お元気ですか?

大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。


なにをテーマに書こうかと迷いながら

2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。

2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、

気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。


戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。

通信兵だった父や防空監視隊にいた母から

聞かされた話は、

戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない

という思いを強くさせるものでした。

ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、

国家の理屈で議論が進みます。

同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。

しかし、戦争は、最悪の暴力です。

私は草の根の痛み、

どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で

書いていきたいと思っています。


あまり楽しめないブログかも知れませんが、

お気軽に感想やコメントをお寄せください。


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ブログ再開のお知らせ2015/10/10

 2015年9月19日に、安保法制が成立しました。それまで、このブログではなく、フェイスブックで発信していましたが、非常事態という認識のもとに、ブログを再開することにしました。
 私が集めた資料は、平和を守るためにあるわけであり、いまこそ生かすときだと考えたからです。
 管理画面を開いてみて、驚いたのは、不在期間に、大事なコメントを書き込んでおられる方がいたことです。申し訳ない気持ちでいっぱいです。いまになって返信しても失礼がすぎると思いましたが、おわびしながら対応していきます。
 安保法制を廃止するまでは、やめるわけにはいきません。
 よろしくお願いします。
 2015・10.10  MR.BIN★

トーマス・カーライルの名を借りて2012/10/21

 土曜日は、大切な会議の日でした。
 その場で、言い争いではありませんでしたが、カーライル(Thomas Carlyle 1795-1881)の言葉を引き合いにだして、モノを言いました。カーライルは、ゲーテと同時代人であり、日本にも翻訳を通じて、影響を及ぼしたイギリスの歴史家。しかし、もう新刊書を探すことは困難だとWikipediaにありました。
 私が語ったことは、いわば孫引きのようなものでした。
 1980年代の半ばに、旧ソ連の反体制派についてのTV番組で、西欧の経済学者が、カーライルの言葉を引用して、希望を語っていたことが頭に残っていたからです。
 その人は、「リアリストは歴史において勝利し、ロマンチストは敗れる。しかし、歴史を前進させるのは、つねにロマンチストだ」というカーライルの言葉を引用していました。
 リアリストとロマンチスト--現実主義者と夢想家。
 一人の人格に両者は存在していますが、最終的な判断を、どちらの立場で下すか、現実を固定的に考え安定した結果を残すのか、それとも、未来の可能性を信じ、それに賭けるのか。

 今の日本社会は、大事な危機、つまり分岐点にあります。
 右翼的反動はかつてなく強まっています。これを放置すれば、憲法改悪をはじめ、悪夢のような未来が待っている気がします。
 それに対抗するかのように、普通の人たちの「参加」が強まっています。原発ゼロをめざす運動はその象徴。
 中間の回答がないほど先鋭化した対立となっています。
 1930年代を想起する人がいるのは、偶然ではないと思います。
 私たちは、日本の歴史上まれな時期に立ち会っていて、背伸びしてでも立ち向かうべきだという思いを、カーライルの名を借りて語りました。

おわびし、再開します2012/07/09

 日常的にブログを書き続けられなくなってから、相当の時間が過ぎました。その間、やつしろさん、安藤敏行さん、礫川全次さん、高橋てるきちさんらから、貴重なコメントをいただきながら、レスができず、失礼を致しました。今更と思われることと思いますが、おわびも含めて、返信させていただきます。

iphone3G→??2011/09/29

3Gでしかも8Gなので買い換えたいが
私のiphoneは、「4」でもなければ、「3GS」でもない。
初期型の「3G」で、しかも8G。
3年近くになるので、買い換えを考えている。
いまや、Androidなどスマートホンが多様化。
さらに、Kddiも、iphone5を発売するとか。

iphoneが使いたくて、ソフトバンクに踏みとどまり、
カミさんの帰省先や特定の仕事場で
圏外になる不便さを我慢してきた。
もし、Kddiからも発売となると心が動く。

その一方で、ipadを購入したので、
iphoneの魅力が薄れているのも確かである。

29日にソフトバンクがなにがしかの
コメントをすると思われていたが、結局なし。

先行きが見えない。

Events of 11 September そのとき私は2011/09/10

 私は自宅でその瞬間をネットで多くの人たちと共有した。
 2001年9月11日。.仕事を終えて、チャットに入った。そのとき、チャットの世界は騒然としていた。旅客機が衝突した映像を流すIDにアクセスが集中。
 まもなく、自宅の別室から大きな声が挙がった。二機目が突っ込んだ瞬間だった。いくつかの映像が流されていて、そのどれもに目を奪われた。・・・まだ何が起こったのか、わからない状態であった。
 チャットの相方に、私から伝えた。相方には、NewYorkのそのビルに友人がいた。声の震えはわからなかったが、心配が文面にあふれていた。そして、ビルは二棟とも目の前で崩れ去った。沈黙が生まれ、長い日数、それきりであった。

カテゴリーの整理2011/09/10

 カテゴリーを乱造したために、不便になっています。必要な記事にすぐアクセスできるように工夫したいと思います。戦争の碑や戦死者の墓碑などは、旧市町村で区別するのが便利だと思いました。そのためには、満タン状態のカテゴリーを20ぐらい減らす必要があります。しかし、それが簡単ではありません。カテゴリーを登録した記事を一つ一つ編集しなければならないからです。もっと便利な方法はないのかと思います。

少し涼しくなりましたね。お元気でしょうか。2011/08/30

笑うクー ~ninnnanannnaにて(6月)~
 ブログを見にきていただいてありがとうございます。
 お元気でお過ごしでしょうか。

 私の日常は午前7時頃におきて、ワンコの散歩をして、必要なときは朝食後にすぐ出勤し午前8時30分には机の前にいます。週に一回は泊まり込み。休みは週一回あるかないか。思い切って早めに帰るときはありますが、10時頃が普通という生活です。
 ブログは、そういう日常から全く切り離した世界となっています。最も身近な同僚さえ知らないというのがある意味快感となっています。仕事の密度が濃くなってくると、半年近くブログがストップします。4月には21日間のうち17日間は、仕事場で泊まり込むことになってしまいました。おかげで、仕事の頭は満タン、ブログ頭は真っ白状態。初期化されてしまいました。日常を書き散らしている分には、構いませんが、戦争の傷跡を追求する作業を再開するのは、大変です。
 ごくまれにブログで展開していることを話す機会をいただきます。自分からつくる場合もありますが、この作業を知っている人に頼まれる場合もあります。それまでの探求をまとめるいい機会になり、あらたな問題意識と興味をもって、ブログをつづけようということになります。
 私はロシア史を専攻しました。けれども、学生の勉学は初歩的であり、実際のスキルは身につかないままでした。その初心者がやっている作業ですから、ときどき意味を感じなくなったり、このぐらいでやめようかなという気分になるときがあります。不思議なことに、そういうタイミングで励ましや問い合わせのメールをいただきます。意味のある作業だと思い直して、つづけてきました。
 あちこち見て回って集めたものを、メモのように書きなぐり、突然、思いついてまとめる・・・そんな風な4年間でした。これからも、そういうことになります。ブログは短いエントリーを脈絡なく書いていくのは適していますが、まとめようとすれば、探すのが大変です。あまり先を考えずに、カテゴリーをつくっていたら、100項目の制限にぶつかって、あわてて整理しはじめるなんてこともありました。
 いっそのことサイトをつくろうかと思いました。しかし、最初に書いたような日常では、とても無理です。現職の時代は数年では終わらないと思います。それはその先にとっておく楽しみです(突然、つくるかも知れませんが)。
 『「1名の将兵と14名の下士官、そして206名の兵卒」の日清戦争』--気負ったタイトルをつけたエントリーを並べています。それは、一方で、遺族の方の参考になればいいと願ってのことですが、他方は、そういうまとめをどこかで(比較的余力のあるときに)しておかないと、なにをしていたのかがわからなくなってしまうからです。

 そんなこんなで、コメントや情報提供、ご意見など楽しみにお待ちします。くれぐれもお体は大切に。私のように階段から落ちるなんてことになりませんように。

hummingbirdさんへ2011/08/02

 実は、昨日、ほんとうに久しぶりに、hummingbird@パロアルトを訪問しました。そして、「おめでとう そして ありがとう」を読みました。知らなかったんです。こういうことになっているなんて。
 BIN★も、ブログ世界から相当長期にわたってドロップアウトしていました。戻ってきて、感じたのは、やはり、それなりのパワーがなければ、続けられないということでした。
 私は、おやめになることはない・・・と思う一方で、負担になることは少しでも減らしたほうがいいとも思いました。
 訪問は歓迎します。いつでもいらしてください。上の写真は、絵はがきのつもりで、つけました。阿蘇です。

カムさんのお引越し2010/10/04

写真は記事に関係ありません、まぁ、ブログの住所をカエル・・・ぐらいかな
リアルでも、ブログでも

お世話になっているカムさん。

なにやら、ネット内で移転されたとか。

いったいどこに?

文字化けメールを多数いただいています。

たぶん、それがカムさんからのメール?

それで、

やっと

やっと

届きました。

http://osa.typepad.jp/blog/

八代 孝憲さんへ2010/09/16

八代孝憲さん

せっかくいい情報をいただきながら、
見ることもなく過ごしてしまいました。
おわびさせていただきます。
ご住職をされているのを知りました。

ぜひ訪問させていただきたく思います。

                            


BIN★「この記なんの記」ブログ情報 August 12 , 2011



 西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。

戦争にかかわる碑

  ■ 忠魂碑・慰霊碑

    ○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など

    ○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)

    ○ 大津市南部の忠魂碑

民間墓地の戦没者

 □ 滋賀県の西南戦争の戦没者

 □ 高島市(高島郡)の戦没者

  ■ 西南戦争(西南之役) 1877年

   ● 戦病死者名簿

      *高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)

  ■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年

   ,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)

      『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。

  ■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年

   ● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)

      ○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿

    ○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。

 公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
 □ ブロック 埋葬者名簿

     陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある

 □ ブロック 埋葬者名簿

     日清戦争期に戦病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

  ■ 大津市作成の名簿順

  ■ あいうえお順

     日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治8年から11年までに病死した下士官と
          兵卒の墓碑が37基


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
         すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
          合計98基。すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)

 □ 西南戦争の戦死者

 □ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿

 □『大津市志』

 □ 滋賀郡膳所町

 □ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)