お元気ですか?

大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。


なにをテーマに書こうかと迷いながら

2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。

2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、

気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。


戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。

通信兵だった父や防空監視隊にいた母から

聞かされた話は、

戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない

という思いを強くさせるものでした。

ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、

国家の理屈で議論が進みます。

同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。

しかし、戦争は、最悪の暴力です。

私は草の根の痛み、

どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で

書いていきたいと思っています。


あまり楽しめないブログかも知れませんが、

お気軽に感想やコメントをお寄せください。


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水谷孝信『湖国に模擬原爆が落ちた日』を読む2013/09/03

水谷孝信『湖国に模擬原爆が落ちた日』
 この本には「滋賀の空襲を追って」というサブタイトルが付いています。高島市の今津図書館に立ち寄ったとき、偶然、手に取りました。強い印象をもったのは、空襲の被害の実際がいまだに解明されていないということ、体験者の話をきくのも、そろそろ限界のときになりつつあるということでした。
 Amazonに注文して、今読んでいます。
 この本に刺激され、ブログとこのブログの主題に戻ってくることにしました。

村上春樹~第23回カタルーニャ国際賞受賞スピーチに~2011/06/13

この「かえる君」は記事とは無関係です♪
 作家の村上春樹氏が、第23回カタルーニャ国際賞受賞スピーチを行いました。YOUTUBEで聴きました。
 内容は奇をてらったモノではなく、平易なものでした。また、今回の災害と原発事故をうけて、日本人全体に呼びかけるものであると同時に、作家の使命について語ったものでもありました。
 『非現実的な夢想家』という言葉は、非難に用いられる言葉であり、『効率』という言葉は、賞讃に用いられる言葉です。それら対で押し出すことによって、私たちが身につけている価値観の転換を演出したということもできます。
 氏がどのような形で、その思いを生かされるのか、注目しています。

北朝鮮の新しい動きと日米合同演習と2009/09/19

三井寺での原爆慰霊法要で風船を放つ
 外交は、その情報が少なく、庶民にはわかりにくい世界です。
 オバマ演説があり、核兵器廃絶への流れが一気に加速するかと思えたのですが、近隣では、北朝鮮をめぐり、ロケット発射や核開発再開など、後ろ向きのニュースばかりが目立っていましたね。
 朝鮮半島の緊張緩和と非核化は、他人事ではありません。北朝鮮の多国間協議への復帰を強く望んでいました。
 民主党新政権の「核密約」問題への新しい前向きのアプローチとともに、北朝鮮の「六か国協議」復帰示唆は、明るいニュースです。ここまでこぎつけるために、中国やアメリカを中心に、どれだけ多くの努力が水面下ではらわれたのか、想像するしかありません。そして、それは、これからが本番ということになります。
 お隣の高島市「あいば野演習場」で、海外派兵を想定した日米合同演習が行われるタイミングなだけに、私は、朝鮮半島での緊張緩和の進展を強く願っています。
 写真は、毎年8月6日に行われる大津市の三井寺の原爆慰霊法要の風景。参加者が、平和への願いを込めて風船を放っています。
 私が撮影している場所は、かつて西南戦争の記念碑が建っていたところ。お寺の向こうに広がるのは、明治初年から陸軍の基地がおかれ、戦後は、アメリカ軍の占領地となった場所です。
 近代日本の戦争への起点であり、アメリカへの従属の象徴となった場所と、平和へのを発信する風船が同時に写っている写真ということになりますね。
金総書記、「6カ国」復帰を示唆=核問題で中国特使と会談
9月18日14時19分配信 時事通信
 【北京時事】新華社電によると、北朝鮮の金正日労働党総書記は18日、中国の胡錦濤国家主席の特使として平壌を訪れた戴秉国国務委員(外交担当)と会談した。金総書記は席上、核問題について「2国間および多国間の対話を通じ解決したい」と述べ、6カ国協議復帰の可能性を示唆した。こう着状態にある北朝鮮核問題が動き出す契機となるか注目される。
 会談では、戴氏が胡主席の親書を手渡した。胡主席は親書で、「中国は、(朝鮮)半島非核化の実現や北東アジアの平和・安定維持を一貫して目指しており、(北)朝鮮と共に努力することを惜しまない」とのメッセージを伝えた。
 これを受け金総書記は、朝鮮半島情勢や核問題をめぐる北朝鮮の立場を詳しく説明。「(朝鮮半島)非核化の目標を堅持し、平和安定維持に力を尽くす」と表明した。
 対話による核問題解決の姿勢を見せ、6カ国協議議長国の中国の顔を立てる一方、「2国間対話」の選択肢も示して、米国との直接協議を求める立場も維持した形だ。

民主党政権誕生~核密約問題の対応に注目しています~2009/09/17

不破哲三『日米核密約』
 核密約とは、1960年の日米安保条約改定のとき、《核を積んだ軍艦や飛行機の出入りは自由、そのときは事前協議はいらない》ということを確認しあった秘密協定のことです。
 不破哲三氏が2000年春の国会で、米外交文書をもとに、核密約文書を暴露して、政府を追及した(上の写真)のがはじまりです。
 自民党政府は一貫してその存在を認めませんでした。しかし、民主党の鳩山新首相と岡田新外相が、自民党政府とは異なる対応を公言していることが注目されます。
 たとえば、つぎのような報道です。
岡田外相「核密約を徹底調査」
9月17日7時56分配信 産経新聞
 岡田克也外相は17日未明、初閣議後の記者会見などで、核搭載米艦船の寄港などを認める日米核密約に関し、「外交は国民の理解と信頼に裏付けられていなければならない。大臣命令を事務次官に発して期間を切って徹底調査を命じる」と述べた。
 また、米国に対して核の先制不使用を働きかけるかどうかについて「私の持論は『先制使用すると明言する国に核軍縮や核の不拡散を言う資格があるのか』ということだ。先制不使用によって核の抑止力が弱まるとは考えていない。誰が考えてもそれ以外の結論はないのではないか」と述べ、外務省内で議論を進める考えを示した。
 在日米軍再編、アフガニスタン支援などに力点を置く考えを示し、来年1月で期限が切れるインド洋での給油活動について「単純延長はない」と明言した。
 一方、岡田氏は、昨年の日朝実務者協議の合意に基づき、北朝鮮側に拉致被害者に関する再調査を求める考えを示した。
このような姿勢をとる背景には、当事者の発言が相次いだことも挙げられます。
「核密約、現在も有効」 元政府高官が新証言
山陽新聞
 米軍核搭載艦船の日本への領海通過・寄港を黙認した核密約問題に絡み、首相官邸で外交政策立案に関与した元政府高官は1日、密約の存在を認めた上で「日本が『核の傘』に守られている以上(通過・寄港を認める)取り決めがあるのは当然」と言明。「(日米間で核密約を)殺したわけではない」とも述べ、密約を記した「秘密議事録」は現時点でも外交上有効との見解を示した。
 匿名を条件に共同通信に語った。
 元高官の証言は核密約の存在を新たに補強し、歴代保守政権が通過・寄港を黙認してきた背景に、「核の傘」を最優先する政策判断があったことを明確に認める内容。核密約が現在も有効だとしていることから、密約の全容解明を掲げる次期民主党政権は今後、難しい対米交渉を迫られる可能性が出てきた。
 元高官は、米国が冷戦終結後、核搭載艦船を日本に寄港させていない経緯から「(秘密議事録は)実態として死文化した」とする一方、仮に民主党政権が核密約を公開しても密約が失効するわけではないと語った。
 さらに、朝鮮半島有事に米軍が日米安全保障条約上の「事前協議」を経ずに在日米軍基地を使用できるとした密約に関しても、消滅したわけではないと述べ、核密約同様、現在も有効との認識を示した。
 元高官は「日本が守られているのに(核の通過・寄港を)ダメとは言えない」とし、「核の傘」堅持のために核密約が不可欠だったと指摘した。
(9月1日20時57分)

パンプキン爆弾(模擬原子爆弾)のレプリカ2009/08/28

パンプキン爆弾(模擬原子爆弾)のレプリカ
 一日おきに事務所に泊まり込みで、疲れがたまります。30日までは仕方がない事態です。午前1時に、一休みしようと、明るい電気をつけたまま、ベットに転がったら、午前6時前に、ドアがノックされました。
 それで起きて、さっそく9時近くまで仕事をしました。電話がかかるし、朝食がなかなかとれません。人が集まってきたので、「どうぞ、朝食にいってください」と言ってもらえました。
 それで、事務所から一歩外へ。でも食事はおあずけにしました。
 私には、朝飯を抜いてまで行きたい場所があったのです。8月30日まで、大津市の歴史博物館でやっている戦争展です。
 行けるチャンスがないまま今朝までズルズル・・・。
 電話して「開場が9時」と聞いて、車を飛ばしました。 入場したら、目の前にあったのが、パンプキン爆弾のレプリカでした。全部で40数発投下されたうちの一つが、大津に落ちたのです。
 忙しくて、カメラをもって行かなかったので、ケータイで撮りました。大きさがわからないだろうなぁと思っていたところに、見学に来た人が視野に入りました。撮らせていただいてありがとうございました。おかげで大きさがわかりますね。
 わずか15分間でしたが、貴重な時を過ごしました。

ヒバクシャと話せなかった20代の後悔2009/08/06

ヒロシマの夏がまためぐってくる。
いまから思うと、とても残念なことがある。
結婚前の20代の話。

「年末に時間がとれますか。手伝って欲しいことがある」と知り合ったばかりのNさんから電話がかかってきた。「はい、いいですよ」と私は気軽に答えた。
 指定された場所にでかけると、渡されたのは、住所を記したメモと重い餅の包みだった。頼まれた用事は、つきたてのお餅を市内に住むヒバクシャの方に届けることだった。届けに回る人数が足りないので、一人で行ってくれとのことだった。
 自分の街にヒバクシャが住み、暮らしている・・・この街の住民なのに、私はまったく知らなかった。ショックだった。
 家は簡単に見つかるはずだからと、街に出た。
 私は動揺を抑えられなかった。ヒバクシャの方と直接出会うのは、はじめてだったのだ。どんな姿をされているんだろう、どう切り出したらいいのだろう。迷いながら私は走った。
 ヒバクシャの方の家は簡素で、路地の奥だった。
 やわらかい表情で感謝の言葉を述べられた。緊張した私は、「どうぞ」としかいえなかったのだ。
 もしかすると、その方の生の話を聴かせていただく最後のチャンスだったのかも知れない。頼んでも拒否されたのかも知れないけれど。
 それから30年近く経つ。
 その当時すでに高齢で病気がちだったであろうその方は、もう亡くなられているにちがいない。
 20代の私は、なんて臆病だったのだろう。なんて大切なものをなくしたのだろう。つぎの世代にヒバクシャの生のメッセージを伝える輪の一つにさえなれなかった・・・。

広瀬隆 『チェルノブイリの少年たち』 生々しい原発事故の恐怖2009/08/06

広瀬隆 『チェッルノブイリの少年たち』
今日は、ヒロシマの日。
大津市の三井寺では恒例の慰霊祭が行われる。
私は、残念ながら、出席できない。
その代わり、K君は、原水禁大会に出発。

昨晩から、読んでいる。
広瀬隆『チェルノブイリの少年たち』

事故の生々しい描写がつづられる。
炎をあげ、爆発するチェルノブイリ原発。
目に見えない放射線の恐怖、そして、死。
読みながら怒りを抑えることができない。
人間抑圧をつづけていた体制は、
史上最悪の原発事故を目の前にしても、
人の命最優先の避難組織さえ、
真剣にとることができなかったのだ。
自己犠牲もいとわない決死隊の
英雄的行為も、あわれでならない。

チェルノブイリの被害は、「安全神話」が
もたらした人災である。
それは、兵器として市民の上に
投下された原爆とはちがうかも知れない。
しかし、結果は、同じ。
いやそれ以上である。

底知れない人類史的悲劇。

1945年8月6日とともに、
1986年4月26日も
決して忘れることのできない日なのである。

峠三吉 『詩集 にんげんをかえせ』2009/07/10

峠三吉 『詩集 にんげんをかえせ』
峠三吉(1917-1953)は、
「にんげんをかえせ」
という原爆詩で知られています。

この詩しか知らなかったのです、私は。

たまたま、自宅で寝転んだとき、
その視線の先に、この本を見つけました。

カミさんの本でしょうね。

「にんげんをかえせ」の詩。
それは、力強いのですけれど、
あまりに直接的で、気軽に読めないと
敬遠していたのです。

いろいろ詩があるんだと思って、
ページをくりました。・・・そして、
イメージが少し変わりました。

たとえば、つぎの詩。

クリスマスの帰りみちに

焼け跡の町に夜の雨は優しく霧をながす
クリスマスの調べは神話のように心にともる
少女と私は焼跡の電車道を黙って歩く

戦後最初のクリスマスは焼け焦げた臭いの中にひそやかで
神は戦争の悲しみの奥でお菓子のように美しい
少女とわたしは泥濘の上を軽わざ師のように渡る

渡っていく原爆の廃墟は闇の中で無数にささやく
神と戦争について様々な不協和音をささやく
少女とわたしは然し黙って鉄を踏み材木をまたぐ

通過して来たクリスマスの雰囲気は霧雨よりも優しく
生き残った青春は風にゆらぐ樹木のように重い
この重さに耐えて少女とわたしは歩く
神があってもなくっても少女とわたしは歩きつづける

今年も「反核ウォーキング」からお誘いがありました2009/06/15

電話をいただいて、8月の空を思い出しました
抜けるような青空と溶け合う琵琶湖。
去年の八月の写真です。

その八月の話。

「BIN★さんですか?お久しぶりです」とHさん、
「新聞に平和ハイキングのことが載っていましたね」
「ええ」
「8月6日に時間を空けてもらえますか?」
「なんでしょうか?」
「去年もやった反核ウォーキングなんですが、
今年もやるつもりです。」
「なるほど」
「去年は、Tさんといっしょに案内してもらいましたね」
「ええ」
「Tさんが体調がよくないので、今年も参加して
戦跡を案内してほしいのです」
「どういうコースですか?」
「唐崎を出発して、皇子が丘までです」
「時間は?」
「午後2時から4時までの予定です」
「何曜日でしたっけ?」
「木曜日です」
「じゃあ、なんとかなると思います」

この8月6日(9日)は特別の日です。

しかも、「核のない世界」オバマ演説の直後。
核保有国が真剣に廃絶にすすめるかどうかの
分岐となる重要な年です。
息子のK君は「原水禁大会に行くつもり」
「えぇ~そうなん」と私が言うと、
同じくH君も「受験のための日程がなければ」と
言っています。
「おまえたち、歴史的な大会に親を置いて行くのか!」
と思いましたけれど、未来は次の世代に託すべきもの。

ともかく、私は大会に行くことをあきらめて、
離れたこの琵琶湖岸の街で、
自分の力と創意でできることをしようと思うのです。

ところで、反核ウォーキングですが、
反核と戦跡・・・一緒であるような、ないような。
主催者の意図は、反核の思いを込めて、
戦跡をめぐるってことなんでしょうね。

真夏の太陽に焼ける日を思いながら、
プログラムをつくる楽しみができました。

去年の反核ウォーキングの日記は→ここをクリック。

                            


BIN★「この記なんの記」ブログ情報 August 12 , 2011



 西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。

戦争にかかわる碑

  ■ 忠魂碑・慰霊碑

    ○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など

    ○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)

    ○ 大津市南部の忠魂碑

民間墓地の戦没者

 □ 滋賀県の西南戦争の戦没者

 □ 高島市(高島郡)の戦没者

  ■ 西南戦争(西南之役) 1877年

   ● 戦病死者名簿

      *高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)

  ■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年

   ,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)

      『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。

  ■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年

   ● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)

      ○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿

    ○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。

 公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
 □ ブロック 埋葬者名簿

     陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある

 □ ブロック 埋葬者名簿

     日清戦争期に戦病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

  ■ 大津市作成の名簿順

  ■ あいうえお順

     日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治8年から11年までに病死した下士官と
          兵卒の墓碑が37基


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
         すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
          合計98基。すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)

 □ 西南戦争の戦死者

 □ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿

 □『大津市志』

 □ 滋賀郡膳所町

 □ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)