていました。
この本は、マティスがどのような道筋をへて、
マティスになっていくのかが、
わかって興味は尽きません。
印象に残った文章はつぎのもの。
(マティスの)生涯を辿ってみると、いわゆる「革命家」というにはおよそそぐわない冷静で落ち着いた人間像が浮かび上がって来る。その作品においては、きわめて大胆な、時に激越なまでの試みをも辞さないマティスだが、その人柄は、既成の体制に激しく抵抗して破壊と異議申し立てに熱狂する革命家、例えばクールベやヴラマンクなどとはおよそ違っている。彼は革命家であったにしても、沈着冷静な醒めた革命家であり、日常生活においては何よりも秩序を重んじる健全な常識家であった。
人間観が豊かになった気がしませんか?
複製を一枚張っておきたい気がします。
『夢』(1940)なんかがいいのですが。
葛飾北斎展@滋賀県立近代美術館 ― 2008/09/23
「モディリアーニ展2008」からのお土産 ― 2008/09/16
大阪中ノ島の国立国際美術館で開かれていた
「モディリアーニ展2008」は、9月15日に終わった。
私は残念ながら、見に行くことはできなかったけれど、
K君が最終日に見に行くと言うので、お土産に本を
買ってくれるように頼んでおいた。
夜、自宅に戻ると、机の上にこれが置いてあった。
「どの画家が好きですか」って聞かれても、
たくさんの画家を知っているわけではないので、
どうなんだろうと思いながら答えている。
「シャガール・・・そしてモディリアーニ」
ともに、ユダヤ系の画家であるのを後で知る。
しかも、帝政ロシアの地とも無縁ではない。
シャガールは夢にも出そうな鮮やかな赤と青が、
モディリアーニは暖かい色とシンプルが造形が好き。
「モディリアーニ展2008」は、9月15日に終わった。
私は残念ながら、見に行くことはできなかったけれど、
K君が最終日に見に行くと言うので、お土産に本を
買ってくれるように頼んでおいた。
夜、自宅に戻ると、机の上にこれが置いてあった。
「どの画家が好きですか」って聞かれても、
たくさんの画家を知っているわけではないので、
どうなんだろうと思いながら答えている。
「シャガール・・・そしてモディリアーニ」
ともに、ユダヤ系の画家であるのを後で知る。
しかも、帝政ロシアの地とも無縁ではない。
シャガールは夢にも出そうな鮮やかな赤と青が、
モディリアーニは暖かい色とシンプルが造形が好き。
西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。
戦争にかかわる碑
■ 忠魂碑・慰霊碑
○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など
○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)
○ 大津市南部の忠魂碑
民間墓地の戦没者○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。
□ 滋賀県の西南戦争の戦没者
□ 高島市(高島郡)の戦没者
■ 西南戦争(西南之役) 1877年
● 戦病死者名簿
*高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)
■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年
,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)
『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。
■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年
● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)
○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿
○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
□ Aブロック 埋葬者名簿
陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある
□ Bブロック 埋葬者名簿
日清戦争期に戦病死した下士官の墓地
□ Cブロック 埋葬者名簿
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Dブロック 埋葬者名簿(作成中)
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Eブロック 埋葬者名簿
■ 大津市作成の名簿順
■ あいうえお順
日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。
□ Fブロック 埋葬者名簿
明治8年から11年までに病死した下士官と
兵卒の墓碑が37基
□ Kブロック 埋葬者名簿
「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
すべて兵卒の墓碑。
□ Lブロック 埋葬者名簿
「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
合計98基。すべて兵卒の墓碑。
□ Mブロック 埋葬者名簿(作成中)
陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)
□ 西南戦争の戦死者
□ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿
□『大津市志』
□ 滋賀郡膳所町
□ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)
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