お元気ですか?
大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。
なにをテーマに書こうかと迷いながら
2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。
2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、
気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。
戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。
通信兵だった父や防空監視隊にいた母から
聞かされた話は、
戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない
という思いを強くさせるものでした。
ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、
国家の理屈で議論が進みます。
同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。
しかし、戦争は、最悪の暴力です。
私は草の根の痛み、
どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で
書いていきたいと思っています。
あまり楽しめないブログかも知れませんが、
お気軽に感想やコメントをお寄せください。
旅順要塞第一次総攻撃で戦死「故陸軍歩兵伍長山本鶴吉之碑」 ― 2011/08/01
「陸軍歩兵伍長」といえば、下士官(特務曹長、曹長、伍長、軍曹)です。兵卒(上等兵、一等卒、二等卒)ではありません。
思い出すのは、旧大津陸軍墓地です。ここでは、将校はもちろんですが、下士官と兵卒では埋葬地も違えば、墓碑の大きさも違います。たとえば、日清戦争のときは、戦病死者のために個人墓碑がつくられましたが、埋葬場所と大きさで差別されていました。 上が下士の墓地、下が兵卒の墓地です。
日露戦争のときは、あまりの戦死者の多さに、個人墓碑はつくられず、集合碑がつくられました。しかも、4柱も。4柱つくった意味は、将校、准士官、下士、兵卒という区別をつけるためで、碑の大きさも違います。このような階級差別は、官製墓地では厳格でした。
ところが、民間墓地では、平等の扱いを受けています。そのことがまず印象的でした。
墓碑の右側面には、「法名」という文字が見えます。
『高島郡誌』は、山本鶴吉の出身地は「本庄村大字四津川」、兵種を「歩兵」、階級を「伍長」、勲等功級を「勲八等功七級」、戦病死年月日を「明治三十七年八月二十一日」、戦病死場所を「旅順」としています。
前にも書きましたが、乃木将軍の第三軍が旅順要塞に第一次総攻撃をかけたのが、明治37(1904)年8月19日でした。山本鶴吉は21日に「旅順」で亡くなっています。さしあたり、これ以上のことはわかりません。
思い出すのは、旧大津陸軍墓地です。ここでは、将校はもちろんですが、下士官と兵卒では埋葬地も違えば、墓碑の大きさも違います。たとえば、日清戦争のときは、戦病死者のために個人墓碑がつくられましたが、埋葬場所と大きさで差別されていました。 上が下士の墓地、下が兵卒の墓地です。
日露戦争のときは、あまりの戦死者の多さに、個人墓碑はつくられず、集合碑がつくられました。しかも、4柱も。4柱つくった意味は、将校、准士官、下士、兵卒という区別をつけるためで、碑の大きさも違います。このような階級差別は、官製墓地では厳格でした。
ところが、民間墓地では、平等の扱いを受けています。そのことがまず印象的でした。
墓碑の右側面には、「法名」という文字が見えます。
『高島郡誌』は、山本鶴吉の出身地は「本庄村大字四津川」、兵種を「歩兵」、階級を「伍長」、勲等功級を「勲八等功七級」、戦病死年月日を「明治三十七年八月二十一日」、戦病死場所を「旅順」としています。
前にも書きましたが、乃木将軍の第三軍が旅順要塞に第一次総攻撃をかけたのが、明治37(1904)年8月19日でした。山本鶴吉は21日に「旅順」で亡くなっています。さしあたり、これ以上のことはわかりません。
「砲弾型墓碑」が3基@四津川墓地(高島市) ― 2011/08/01
田の真ん中あたりのあぜ道にそって墓地がありました。一番右には、背が高くて四角柱・四角錐型の墓碑が立っていましたが、その左には、写真のように砲弾型墓碑が3基並んでいました。
2007年の11月に、大字今津共同墓地ではじめて「砲弾型」墓碑を見ました。そのときも、3基並んでいました。上の写真がそのとき撮ったものです。オーバーかも知れませんが、立ちすくむ位の衝撃をうけました。そういう驚きが、墓碑探索を後押ししているのだと思います。
高島市の日露戦争の戦病死者は100名とされています。これまでにかなりの数の墓碑を拝見しました。もっとも古いものは、安曇川の田中墓地にありますが、「砲弾型」墓碑は、けっして珍しいものではなく、日露戦争基の墓碑に限っては多数派を構成しているように思えます。
墓碑の正面の文字を読んでみました。
2007年の11月に、大字今津共同墓地ではじめて「砲弾型」墓碑を見ました。そのときも、3基並んでいました。上の写真がそのとき撮ったものです。オーバーかも知れませんが、立ちすくむ位の衝撃をうけました。そういう驚きが、墓碑探索を後押ししているのだと思います。
高島市の日露戦争の戦病死者は100名とされています。これまでにかなりの数の墓碑を拝見しました。もっとも古いものは、安曇川の田中墓地にありますが、「砲弾型」墓碑は、けっして珍しいものではなく、日露戦争基の墓碑に限っては多数派を構成しているように思えます。
墓碑の正面の文字を読んでみました。
「故陸軍歩兵伍長勲八等功七級 山本鶴吉 之碑」続いて、一つひとつ見ていきましょう。
「故陸軍歩兵軍曹勲七等 梅村七松 之碑」
「故陸軍輜重輸卒勲八等 早藤彌三郎 之碑」
「陸軍歩兵上等兵薬師川弥市墓」@田中共同墓地 ― 2010/10/01
「故陸軍歩兵一等卒前川幸太郎墓」@田中共同墓地 ― 2010/10/01
「故陸軍歩兵一等卒勲八等熊谷新治郎墓」@田中共同墓地 ― 2010/10/01
旅順で亡くなった「陸軍歩兵上等兵藤澤徳治郎碑」@田中共同墓地 ― 2010/10/01
旧安曇村田中共同墓地には砲弾型墓碑がある ― 2010/10/01
八代さんにご紹介いただいたように
旧安曇村の田中共同墓地には、
砲弾型墓碑が4柱ありました。
戦死者の墓碑ですから、例によって
一番目につく場所に置かれています。
鳥居を入り口にして、すぐ左手に
日清戦争の戦死者の墓碑。
「陸軍輜重輸卒山崎松蔵碑」
これはすでに紹介しました。
左手には、この墓碑しかありません。
墓地そのものは、傾斜地にあり、
左手は竹藪になり、そのまま崖でした。
ですから、本来の場所は右手です。
左手に、この墓碑が置かれているのは、
戦死者の墓碑という位置づけから、
無理にそこに置いたということになります。
入ってすぐ右手の最初のスペース、
一番目につく場所にあるのが、
戦死者の墓地です。
そこに砲弾型墓碑が3柱見えます。
いったん墓地の内部に入り、
入り口にむかって振り向きながら
撮影しました。
右手の鳥居が俗世と墓地の結界。
旧安曇村の田中共同墓地には、
砲弾型墓碑が4柱ありました。
戦死者の墓碑ですから、例によって
一番目につく場所に置かれています。
鳥居を入り口にして、すぐ左手に
日清戦争の戦死者の墓碑。
「陸軍輜重輸卒山崎松蔵碑」
これはすでに紹介しました。
左手には、この墓碑しかありません。
墓地そのものは、傾斜地にあり、
左手は竹藪になり、そのまま崖でした。
ですから、本来の場所は右手です。
左手に、この墓碑が置かれているのは、
戦死者の墓碑という位置づけから、
無理にそこに置いたということになります。
入ってすぐ右手の最初のスペース、
一番目につく場所にあるのが、
戦死者の墓地です。
そこに砲弾型墓碑が3柱見えます。
いったん墓地の内部に入り、
入り口にむかって振り向きながら
撮影しました。
右手の鳥居が俗世と墓地の結界。
日露戦争の戦死者名簿(旧今津町) ~『高島郡誌』より~ ― 2009/11/12
『高島郡誌』には、旧高島郡出身者で日露戦争(1904~1905)で戦病死した若者の名簿が100名分掲載されている。
ちなみに、旧高島郡は、1955年以降は5町1村。それ以前、日露戦争の時点では、村がほとんどであった。
明治22(1899)年4月1日、町村制試行によって、17の村が成立する。日露戦争の少し前の明治35(1902)年に、大溝村が大溝町となり、1町16村となる。さらに、日露戦争の直後の明治39(1906)年12月26日に、今津村が町制をしく。
『高島郡誌』の戦死者の出身地の記述は、この時点の行政区分によっている。 ここでいう「旧今津町」は1955年以降の名前であって、この時点では、川上村、今津町、そして三谷村の1町2村のことである。
下記のように、川上村から8名、今津町から9名、三谷村から3名。合計で、20名の戦病死者が出ている。
旧今津町の日露戦争の戦病死者名簿
○新井 勝吉 川上村大字深清水
明治37年8月22日 旅順
○木下 石松 川上村大字酒波
明治38年11月6日 大坂予備病院(病死)
○山室 源治郎 川上村大字日置前
明治37年8月20日 旅順要塞
○松本 由太郎 川上村大字福岡
明治37年7月24日 金州(病死)
○古谷 徳次郎 川上村大字日置前
明治37年8月22日 東鶏冠山
○原田 徳松 川上村大字深清水
明治38年3月8日 小貴興堡
*深清水の墓地に砲弾型墓碑がある。
http://nostalghia.asablo.jp/blog/2009/09/21/4590069
○州崎 善吉 川上村大字濱分
明治37年7月23日 大石橋
○雲野 辰之助 川上村大字深清水
明治38年1月27日 沙河(病死)
*深清水の墓地に砲弾型の墓碑がある。
○古我 彦四郎 今津町大供
明治38年3月2日 北臺子
○山田 長蔵 今津町大字藺生
明治37年8月24日 盤龍山
○小川 友吉 今津町大字弘川
明治37年8月22日 旅順
*弘川霊苑に砲弾型墓碑がある。
○圓山 禅学 今津町大字今津
明治38年3月7日 小貴興堡
○柴田 権次郎 今津町大字今津
明治38年3月1日 北臺子
*大字今津共同墓地に砲弾型墓碑がある。
○桂田 久蔵 今津町大字梅原
明治37年3月26日 金州南山
○中村 十治郎 今津町大字今津
明治37年5月26日 金州南山
*大字今津共同墓地に砲弾型墓碑がある。
○中川 萬助 今津町大字今津
明治37年8月21日 旅順
*大字今津共同墓地に砲弾型墓碑がある。
○前川 重五郎 今津町大字弘川
明治37年11月14日 廣島予備病院(病死)
*弘川霊苑に砲弾型墓碑がある。
○浅井 順誠 三谷村大字追分
明治38年3月7日 小貴興堡
○中山 四良平 三谷村大字椋川
明治37年11月5日 遼陽病院(病死)
○松田 豊治 三谷村椋川
明治37年8月23日 青泥窪病院(病死)
左が原田徳松、真ん中が雲野辰之助の墓碑。
左が前川重五郎、右が小川友吉の墓碑。
手前左から中村十治郎、柴田権次郎、中川萬助の墓碑。
ちなみに、旧高島郡は、1955年以降は5町1村。それ以前、日露戦争の時点では、村がほとんどであった。
明治22(1899)年4月1日、町村制試行によって、17の村が成立する。日露戦争の少し前の明治35(1902)年に、大溝村が大溝町となり、1町16村となる。さらに、日露戦争の直後の明治39(1906)年12月26日に、今津村が町制をしく。
『高島郡誌』の戦死者の出身地の記述は、この時点の行政区分によっている。 ここでいう「旧今津町」は1955年以降の名前であって、この時点では、川上村、今津町、そして三谷村の1町2村のことである。
下記のように、川上村から8名、今津町から9名、三谷村から3名。合計で、20名の戦病死者が出ている。
旧今津町の日露戦争の戦病死者名簿
○新井 勝吉 川上村大字深清水
明治37年8月22日 旅順
○木下 石松 川上村大字酒波
明治38年11月6日 大坂予備病院(病死)
○山室 源治郎 川上村大字日置前
明治37年8月20日 旅順要塞
○松本 由太郎 川上村大字福岡
明治37年7月24日 金州(病死)
○古谷 徳次郎 川上村大字日置前
明治37年8月22日 東鶏冠山
○原田 徳松 川上村大字深清水
明治38年3月8日 小貴興堡
*深清水の墓地に砲弾型墓碑がある。
http://nostalghia.asablo.jp/blog/2009/09/21/4590069
○州崎 善吉 川上村大字濱分
明治37年7月23日 大石橋
○雲野 辰之助 川上村大字深清水
明治38年1月27日 沙河(病死)
*深清水の墓地に砲弾型の墓碑がある。
○古我 彦四郎 今津町大供
明治38年3月2日 北臺子
○山田 長蔵 今津町大字藺生
明治37年8月24日 盤龍山
○小川 友吉 今津町大字弘川
明治37年8月22日 旅順
*弘川霊苑に砲弾型墓碑がある。
○圓山 禅学 今津町大字今津
明治38年3月7日 小貴興堡
○柴田 権次郎 今津町大字今津
明治38年3月1日 北臺子
*大字今津共同墓地に砲弾型墓碑がある。
○桂田 久蔵 今津町大字梅原
明治37年3月26日 金州南山
○中村 十治郎 今津町大字今津
明治37年5月26日 金州南山
*大字今津共同墓地に砲弾型墓碑がある。
○中川 萬助 今津町大字今津
明治37年8月21日 旅順
*大字今津共同墓地に砲弾型墓碑がある。
○前川 重五郎 今津町大字弘川
明治37年11月14日 廣島予備病院(病死)
*弘川霊苑に砲弾型墓碑がある。
○浅井 順誠 三谷村大字追分
明治38年3月7日 小貴興堡
○中山 四良平 三谷村大字椋川
明治37年11月5日 遼陽病院(病死)
○松田 豊治 三谷村椋川
明治37年8月23日 青泥窪病院(病死)
左が原田徳松、真ん中が雲野辰之助の墓碑。
左が前川重五郎、右が小川友吉の墓碑。
手前左から中村十治郎、柴田権次郎、中川萬助の墓碑。
陸軍歩兵一等卒土肥定吉之墓@西浜共同墓地(日露戦争) ― 2009/11/12
陸軍上等兵小谷彌吉之墓@西浜共同墓地(日露戦争) ― 2009/11/12
西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。
戦争にかかわる碑
■ 忠魂碑・慰霊碑
○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など
○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)
○ 大津市南部の忠魂碑
民間墓地の戦没者○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。
□ 滋賀県の西南戦争の戦没者
□ 高島市(高島郡)の戦没者
■ 西南戦争(西南之役) 1877年
● 戦病死者名簿
*高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)
■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年
,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)
『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。
■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年
● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)
○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿
○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
□ Aブロック 埋葬者名簿
陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある
□ Bブロック 埋葬者名簿
日清戦争期に戦病死した下士官の墓地
□ Cブロック 埋葬者名簿
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Dブロック 埋葬者名簿(作成中)
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Eブロック 埋葬者名簿
■ 大津市作成の名簿順
■ あいうえお順
日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。
□ Fブロック 埋葬者名簿
明治8年から11年までに病死した下士官と
兵卒の墓碑が37基
□ Kブロック 埋葬者名簿
「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
すべて兵卒の墓碑。
□ Lブロック 埋葬者名簿
「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
合計98基。すべて兵卒の墓碑。
□ Mブロック 埋葬者名簿(作成中)
陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)
□ 西南戦争の戦死者
□ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿
□『大津市志』
□ 滋賀郡膳所町
□ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)
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