お元気ですか?
大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。
なにをテーマに書こうかと迷いながら
2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。
2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、
気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。
戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。
通信兵だった父や防空監視隊にいた母から
聞かされた話は、
戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない
という思いを強くさせるものでした。
ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、
国家の理屈で議論が進みます。
同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。
しかし、戦争は、最悪の暴力です。
私は草の根の痛み、
どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で
書いていきたいと思っています。
あまり楽しめないブログかも知れませんが、
お気軽に感想やコメントをお寄せください。
川が流れる街 ― 2009/10/26
「大津宿本陣跡」の立て札に ― 2009/10/20
京都から逢坂山を越えて、大津に入ります。逢坂の関所跡を越えれば、一気に下り坂。その途中にあるのが「明治天皇聖跡碑」。
立て札を見つけました。それは碑の説明文ではありませんでした。 「大津なかまち元気回復委員会」が作成したもので、中身は次の通りでした。
甲賀市にしばらく滞在して、5年前の合併のあと、、旧町のよさが失われ、その痛みとともに、「自分たちの町とはなにであったのか」「この後、どういう方向にすすめばいいのか」という模索が進行中だと思いました。
合併して消滅した甲賀町の大幹部の方が「合併はまちがいだった」と公式の席で発言されたとききました。「甲賀町の将来を考えて”創健”のまちづくりをしようと「鹿深の森」に図書館、花風香の湯をつくり、そこに庁舎を移転しようとした。ところが、合併のため庁舎は建たず、花風香の湯は、地元になんの相談もなく休業。無念でならない」と。
まったく歴史も風土も産業もちがう5つの町の合併。それも自発的なものではなくて、財政が成り立たなくなるという脅迫と上からの主導のもとに強行された「平成の大合併」。そのツケは、どうなるのか。合併した以上は、そのよさをどう伸ばしていくのか。
合併すれば、当座は旧町のままにすすむけれど、たちまち平準化がはじまります。それも、いいほうに合わせるのではなく、悪い方に合わせる平準化。「だまされた」という感情が生まれるのも当然です。
そのようななかで、旧町のよさを取り戻した結果、全市民に利益が及ぶ例があると知り、興味を持ちました。
土山町には「3人目からの保育料は無料にする」という子育て支援策がありました。それが合併で一旦は廃止になりました。党派をこえて旧町の議員さんが共同し、とりもどした結果、全市に広がったというのです。これは、合併のよさを生かしたともいえますね。
現在進行形の甲賀市の合併のプロセス。それを肌で感じたあと、自分のまち大津市にもどってきました。「大津宿本陣跡」の立て札を見て、過去から元気をもらうことが大切と同時に、全市を一体のものとして考える必要がないのではないかと思うようになりました。
多様な地域が合併して現在に至っているのです。それは過去にさかのぼるほど、多様なわけです。それを生かした多様なまちづくりがいいのではないかと思うのです。
旧ソ連のピアニストのスビャトスラフ・リヒテルは1960年に「鉄のカーテン」を越えて、アメリカに初の演奏旅行。秘密警察に付きまとわれての旅で、アメリカの音楽仲間から亡命の誘いをうけましたが、拒否しました。ほんとうのところはわかりませんが、「なんでもスタンダードな」アメリカに魅力を感じなかったのです。
甲賀市を歩いてみて、国道を中心にチェーン店が立ち並び、大型店が人を集める水口の中心街よりも、さびれかけた町並みとお城、甲賀町に広がる田畑、タヌキがいっぱいの信楽、茶畑と街道の土山がいとおしく感じたのです。
国の経費節減のために合併を強要された地方の苦しみと疲弊を甲賀市でも見てきました。住民を救う道は、国家財政のあり方の転換、大型公共事業と軍事費を削ることに尽きます。消費税の大増税でお茶を濁せば、国民から失望と怨嗟をかうことになります。決断のときは迫っており、それまでは右往左往の政権運営にならざるをえないと私は思います。
立て札を見つけました。それは碑の説明文ではありませんでした。 「大津なかまち元気回復委員会」が作成したもので、中身は次の通りでした。
本陣とは,大名や公家などが宿泊するために設けられた施設で、大津宿では大坂屋嘉右衛門(大塚本陣)、肥前屋九左衛門の2軒の本陣と、播磨屋市右衛門の脇本陣1軒が八丁筋におかれていました。八丁筋には、旅籠などが多数軒を連ね、旅行く人々を迎えていました。大津は、北国海道と東海道の合流地点であり、また湖上交通の拠点であったことから、繁栄を極めました。しかし、現在は本陣に関する遺構などは残っておらず、大塚本陣のあったこの場所に、明治天皇の休憩所として利用されたことを示す「明治天皇聖跡碑」が建つのみです。過去を大切にせず、目先を追うことは「元気」と誇りのの源をなくすことになるのですね。
甲賀市にしばらく滞在して、5年前の合併のあと、、旧町のよさが失われ、その痛みとともに、「自分たちの町とはなにであったのか」「この後、どういう方向にすすめばいいのか」という模索が進行中だと思いました。
合併して消滅した甲賀町の大幹部の方が「合併はまちがいだった」と公式の席で発言されたとききました。「甲賀町の将来を考えて”創健”のまちづくりをしようと「鹿深の森」に図書館、花風香の湯をつくり、そこに庁舎を移転しようとした。ところが、合併のため庁舎は建たず、花風香の湯は、地元になんの相談もなく休業。無念でならない」と。
まったく歴史も風土も産業もちがう5つの町の合併。それも自発的なものではなくて、財政が成り立たなくなるという脅迫と上からの主導のもとに強行された「平成の大合併」。そのツケは、どうなるのか。合併した以上は、そのよさをどう伸ばしていくのか。
合併すれば、当座は旧町のままにすすむけれど、たちまち平準化がはじまります。それも、いいほうに合わせるのではなく、悪い方に合わせる平準化。「だまされた」という感情が生まれるのも当然です。
そのようななかで、旧町のよさを取り戻した結果、全市民に利益が及ぶ例があると知り、興味を持ちました。
土山町には「3人目からの保育料は無料にする」という子育て支援策がありました。それが合併で一旦は廃止になりました。党派をこえて旧町の議員さんが共同し、とりもどした結果、全市に広がったというのです。これは、合併のよさを生かしたともいえますね。
現在進行形の甲賀市の合併のプロセス。それを肌で感じたあと、自分のまち大津市にもどってきました。「大津宿本陣跡」の立て札を見て、過去から元気をもらうことが大切と同時に、全市を一体のものとして考える必要がないのではないかと思うようになりました。
多様な地域が合併して現在に至っているのです。それは過去にさかのぼるほど、多様なわけです。それを生かした多様なまちづくりがいいのではないかと思うのです。
旧ソ連のピアニストのスビャトスラフ・リヒテルは1960年に「鉄のカーテン」を越えて、アメリカに初の演奏旅行。秘密警察に付きまとわれての旅で、アメリカの音楽仲間から亡命の誘いをうけましたが、拒否しました。ほんとうのところはわかりませんが、「なんでもスタンダードな」アメリカに魅力を感じなかったのです。
甲賀市を歩いてみて、国道を中心にチェーン店が立ち並び、大型店が人を集める水口の中心街よりも、さびれかけた町並みとお城、甲賀町に広がる田畑、タヌキがいっぱいの信楽、茶畑と街道の土山がいとおしく感じたのです。
国の経費節減のために合併を強要された地方の苦しみと疲弊を甲賀市でも見てきました。住民を救う道は、国家財政のあり方の転換、大型公共事業と軍事費を削ることに尽きます。消費税の大増税でお茶を濁せば、国民から失望と怨嗟をかうことになります。決断のときは迫っており、それまでは右往左往の政権運営にならざるをえないと私は思います。
「おすい」のフタは「まちの顔」 ~甲賀はやっぱりこれ~ ― 2009/10/15
甲賀町の農村風景 ― 2009/09/28
甲賀市の甲賀町の道路は予想以上に整備されています。田が広がる農村風景の中を走るのは、(農家の方にはご迷惑でしょうけれど)、気持ちのよいものです。
視野が広がり、山の緑や田の黄色が心をなごませてくれます。
車を降りて写真を撮りました。路上に止めても、めったに他の車に出会いません。
しかし、サル、イノシシ、シカ、キジ、カワウなどの被害がひどい状態とききました。「最近では、アライグマも出てくるらしい。甲賀じゃなくて、甲南あたりに」という話でした。
そういえば、大津市の神社で出会った方は、アライグマの調査をしていました。う~ん、なんという神社でしたっけ。
そうそう、毛知比(もちひ)神社でした。
視野が広がり、山の緑や田の黄色が心をなごませてくれます。
車を降りて写真を撮りました。路上に止めても、めったに他の車に出会いません。
しかし、サル、イノシシ、シカ、キジ、カワウなどの被害がひどい状態とききました。「最近では、アライグマも出てくるらしい。甲賀じゃなくて、甲南あたりに」という話でした。
そういえば、大津市の神社で出会った方は、アライグマの調査をしていました。う~ん、なんという神社でしたっけ。
そうそう、毛知比(もちひ)神社でした。
「おすい」のフタは「まちの顔」 ~土山町の場合~ ― 2009/09/27
「あなたのまちは、どんなまち?」に答えのあるまちづくりが必要だと思います ― 2009/09/27
私は大津市に住んでいます。高島郡の5町1村の合併が強行されるのも見てきました。志賀町の大津市への合併もそうです。
平成の大合併のあと、夢を抱いたり、賛成した人も「こんなはずではなかった」とか、「合併してなんにもいいことはない」という感想が出されるのが普通です。合併前の町村が、まちの伝統と自然環境を生かして、独自の施策を進めていたのに、それが中断されて無残な姿をさらす場合が目に付きます。
目に見える残骸は、旧庁舎です。その他、目に見えませんが、高齢者に対する厚い施策とか、過疎地対策とかは、真っ先にきり縮められていきました。
9月から10月は、甲賀市に毎日通うことになりしたが、ここでもそうですね。甲賀町の場合で目に付くのは、『花風香(かふか)の湯』がある『鹿深(かふか)夢の森』。
中心市街地から離れているので、交通の便などに問題があるのではないかと思いましたが、ここに『花風香の湯』、町役場、図書館などが集約されて、まちの中核をつくる予定だったそうです。それらを束ねる中心概念が「創健」(?!)でしょうか。要するに、健康づくりをまちづくりの中心テーマにしようということですね。
合併によって、町役場の建設は中止、『花風香の湯』は積み立てた改修費も合併の際に消えて、閉鎖に追い込まれました。町役場は、「創健館」と名前を変えて建物は規模を縮小して完成したみたいですが、いかにも中途半端で、まちの中核とはなりえません。
町役場が建設されず、お風呂も閉業。残るは図書館。この広大な敷地が、うらぶれて見えてきます。敷地内で雑草が刈られないで放置されているのは、先を暗示する気がします。
旧町時代の構想がそのまま成功したかどうかは、わかりません。しかし、何億か知りませんが、税金をつぎ込んだのですから、朽ちるに任せることなく、生かすことを考えるべきですね。
平成の大合併のあと、夢を抱いたり、賛成した人も「こんなはずではなかった」とか、「合併してなんにもいいことはない」という感想が出されるのが普通です。合併前の町村が、まちの伝統と自然環境を生かして、独自の施策を進めていたのに、それが中断されて無残な姿をさらす場合が目に付きます。
目に見える残骸は、旧庁舎です。その他、目に見えませんが、高齢者に対する厚い施策とか、過疎地対策とかは、真っ先にきり縮められていきました。
9月から10月は、甲賀市に毎日通うことになりしたが、ここでもそうですね。甲賀町の場合で目に付くのは、『花風香(かふか)の湯』がある『鹿深(かふか)夢の森』。
中心市街地から離れているので、交通の便などに問題があるのではないかと思いましたが、ここに『花風香の湯』、町役場、図書館などが集約されて、まちの中核をつくる予定だったそうです。それらを束ねる中心概念が「創健」(?!)でしょうか。要するに、健康づくりをまちづくりの中心テーマにしようということですね。
合併によって、町役場の建設は中止、『花風香の湯』は積み立てた改修費も合併の際に消えて、閉鎖に追い込まれました。町役場は、「創健館」と名前を変えて建物は規模を縮小して完成したみたいですが、いかにも中途半端で、まちの中核とはなりえません。
町役場が建設されず、お風呂も閉業。残るは図書館。この広大な敷地が、うらぶれて見えてきます。敷地内で雑草が刈られないで放置されているのは、先を暗示する気がします。
旧町時代の構想がそのまま成功したかどうかは、わかりません。しかし、何億か知りませんが、税金をつぎ込んだのですから、朽ちるに任せることなく、生かすことを考えるべきですね。
『花風香(カフカ)の湯』(旧甲賀町)がなくなった!? ― 2009/09/27
カミさんが以前何度か言っていました。『「かふかのゆ」に行って来た』と。この「かふか」は、カフカだと思っていました。つまり、『城』とか『変身』を書いた作家のカフカです。私自身は、もくもくファームの帰りに家族でこのおフロに入ったことはあるのですが、どういう字を書くのか全然、気にもしていませんでした。
久しぶりに立ち寄って発見したのは、この張り紙。
驚いたことに、今年の春に閉業されていたのです。残念!
閉鎖の理由となっている「近隣において本格的な温泉施設の整備も進み」とは、なにを指すのでしょうか。それにしても、この広大な一角は、全体がシステムとして機能するはずだった土地。一つが閉鎖に追い込まれると、全体構想はどうなるのかと心配になります。
そして、旧甲賀町時代に公立でつくられたお風呂です。なくなることに旧町民は、どういう気持ちでいるのでしょうか。
久しぶりに立ち寄って発見したのは、この張り紙。
驚いたことに、今年の春に閉業されていたのです。残念!
お知らせせっかく甲賀市に出張し、仕事をしているのですから、もう一度ぐらいは入りたいと思っていました。市民は600円、市民以外は1300円だったと思います。
『花風香の湯』は、平成二十一年三月三十一日をもちまして閉業とさせていただきました。
平成八年に心も体もリフレッシュできる天然ハーブのお風呂としてオープンし、創業から十三年もの永きに渡り、多くの方にご利用いただきましたが、近隣において本格的な温泉施設の整備も進み、公立施設としての役割をこの度終えさせていただきます。
これまで『花風香の湯』をご利用いただき誠にありがとうございました。
甲賀市役所都市計画課
閉鎖の理由となっている「近隣において本格的な温泉施設の整備も進み」とは、なにを指すのでしょうか。それにしても、この広大な一角は、全体がシステムとして機能するはずだった土地。一つが閉鎖に追い込まれると、全体構想はどうなるのかと心配になります。
そして、旧甲賀町時代に公立でつくられたお風呂です。なくなることに旧町民は、どういう気持ちでいるのでしょうか。
「あいの土山宿場まつり」にて ― 2009/09/22
甲賀市の土山に、仕事で来ていますので、「あいの土山宿場まつり」があることは知っていました。お昼時に、おなかを満たすものがあるかと思い出かけました。地場産の食材がずらりと並んで、農家の方たちが手作りする料理を楽しめました。野菜たっぷりのお汁、おイモのコロッケとバター焼き。お餅。
料理している方に、写真のモデルにどうですかと聞くと、照れて大笑い。シャッターチャンスには、しっかり下を向いていました。
運営している方から、「どこから来ましたか?」「どうして、この祭りを知りましたか?」などと聞かれました。「仕事で」なんて、野暮な返事はしませんでした。「知り合いから、派手ではないけれど、楽しいお祭りなんでと誘われて」とかなんとか答えていました。 実際、市職員も要員で参加し、まちを活気づかせようという思いが伝わる気がしました。もっとにぎわってほしいし、手作りと近隣のよさがわかる人が増えて欲しい。合併して、いいことがなかったとみんな思っているんですから。
料理している方に、写真のモデルにどうですかと聞くと、照れて大笑い。シャッターチャンスには、しっかり下を向いていました。
運営している方から、「どこから来ましたか?」「どうして、この祭りを知りましたか?」などと聞かれました。「仕事で」なんて、野暮な返事はしませんでした。「知り合いから、派手ではないけれど、楽しいお祭りなんでと誘われて」とかなんとか答えていました。 実際、市職員も要員で参加し、まちを活気づかせようという思いが伝わる気がしました。もっとにぎわってほしいし、手作りと近隣のよさがわかる人が増えて欲しい。合併して、いいことがなかったとみんな思っているんですから。
「昭和十九年九月二十四日 ソロモン島ニテ戦死 四十三才」 ― 2009/07/07
上の陸軍兵長の墓碑も、水車谷にありました。
戦死した場所は、「ソロモン島」と刻まれています。
ソロモン島・・・ソロモン諸島のことでしょうね。
・ブカ島
・ブーゲンビル島
・ショートランド島
・チョイセル島
・ベララベラ島
・コロンバンガラ島
・レンドバ島
・ニュージョージア島
・サンタイザベル島
・フロリダ島
・サボ島
・マライタ島
・ツラギ島
・ガダルカナル島
・サンクリストバル島
・レンネル島
などを含んでいます。
戦死されたのは、
「昭和十九年九月二十四日」
上陸する米軍との戦いのはじめの段階で
戦死されたのです。
年齢を見て驚きました。四十三才!
奥さんも、子どももいだでしょうに・・・。
無念の気持ちを抱いて、逝かれたことが、
想像できます。
戦死した場所は、「ソロモン島」と刻まれています。
ソロモン島・・・ソロモン諸島のことでしょうね。
・ブカ島
・ブーゲンビル島
・ショートランド島
・チョイセル島
・ベララベラ島
・コロンバンガラ島
・レンドバ島
・ニュージョージア島
・サンタイザベル島
・フロリダ島
・サボ島
・マライタ島
・ツラギ島
・ガダルカナル島
・サンクリストバル島
・レンネル島
などを含んでいます。
戦死されたのは、
「昭和十九年九月二十四日」
上陸する米軍との戦いのはじめの段階で
戦死されたのです。
年齢を見て驚きました。四十三才!
奥さんも、子どももいだでしょうに・・・。
無念の気持ちを抱いて、逝かれたことが、
想像できます。
龍大町屋キャンパス : そこは懐かしい「我が家」でした ― 2009/07/03
区画整理で、中央部に広い道路ができた。
広い道路の両側には、3階以上のビルや家屋。
その隙間に、「龍谷大学町屋キャンパス 龍龍(ロンロン)」がある。
奥まりすぎて、正面にこないと存在がわからないほど。
通り過ぎて、また戻ってたずねることにした。
「今日は学生がいません。町屋喫茶もお休み。
とりあえず、遠慮なく上がってください」
といわれて、自由に見て回る。
奥行きが深い・・・・でも、なんか感じが・・・。
そうです、私が10代をすごした実家と同じ造り。
床の間に縁側があり、庭がある。
庭を母屋と塀、便所と離れが囲む。
手水の石まで出てみて気がついた。
まったく知った風景なのだ。
台所に通じる木戸、
便所の木戸、そして離れから
見上げた二階の形。
見学者の気分はなくなり、
ただただ懐かしい生家に
立っている気がした。
広い道路の両側には、3階以上のビルや家屋。
その隙間に、「龍谷大学町屋キャンパス 龍龍(ロンロン)」がある。
奥まりすぎて、正面にこないと存在がわからないほど。
通り過ぎて、また戻ってたずねることにした。
「今日は学生がいません。町屋喫茶もお休み。
とりあえず、遠慮なく上がってください」
といわれて、自由に見て回る。
奥行きが深い・・・・でも、なんか感じが・・・。
そうです、私が10代をすごした実家と同じ造り。
床の間に縁側があり、庭がある。
庭を母屋と塀、便所と離れが囲む。
手水の石まで出てみて気がついた。
まったく知った風景なのだ。
台所に通じる木戸、
便所の木戸、そして離れから
見上げた二階の形。
見学者の気分はなくなり、
ただただ懐かしい生家に
立っている気がした。
西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。
戦争にかかわる碑
■ 忠魂碑・慰霊碑
○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など
○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)
○ 大津市南部の忠魂碑
民間墓地の戦没者○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。
□ 滋賀県の西南戦争の戦没者
□ 高島市(高島郡)の戦没者
■ 西南戦争(西南之役) 1877年
● 戦病死者名簿
*高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)
■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年
,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)
『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。
■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年
● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)
○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿
○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
□ Aブロック 埋葬者名簿
陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある
□ Bブロック 埋葬者名簿
日清戦争期に戦病死した下士官の墓地
□ Cブロック 埋葬者名簿
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Dブロック 埋葬者名簿(作成中)
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Eブロック 埋葬者名簿
■ 大津市作成の名簿順
■ あいうえお順
日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。
□ Fブロック 埋葬者名簿
明治8年から11年までに病死した下士官と
兵卒の墓碑が37基
□ Kブロック 埋葬者名簿
「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
すべて兵卒の墓碑。
□ Lブロック 埋葬者名簿
「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
合計98基。すべて兵卒の墓碑。
□ Mブロック 埋葬者名簿(作成中)
陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)
□ 西南戦争の戦死者
□ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿
□『大津市志』
□ 滋賀郡膳所町
□ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)
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