お元気ですか?

大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。


なにをテーマに書こうかと迷いながら

2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。

2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、

気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。


戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。

通信兵だった父や防空監視隊にいた母から

聞かされた話は、

戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない

という思いを強くさせるものでした。

ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、

国家の理屈で議論が進みます。

同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。

しかし、戦争は、最悪の暴力です。

私は草の根の痛み、

どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で

書いていきたいと思っています。


あまり楽しめないブログかも知れませんが、

お気軽に感想やコメントをお寄せください。


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「石けん運動」から富栄養化防止条例へ2020/06/25

滋賀県のサイト(「しが水環境ビジネス推進フォーラム」)には、石けん運動の成り立ちの既述がある。

『1.琵琶湖に大発生した赤潮から、住民による「石けん運動」への発展

 滋賀県では、高度成長による人口増加や工場立地等により琵琶湖の汚濁負荷が増えたことから、1960年代後半から琵琶湖の水質悪化が問題視されるようになりました。
そうした中、1977年5月、琵琶湖に悪臭を放つ赤褐色のプランクトンの大発生、すなわち「淡水赤潮」が大発生し、その原因の1つとして合成洗剤に含まれているリンであることが分かったため、県民が主体となり、リンを含む洗剤の使用をやめて天然油脂を主原料とした粉石けんを使おうという運動が始まりました。これがいわゆる「石けん運動」です。

■ 石けん運動の様子(1970年代)
1978年には、粉石けんを使おうという機運の中で、主婦層を中心とした「「びわ湖を守る粉石けん使用推進県民運動」県連絡会議」が結成され、この連絡会議が中心となって行政に対して早急な対策を強く要求しました。その結果、1979年の「滋賀県琵琶湖の富栄養化の防止に関する条例(富栄養化防止条例)」の制定へとつながりました。 』

『琵琶湖と富栄養化防止条例』(1981)の購入2020/06/22

 実は、最近『琵琶湖と富栄養化防止条例』(アイリーン・M・スミス/鈴木紀雄/渡辺武達/編著 市民文化社 1981年)という古書を買いました。

滋賀県議会での次のやり取りを読んだことがきっかけです。

ときは、2019年の11月議会。

佐藤健司県議(当時)の代表質問(12・3)から。

『住民運動を契機に策定された滋賀県琵琶湖の富栄養化の防止に関する条例が成立してから40周年を迎えました。言うまでもなく、琵琶湖を取り巻く環境は大きくさま変わりし、当時社会問題となった水質の問題だけでなく、現在の琵琶湖では、外来魚問題や水産資源の減少、外来水生植物や水草の増殖、全層循環に見られるような地球温暖化の影響、プラスチックごみの問題など、多くの新たな課題に直面しています。EBPM──証拠に基づく政策立案の取り組みを進める本県としても、しっかりとした時代認識や、科学的な根拠に基づく新たな琵琶湖政策を進める必要があります。
 現在、琵琶湖が貧栄養にあえぐ中で、いつまで琵琶湖の富栄養化の防止に関する条例を不磨の大典とするのでしょうか。40年前の理念は受け継ぎながら、条例を改正、廃止することや、場合によっては、琵琶湖にかかわる他の条例と統合した新たな条例を制定することについて、見解を伺います。』

知事答弁のその部分

『6点目、富栄養化防止条例の改正、廃止や新たな条例の制定についてもお尋ねいただきました。
 これまでの琵琶湖の保全は、水質汚濁対策に代表されるように、人間活動からの過度な環境負荷を削減するという視点を中心に展開してまいりました。琵琶湖の富栄養化の防止に関する条例も、淡水赤潮にあらわれた人為的な富栄養化に対して制定され、琵琶湖の窒素やリンの濃度が改善するなど、一定の成果を得てきたところでございます。
 しかし、その一方で、近年、在来魚介類の減少や水草の大量繁茂などのさまざまな課題が生態系にあらわれており、琵琶湖からの本来の恵みが損なわれている状況にございます。
 こうした生態系における課題の解決に向けましては、環境負荷の削減という経済社会活動からの影響の緩和策に加えて、生態系から得られる恵みを経済社会の中で活用につなげ、健全な循環をつくるという視点に立った新たな琵琶湖政策が求められると考えております。
 例えば、窒素やリンを削減すべき対象として捉えるだけではなく、在来魚介類につながる琵琶湖の食物連鎖を支える植物プランクトンに必要な物質として捉え、良好な水質と豊かな生態系が両立する水質管理手法を構築していくことなどが考えられます。
 こうした新たな取り組みは全国でも先駆的でありますため、科学的な知見を収集しつつ、具体的にどういった取り組みが効果的なのか検討してまいります。将来的には、条例のあり方についても必要に応じて議論をしてまいりたいと存じます。』

「琵琶湖」編集委員会『琵琶湖 その自然と社会』(サンブライト出版 1983)2020/02/21

 琵琶湖の「深呼吸」が二年連続して起きなかったことが、不安と危機意識を私のなかに生んでいます。といって、たちまちできることは思いつきませんが、琵琶湖についておおまかにせよ、知りたいと思うようになりました。そこでいくつかの本を買いました。
 その一つがこれ。

今関信子『琵琶湖のカルテーー科学者からのメッセージ』(文研出版2010年)2020/02/20

 琵琶湖関係の本を読もうと思ったら、とてもとりつきやすいなぁと思える本がありました。それがこれ。
 今関信子『琵琶湖のカルテーー科学者からのメッセージ』(文研出版2010年9月)
 装丁は童話本のようなイメージ。関心はあるけど、むつかしい本は困るって思う人でも手に取ってみたくなる雰囲気があります。ドキュメント風の語り口で、どんどん読めるんですが、扱っている主題やメッセージは軽くないです。ボールをぽんとわたされて、困惑。

北湖(琵琶湖)の水2011/07/24

海津の浜で琵琶湖を撮影
 琵琶湖は中央のくびれで北湖と南湖にわかれます。北湖は、南湖に比べると、面積も10倍、平均の深さも10倍です。上の写真は、マキノの海津の浜で撮った写真です。私は、南湖の畔に暮らしていますが、北湖の美しさはくらべものになりません。

高島市(湖西地域)で眺める琵琶湖と紅葉と2010/10/31

高島市(湖西地域)から眺める琵琶湖
 2008年11月から2009年1月まで、高島市の今津で仕事のために泊まり込んでいました。目の前には、竹生島がうかび、水鳥の鳴き声で目をさます朝でした。
 そんな美しい土地で、仕事の傍らとはいえ、今、戦争の痕跡をたどっていることが不思議です。しかし、この土地は、日本軍(自衛隊)が常駐し、軍用車両の通行は日常茶飯事。訓練のための砲声が遠くから響き、米軍が共同演習にやってくる土地なのです。
同じ紅葉も、米軍との共同訓練のもとでは、楽しめるものではありません。

10月の琵琶湖岸(旧志賀町)にて2009/11/19

10月の琵琶湖岸(旧志賀町)にて
10月××日。琵琶湖大橋から北にある旧志賀町を走りました。
ふと思いついて、いつも通るバイパスではなく、
湖岸の縁の細い道を通ることにしました。
そこは、いろんな企業や団体の保養地となっていたところ。
だが、そのための建物は次々閉鎖されて、
昔のにぎやかな面影がない様子です。

変わらないだろうと思えたのは琵琶湖の風景。
ゆっくり走りのも、眺めるのも私ははじめてでした。

琵琶湖発 15時2009/11/06

午後3時の琵琶湖にて
西日に照らされた琵琶湖を撮りました。
鳥は思ったよりも多くはいませんでした。

海津の秋に浮かぶいくさの影2009/10/28

海津の秋
10月下旬の海津。
夕暮れが迫ってくる。
手前は琵琶湖。
昔ながらの風景かも知れない。

私は、ここに観光にきたわけでなく、
「忠魂碑」という戦前の遺物を
探しに来たのだ。
湖岸から身をひくと、琵琶湖を
背景にして忠魂碑がシルエットとして浮かぶ。
忠魂碑はシルエットとして浮かぶ
その前には、真新しい
「殉国英霊芳名誌」が建てられている。
戦争の記憶と傷跡は深く、
忠魂碑は、いまなお遺物ではない。

戦死はあまりに突然で無惨。
若い命を奪い取る所業は、
容易に受け入れるものではないのだ。
その死は意味がなければ、ならない・・・・。

まだ「原風景」を残している気がします2009/09/17

まだ琵琶湖の「原風景」を残している気がします
 ここは旧仰木。遠くに見える湖岸には住宅が建てこんでいますが、農村風景と一体に、琵琶湖が見渡せるポイントになっています。



 なんか懐かしい風景に思えました。

                            


BIN★「この記なんの記」ブログ情報 August 12 , 2011



 西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。

戦争にかかわる碑

  ■ 忠魂碑・慰霊碑

    ○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など

    ○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)

    ○ 大津市南部の忠魂碑

民間墓地の戦没者

 □ 滋賀県の西南戦争の戦没者

 □ 高島市(高島郡)の戦没者

  ■ 西南戦争(西南之役) 1877年

   ● 戦病死者名簿

      *高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)

  ■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年

   ,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)

      『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。

  ■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年

   ● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)

      ○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿

    ○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。

 公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
 □ ブロック 埋葬者名簿

     陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある

 □ ブロック 埋葬者名簿

     日清戦争期に戦病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

  ■ 大津市作成の名簿順

  ■ あいうえお順

     日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治8年から11年までに病死した下士官と
          兵卒の墓碑が37基


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
         すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
          合計98基。すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)

 □ 西南戦争の戦死者

 □ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿

 □『大津市志』

 □ 滋賀郡膳所町

 □ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)