お元気ですか?

大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。


なにをテーマに書こうかと迷いながら

2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。

2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、

気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。


戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。

通信兵だった父や防空監視隊にいた母から

聞かされた話は、

戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない

という思いを強くさせるものでした。

ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、

国家の理屈で議論が進みます。

同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。

しかし、戦争は、最悪の暴力です。

私は草の根の痛み、

どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で

書いていきたいと思っています。


あまり楽しめないブログかも知れませんが、

お気軽に感想やコメントをお寄せください。


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旧志賀町の中学校給食を残せという訴えに感謝されました2008/01/22

 関東の人には、当たり前の中学校給食ですけれど、関西では実施率が驚くほど低いのです。
 わが大津市は、志賀中学校(旧志賀町)を除いて、実施していません。これが06年の大津市との合併によって、存続が「当分の間」とされています。
せっかくあるものを合併というだけでなくすのですから、住民が怒るのは当たり前です。なんでも旧大津市に合わせると決めたからといいうのがその理由。
納得できるわけがありません。
 私は旧大津人ですが、やっぱり怒っていて、政策の柱にして、市長選挙のなかで訴えました。全国都道府県の実施率をビラにして配布したら(滋賀県は47中43位!)、さっそくいろんな反応がありました。
 旧志賀町の方々は、「旧志賀町のよい施策は残せ」と住民運動でがんばってこられましたが、大津市になり広大になったために、旧志賀町の中学校給食(自校方式で。小学校も自校方式にもどしてほしいというのも要求)を残すという要求が、旧大津市民に理解されず、そのため運動が広がらないのを懸念していたのです。
 市長選挙の結果が出たあと、旧志賀町の中学校給食を残す運動をしてこられた方に出会いました。
 私は「力不足で結果が出せずに申し訳ない」と謝りましたが、逆に感謝されました。
 「これで大津市全体に中学校給食の問題が広がった」というのがその理由。私は、運動のために、役立ったことをうれしく思います。
「感謝は半分、残りは実現してから」といわれました。
 もちろん、そのつもりですから、ご安心を。

「平成の大合併」の弊害:震災における独自の判断や対応を遅らせる2007/07/27

《中越沖地震:備蓄食糧千人分…地震当日、避難所に届けず》という記事が毎日新聞から発信されました。タイトルを見て、住民の苦難に向き合った対応にまず怒りがわきました。そのうえで、記事を読みました。
 どんな不手際には、その理由があり、原因があります。そもそも緊急時には、現場の判断が大事なのです。上からの規則や手続きにしばられたのでは、自治体という名前と趣旨に矛盾します。
 そのことをふまえたうえで、「平成の大合併」がもたらした荒廃を見た気がしました。制度のあり方についても、それを運営する人たちの意識のなかにも。こういう点を指摘したいい報道だと思いました。

***************資料  毎日新聞の記事******************

中越沖地震:備蓄食糧千人分…地震当日、避難所に届けず

 新潟県中越沖地震が起きた今月16日、柏崎市が同市西山町(旧西山町)の倉庫に備蓄していた約1000人分の食糧を、当日は被災者に一切配っていなかったことが26日分かった。このため同町の避難所の約2400人に食べ物が行き渡ったのは、16日午後11時過ぎだった。市西山町事務所は「備蓄食糧があると知らなかった。もし把握していても、本庁の指示がなく配れなかったはず」と説明。備蓄を管理する本庁の担当者は「事務所が独自に対応してもよかった」と反論している。
 市防災・原子力課によると、市は同事務所が管轄する西山町の住民向けに、事務所近くの倉庫に缶入り乾パン約1000食分を保管。しかし同事務所は町内12カ所の避難所に、地震後すぐに届けていなかった。間もなく備蓄に気付き、17日以降に配ったという。
 同町の16日夜の避難者は約2400人。約250人の避難者がいた同町の南部コミュニティセンターに食べ物が届いたのは午後11時ごろで、本庁から事務所経由で送られた救援物資だった。民間団体が同8時半ごろ、水とおにぎりを高齢者や子供に優先的に配ったが、大半の人には行き渡っていなかった。家族と避難した会社員の男性(50)は「いつ食べ物が届くのか情報がなく、不安なまま過ごした。備蓄があったのなら届けてほしかった」と話した。
 西山町は05年5月に柏崎市と合併している。合併前の04年の中越地震は夕方に発生したが、同町ではその日の夜に約230食分の炊き出しがあった。町が農協と連携し、スムーズだったという。元町幹部は「合併により、以前のような独自の判断や対応が難しくなった」と指摘する。
 都市防災に詳しい長岡造形大学の平井邦彦教授(63)は「中越地震後に進んだ『平成の大合併』の影響で、人口が多く力の強い自治体に裁量権や権限が集中。周縁部では、予算措置を伴う決断などが難しくなっている。地震などの緊急時にこそ、各地域の判断で機敏な対応ができるシステムをつくる必要がある」と話している。【浅野翔太郎、伊藤直孝】

毎日新聞 2007年7月27日 3時00分

合併で温泉が遠ざかる・・・2007/06/11

先の記事でお風呂やさんについて触れました。
それで、思い出したのです。

合併して高島市になりましたが、マキノ町には、いい温泉がありました。
白谷温泉です。
ちいさな温泉ですが、お湯がいいらしいのです。

なによりいいのは、マキノ町民には50円で入れるということでした。
私のように町外のものは、350円。

当初は、合併した町村でも同じ割引条件になったのかも知れませんが、
マキノの人たちが入れないほどの盛況ぶりだったそうです。

いま改築を終えて、値上げされました。
町民も等しく500円。

これでは、毎日入ることはできません。

合併は、近くに住む住民を効能のたかい身近な温泉から
遠ざけることになってしまったのです。

上の写真は、2005年2月のものです。
こじんまりした入り口が写っています。

ふれあいバスの明暗2007/06/02

「ふれあいバス」をキーワードにネットを検索すると、
いくつかの自治体の取り組みがでてきます。

●猪名川町のふれあいバス

たとえば、兵庫県川辺郡猪名川町
      http://www.town.inagawa.hyogo.jp/

サイトのタイトルには、「いつまでも住み続けたいまち猪名川町」
と書かれてあり、暖かさを感じます。

ふれあいバスのページには、つぎのように書かれています。

『ふれあいバス(猪名川町公共施設循環バス)は、お年寄りや子どもなど車を運転されない人の移動手段の確保を目的に、平成12年4月1日より運行を開始しました(定員:大人35名)。当初は1台で町内公共施設間で運行していましたが、みなさまからの要望により、平成13年11月22日より2台に増便しました。
 2台のバスが、町内を北部・南部に分けて町内公共施設間を午前・午後の1日2便、運行しています。』

ああ、そうなんだ。きっと町民によろこばれいることと思います。

●旧安曇川町の「ふれあいバス」

わたしが身近に知っているのは、
滋賀県の旧安曇川町の「ふれあいバス」・・・。

このバスはもう乗ることができません。
この6月1日から完全廃止となったからです。

街の高齢者の方々を中心に、存続のために署名運動などの努力をされているのを知っています。合併(05年1月1日)から2年半、がんばられましたけれど、残すことはできなかったのです。

切り捨てた人のことをいう必要はないでしょう。

運動された人たちは、必要があるから残してほしいと
願われたのです。
必要あるところ、発明ありです。

・・・いつまでも住み続けたい街めざして、負けずにがんばりましょうね。
私もそういう一人でありたいと思います。

中学校給食をめぐって2007/04/24

 わが大津市には、中学校給食がありません。私の子どもの頃からそうです。家庭からお弁当をもっていくか、それとも購買部でパンを買うか、それとも、外出許可証をもらって近所のお店に買いに行くかでした。
 給食の時間、それぞれのお弁当の中身が、無邪気に話題になるし、平気で「今日もネコメシ!」といわれて傷つくこともありました。それぞれの家庭の事情もあるのに、そんなことをわかる年代でもありません。
 子ども達が中学生になり、今度は親となった私たちがお弁当をつくらなければならなくなりました。当然と思っていましたから、共働きで変則勤務のカミさんと交代しながらでも、つくりました。私のつくるお弁当は、あまり評判がよくなかったらしい。子ども達は、私には一言も文句をいわなかったのですが。

●全国では「あるのが当たり前」

でも、中学校給食って、文部科学省が発表する実施率を見れば、あるのが当然だったのです。http://www.mext.go.jp/b_menu/toukei/001/index24a.htm
 「えぇ!」と驚きながら、ぜひ実現したいと思ったのです。私が子ども達はもう高校生なので、直接の恩恵を受けることができませんが。


●あるのに、わざわざつぶすのか!

 2006年3月20日に、志賀町が大津市に編入合併されました。「なんでも大津市にあわせる」というのが、その中身。もちろん、反対は多かったのです。その結果、いまある志賀中学校の自校方式の調理場(上記写真)は、数年前に改装されたにもかかわらず、「廃止」の方向が決まっています。
 その理不尽さが怒りを呼ばないはずはありません。
 わたしは、旧大津人。大津市になかったために、つぶされるはめになった志賀町人のためにも、なんとかしたいと思いました。

■大津市立(町立から変わった)志賀中学校のサイト
http://www.ex.biwa.ne.jp/~shiga-schu/

 ネットを検索していると、大阪市では中学校給食を廃止しようという動きがあるらしい。「国は推進の立場ではなかったのか!なんで、市町村はその逆になるんだろう?」と思わずにはいられません。

豪華庁舎をムダにするな! 合併の爪あと:旧志賀町役場③2007/03/09

豪華庁舎が出来る前まで、町役場があった場所です。
いまは、更地。

いざ建物がなくなると、こんな小さな土地だったのかと
思います。

志賀町で新大津市の門出祝い・・・はたしてお祝い気分になれるでしょうか2006/03/21

 志賀町と大津市の合併は、志賀町の側からすれば、土下座合併。正式には、編入合併。私は旧大津人ですが、祝う気分にはなれません。
 かつげの志賀町役場で行われたセレモニーの報道を記念にメモしておきましょう。

*****************
新大津市の門出祝う 志賀・旧町役場が「木戸市民センター」に
2006年3月20日
 滋賀県大津市と志賀町が20日、合併した。同市木戸の旧町役場を「木戸市民センター」(市支所)に改める開所式を開いて、職員や関係者が「新大津市」の門出を祝った。
 式には、旧町からの職員をはじめ、約160人が出席した。目片信市長は「合併に託された皆さんの期待を思うと、責任に身の引き締まる思いだ。合併して良かったと実感してもらえるまちづくりにまい進していきたい」と決意を語り、後藤又久前町長も「(旧志賀町の)自然の豊かさと癒しを感じてもらい、県都としての装いが一層向上することを期待したい」とエールを送った。
 センターの玄関前で、新名称を刻んだ銘板を除幕し、職員たちは新市の発展を誓い合った。
 木戸市民センターは3月末まで、旧町の職員がそのまま残り、来年度からは旧町域に設ける4支所の「基幹支所」として30人が配置される。その後、段階的に職員を減らし、3年後に一般支所となる。
京都新聞

豪華庁舎をムダにするな! 合併の爪あと:旧志賀町役場②2006/03/08

この旧志賀町役場は、その豪華な計画に反対意見が
あったにもかかわらず、時の町長と議会の多数派によって
建設が強行されました。
それも数年前のことです。
建設して、わずか数年で、合併問題が起こりました。
国が上から推し進める押しつけ合併です。

これも議会の多数派と保守系の町長の仕事でした。

豪華な庁舎を強引に建設し、
建設したとと思ったら数年で、無用なものにしてしまう。

これは許されることではありません。

上の写真は、この豪華庁舎の前に町役場があったところです。
2006年3月に撮りました。

見てのとおり、まったくの空き地になっています。
いまだに、用途がないのでしょうか。
なにかむなしい気持ちでシャッターを切ったことを覚えています。

豪華庁舎をムダにするな! 合併の爪あと:旧志賀町役場(木戸支所)①2006/03/07

「平成の大合併」は、さまざまな不合理を生んでいます。
住民サービスがたくさん削られたこともそうです。

しかし、税金をつぎこんで建設された豪華庁舎が
まったく、有効に使われなくなるというのが、
腹立たしいのです。

議会もなくなる(本会議場その他はまったく無用に)
機能がけずられた結果、人数が減らされる、
そのために、空き部屋がものすごく増えていくということです。

そこにいままでとかわらない豪華な庁舎があるのに、
わざわざ遠い市役所にいかなければ、処理ができないことは
さらに怒りを高めます。

高島市からの帰りに、何枚か写真を撮りました。

志賀中学校にも政治の波が2006/03/06

●南北に細長い志賀町に唯一の中学校

 志賀町は南北に細長い土地。
 JRの駅も、小野、和邇、蓬莱、志賀、近江舞子、比良、北小松と
 7つもあります。
 そのような土地柄にたった一つの中学校。
 そのために、通学補助を町独自につくっているのです。

●政治の波が押し寄せる

 しかし、この3月20日に志賀町は大津市に編入合併されます。
 こうむる弊害は主には二つ。
 第一、通学補助の削減。
  町当局は、合併を念頭に補助率を引き下げていましたが、
  その負担は重いと思います。
 第二は、自校方式の給食の廃止。
  わずか三年で廃止されます。

●美しい風景はかわらないのに

 写真で見るとわかるように、美しい風景に囲まれています。
 この風景とは裏腹にすすむ政治の荒波。
 
 負けるな!と心で叫びたくなります。

                            


BIN★「この記なんの記」ブログ情報 August 12 , 2011



 西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。

戦争にかかわる碑

  ■ 忠魂碑・慰霊碑

    ○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など

    ○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)

    ○ 大津市南部の忠魂碑

民間墓地の戦没者

 □ 滋賀県の西南戦争の戦没者

 □ 高島市(高島郡)の戦没者

  ■ 西南戦争(西南之役) 1877年

   ● 戦病死者名簿

      *高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)

  ■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年

   ,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)

      『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。

  ■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年

   ● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)

      ○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿

    ○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。

 公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
 □ ブロック 埋葬者名簿

     陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある

 □ ブロック 埋葬者名簿

     日清戦争期に戦病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

  ■ 大津市作成の名簿順

  ■ あいうえお順

     日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治8年から11年までに病死した下士官と
          兵卒の墓碑が37基


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
         すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
          合計98基。すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)

 □ 西南戦争の戦死者

 □ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿

 □『大津市志』

 □ 滋賀郡膳所町

 □ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)