お元気ですか?
大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。
なにをテーマに書こうかと迷いながら
2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。
2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、
気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。
戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。
通信兵だった父や防空監視隊にいた母から
聞かされた話は、
戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない
という思いを強くさせるものでした。
ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、
国家の理屈で議論が進みます。
同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。
しかし、戦争は、最悪の暴力です。
私は草の根の痛み、
どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で
書いていきたいと思っています。
あまり楽しめないブログかも知れませんが、
お気軽に感想やコメントをお寄せください。
ワンコを車で引き取りにいく ― 2010/08/24
お葬式のあとに、49日の法要が待っています。
その少し前に、ワンコをカミさんの里に
一時的に引き取ることにしました。
我が家は大津市。
ワンコは大分市生まれでそこにいます。
カミさんの里は竹田市です。
息子のK君とH君を先発させて、
大分市から竹田市の実家に
一時的にひきとり、そこから
また大津市に運ぶことになったのです。
写真は車のなかで、H君に抱かれているワンコ。
名前は、Qoo=クーです。
Qooは、こうしてまず大分市から
竹田市へ運ばれていきました。
ちょうど生後二ヶ月ですね。
耳がピンと立っています。
その少し前に、ワンコをカミさんの里に
一時的に引き取ることにしました。
我が家は大津市。
ワンコは大分市生まれでそこにいます。
カミさんの里は竹田市です。
息子のK君とH君を先発させて、
大分市から竹田市の実家に
一時的にひきとり、そこから
また大津市に運ぶことになったのです。
写真は車のなかで、H君に抱かれているワンコ。
名前は、Qoo=クーです。
Qooは、こうしてまず大分市から
竹田市へ運ばれていきました。
ちょうど生後二ヶ月ですね。
耳がピンと立っています。
初めてワンコに会いに行く ― 2010/08/15
ワンコを飼うのを決めたのは、私。
7月の中頃、お葬式の日でした。
ブリーダーさんに電話をして、
お願いしました。
実は、私の家は大津市。
ワンコは大分市にいます。
姪の紹介で決めたからです。
お盆に家族がカミさんの里
大分に戻ります。
そこで、ワンコと初対面することになりました。
私は姉妹が二匹いることを知っていました。
家族には伝えていなかったので、
「選んでください」といわれて大困惑。
最初の写真のゴマシバを選びました。
ゴマちゃんは、アカシバの陰でおびえて
なかなか出てこなかったそうです。
なんか仏頂面ですね。
7月の中頃、お葬式の日でした。
ブリーダーさんに電話をして、
お願いしました。
実は、私の家は大津市。
ワンコは大分市にいます。
姪の紹介で決めたからです。
お盆に家族がカミさんの里
大分に戻ります。
そこで、ワンコと初対面することになりました。
私は姉妹が二匹いることを知っていました。
家族には伝えていなかったので、
「選んでください」といわれて大困惑。
最初の写真のゴマシバを選びました。
ゴマちゃんは、アカシバの陰でおびえて
なかなか出てこなかったそうです。
なんか仏頂面ですね。
カミさんの誕生日 ― 2010/08/04
カミさんの誕生日。
たまたま息子のK君と大阪まで出かける用事の日。
帰宅途中のケーキ屋さんでケーキを買いました。
名前をしっかり入れてもらい、ローソクの数は控えめに・・・。
たまたま息子のK君と大阪まで出かける用事の日。
帰宅途中のケーキ屋さんでケーキを買いました。
名前をしっかり入れてもらい、ローソクの数は控えめに・・・。
ワンコ(Qoo)の初写真 ― 2010/07/30
義父の葬儀が終わった日、ワンコを飼うことを決めました。
日本犬がいいと思いましたから、柴犬。
突然のことに、家族は呆然。
ブリーダーの方に
問い合わせると、
6月23日生まれのメスが
2日匹いるそうです。
しばらくして写真が届きました。
「かわいい」という声があがります。
これが「Qoo」(クー)の最初の写真です。
日本犬がいいと思いましたから、柴犬。
突然のことに、家族は呆然。
ブリーダーの方に
問い合わせると、
6月23日生まれのメスが
2日匹いるそうです。
しばらくして写真が届きました。
「かわいい」という声があがります。
これが「Qoo」(クー)の最初の写真です。
義父の死 ― 2010/07/11
義父が亡くなりました。
風邪がきっかけで、薬があわなくて、
肺機能そのものを回復不能に傷つけられた結果でした。
やりたい仕事の途上だっただけに
無念の死だと思いました。
風邪がきっかけで、薬があわなくて、
肺機能そのものを回復不能に傷つけられた結果でした。
やりたい仕事の途上だっただけに
無念の死だと思いました。
水郷めぐり ― 2010/05/05
5月5日は「子どもの日」
夫婦で、この日を大切にし、
二人の子どもを連れて、
いろんな所へ出かけてきました。
しかし、今年はふと、
「もう最後かな」という気がしたのです。
巣立ったあとに、残るのは夫婦。
「お父さん」「お母さん」と
呼び合うことも変になるはず。
「子どもの日」は祝う相手のいない
空疎な一日になるのか。
それとも、自分たちの休日として、
あらためて大切にできるのでしょうか。
暖かい5月の日差しの中に
その答えを求めながら、
水郷を1時間半揺られてきました。
3日と4日は休日のはずでした。
しかし、私は仕事で家を空けました。
その間に体調を壊し、
せっかくの家族の休日も、
少しつらい一日と
なってしまいました。
夫婦で、この日を大切にし、
二人の子どもを連れて、
いろんな所へ出かけてきました。
しかし、今年はふと、
「もう最後かな」という気がしたのです。
巣立ったあとに、残るのは夫婦。
「お父さん」「お母さん」と
呼び合うことも変になるはず。
「子どもの日」は祝う相手のいない
空疎な一日になるのか。
それとも、自分たちの休日として、
あらためて大切にできるのでしょうか。
暖かい5月の日差しの中に
その答えを求めながら、
水郷を1時間半揺られてきました。
3日と4日は休日のはずでした。
しかし、私は仕事で家を空けました。
その間に体調を壊し、
せっかくの家族の休日も、
少しつらい一日と
なってしまいました。
クリスマス・ケーキ 2009 ― 2009/12/24
家族4人のクリスマス・イブ。
子ども達とカミさんに服のプレゼント。
ケーキは少し小さめにしました。
子ども達とカミさんに服のプレゼント。
ケーキは少し小さめにしました。
汚いと思われても記念撮影 ― 2009/11/01
祖母はメンソレータムを目に塗った ― 2009/10/29
「ヴォーリーズ展 in 近江八幡」の会場は、まちそのもの。ウォークラリーのように番号順に、関係する施設を回る。一つの会場の中を見て回るのではない。
生きたまちを歩くことはとても楽しい。
「近江兄弟社 メンターム資料館」にも入ってきた。
「メンターム資料館」と書かれているけれど、同じ近江兄弟社の元の製品名は「メンソレータム」。これは、発明者A・A・ハイド氏が、ヴォーリスに日本での販売権を譲渡して、伝道活動を支援したことによる。
その「メンソレータム」は、「オロナイン軟膏」と並んで、家族代々の常備薬だった。子ども時代は怪我が絶えないので、いつも赤チンと同じくらいお世話になった。
私の母方の祖母は、眠る前に、メンソレータムを目にすり込む。スースーして寝るどころではないと私は思うのだけれど、祖母はいつも楽しそうそうに手にとっていた。孫たちが、あきれた顔をすると、それが面白いのか、いつも「クック」と笑いながら、つけていた。もともと、小柄だった祖母だけれど、90歳をすぎて寝たきりとなり、そして亡くなった。
明治生まれで、とても賢い人だった。尋常小学校のとき抜群の成績のために、進学するように勧められたけれど、親の反対でいけなかったことを残念がっていたと妹に聞いた。ほんとにチャーミングで気丈な祖母。 泣き言なんか聞いたことはなかった。
ただ、その娘、つまり私の母は、祖母より先に病気で逝くことになった。入院を迫られた母は、しゃにむに故郷に帰りたがった。重大な病気とはまだ知らされていなかった家族は、異常な行動に思えて、それに反対し、「とりあえず入院して検査して」と説得した。興奮していた母もやがて落ち着き、入院した。だが、二度と、故郷に帰ることはなかったのだ。
母は祖母が見舞うことを避ける風もあった。それもそうだろう。変わり行く娘の姿を見て、祖母は悟ったと思う。
母が亡くなり、葬儀の日。いよいよ棺とお別れのとき、あれほど気丈な祖母が棺にすがりついて、きっと幼いときから呼んでいるように、その名前を呼んだ。私は逆縁の不幸を目に刻むことになった。
メンターム、いやメンソレータムを見ると、私は、いまでも、笑いながら目にすり込む祖母の姿が浮かぶ。
生きたまちを歩くことはとても楽しい。
「近江兄弟社 メンターム資料館」にも入ってきた。
「メンターム資料館」と書かれているけれど、同じ近江兄弟社の元の製品名は「メンソレータム」。これは、発明者A・A・ハイド氏が、ヴォーリスに日本での販売権を譲渡して、伝道活動を支援したことによる。
その「メンソレータム」は、「オロナイン軟膏」と並んで、家族代々の常備薬だった。子ども時代は怪我が絶えないので、いつも赤チンと同じくらいお世話になった。
私の母方の祖母は、眠る前に、メンソレータムを目にすり込む。スースーして寝るどころではないと私は思うのだけれど、祖母はいつも楽しそうそうに手にとっていた。孫たちが、あきれた顔をすると、それが面白いのか、いつも「クック」と笑いながら、つけていた。もともと、小柄だった祖母だけれど、90歳をすぎて寝たきりとなり、そして亡くなった。
明治生まれで、とても賢い人だった。尋常小学校のとき抜群の成績のために、進学するように勧められたけれど、親の反対でいけなかったことを残念がっていたと妹に聞いた。ほんとにチャーミングで気丈な祖母。 泣き言なんか聞いたことはなかった。
ただ、その娘、つまり私の母は、祖母より先に病気で逝くことになった。入院を迫られた母は、しゃにむに故郷に帰りたがった。重大な病気とはまだ知らされていなかった家族は、異常な行動に思えて、それに反対し、「とりあえず入院して検査して」と説得した。興奮していた母もやがて落ち着き、入院した。だが、二度と、故郷に帰ることはなかったのだ。
母は祖母が見舞うことを避ける風もあった。それもそうだろう。変わり行く娘の姿を見て、祖母は悟ったと思う。
母が亡くなり、葬儀の日。いよいよ棺とお別れのとき、あれほど気丈な祖母が棺にすがりついて、きっと幼いときから呼んでいるように、その名前を呼んだ。私は逆縁の不幸を目に刻むことになった。
メンターム、いやメンソレータムを見ると、私は、いまでも、笑いながら目にすり込む祖母の姿が浮かぶ。
二十歳の誕生日 ― 2009/09/14
西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。
戦争にかかわる碑
■ 忠魂碑・慰霊碑
○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など
○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)
○ 大津市南部の忠魂碑
民間墓地の戦没者○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。
□ 滋賀県の西南戦争の戦没者
□ 高島市(高島郡)の戦没者
■ 西南戦争(西南之役) 1877年
● 戦病死者名簿
*高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)
■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年
,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)
『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。
■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年
● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)
○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿
○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
□ Aブロック 埋葬者名簿
陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある
□ Bブロック 埋葬者名簿
日清戦争期に戦病死した下士官の墓地
□ Cブロック 埋葬者名簿
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Dブロック 埋葬者名簿(作成中)
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Eブロック 埋葬者名簿
■ 大津市作成の名簿順
■ あいうえお順
日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。
□ Fブロック 埋葬者名簿
明治8年から11年までに病死した下士官と
兵卒の墓碑が37基
□ Kブロック 埋葬者名簿
「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
すべて兵卒の墓碑。
□ Lブロック 埋葬者名簿
「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
合計98基。すべて兵卒の墓碑。
□ Mブロック 埋葬者名簿(作成中)
陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)
□ 西南戦争の戦死者
□ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿
□『大津市志』
□ 滋賀郡膳所町
□ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)
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