お元気ですか?
大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。
なにをテーマに書こうかと迷いながら
2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。
2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、
気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。
戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。
通信兵だった父や防空監視隊にいた母から
聞かされた話は、
戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない
という思いを強くさせるものでした。
ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、
国家の理屈で議論が進みます。
同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。
しかし、戦争は、最悪の暴力です。
私は草の根の痛み、
どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で
書いていきたいと思っています。
あまり楽しめないブログかも知れませんが、
お気軽に感想やコメントをお寄せください。
「昭和の社」造園建設・「従軍の碑」建立のいわれを記したプレート ― 2011/09/26
京都護国神社の「昭和の社」「従軍の碑」のいわれを記したプレートがありました。その文章は以下のとおりです。
昭和のの年代は、昭和初期の世界政治経済の大混乱に端を発し、昭和6年(1931)9月18日満州事変、昭和12年(1937)7月7日支那事変、昭和14年(1939)5月12日ノモンハン事件を経て、昭和16年(1941)12月8日 米、英両大国に対する大東亜戦争へ突入、昭和20年(1945)8月15日の終戦に至るまで民族存亡の命運を賭けた対戦に進展し、地球の2分の1に当たる広大な戦域に400万余にのぼる将兵は、終始連合軍の圧倒的物量攻勢と対決、屍山血河の激戦を展開した。その間わが本土も度重なる空襲に焦土と化し、本土決戦も辞さずの一億国民の徹底抗戦の構えも原子爆弾の投下、ソ連の参戦と大勢の赴くところ、遂に聖断によりポスダム宣言受諾の止むなきに至り、15年に及ぶ大戦の幕は閉じられた。
この戦いは250余万の民族の尊い生命が失われ、想い出すだに惨烈悲痛の極みである。生還したとはいえ敗戦の汚名を甘受し、筆舌に尽し難い数々の屈辱と苦渋を乗り越え英霊となった戦友の分までもと、祖国の復興に取り組んで世界に類のない発展をなしとげた、平和な祖国の現状を見るとき、ともすれば歴史のかなたへと薄れていく、過ぎし日に思いを馳せ、この年代に生を受け、青春を、学業を、職場を、家庭をと、全てなげうって戦った意義は、アジアの植民地解放の大理想を強く信じた宿命的戦いであった。このことは歴史の証明するところである。この昭和史に残した足跡と、この戦いに参加した事実を、永く後世に伝えんと、生存せる戦友相計り、祖国日本の繁栄と世界恒久平和の願いをこめて護国の英霊鎮まる京都霊山護国神社の佳域に『昭和の社』を造園建設し併せて『従軍の碑』を建立するものである。
昭和63年10月14日
京都霊山護国神社権宮司 木村幹彦 撰文
パル判事顕彰碑@「昭和の社」(京都護国神社) ― 2011/09/26
霊山墓地(霊山官修墓地)の墓碑の紹介はしましたが、「昭和の社」については、紹介しませんでした。墓碑見学も、日露戦争までで、日中戦争・太平洋戦争まではあまりに多数のために追い切れないと思っていたからです。しかし、野田内閣の韓国との関係を見ても、下の時事通信の記事にあるように、1945年の敗戦まで続いた戦争は、いまなお政治の焦点であることをやめていません。
韓国外相、慰安婦請求権で協議提案=「解決済み」玄葉氏は拒否 時事通信 9月25日(日)0時17分配信このパル判事顕彰碑をまえにして、共通の思いを持ちました。それで、調べようと思っていたのです。
【ニューヨーク時事】玄葉光一郎外相は24日午前(日本時間同日夜)、ニューヨーク市内のホテルで韓国の金星煥外交通商相と会談した。金氏は、旧日本軍の元従軍慰安婦の賠償請求権を確認するための政府間協議を提案。玄葉氏は、1965年の日韓基本条約を挙げ「請求権問題は完全かつ最終的に解決済みだ」と拒否した上で、「この問題が日韓関係全体に悪影響を及ぼさないようにすべきだ」と冷静な対応を求めた。
金氏はまた、日本統治時代に朝鮮半島から日本に持ち込まれた古文書などの扱いに関する日韓図書協定が先に発効したことを踏まえ、「適切な時期に引き渡してほしい」と要請。玄葉氏は「韓国側の意向を尊重しながら引き渡したい」と述べた。時期について、日本側は年内を検討している。
玄葉氏は同時に、江戸時代の対馬藩の記録である「対馬宗家文書」を念頭に、日本由来で韓国政府が所蔵している図書類へのアクセス改善と消失した文化財の調査を求めた。 会談では、日韓双方が領有権を主張する竹島(韓国名・独島)問題も議題に取り上げられたが、内容は明らかにされなかった。
「徴兵」の墓碑の背面 ― 2011/09/18
「徴兵」と刻まれた墓碑 ― 2011/09/18
熊本藩の招魂碑@霊山墓地 ― 2011/09/14
熊本藩招魂社の看板@霊山墓地 ― 2011/09/14
福岡県招魂場@霊山墓地 ― 2011/09/14
福岡藩招魂社@霊山墓地 ― 2011/09/14
舊土佐藩招魂社@霊山墓地 ― 2011/09/12
岐阜県招魂場@霊山墓地 ― 2011/09/12
西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。
戦争にかかわる碑
■ 忠魂碑・慰霊碑
○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など
○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)
○ 大津市南部の忠魂碑
民間墓地の戦没者○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。
□ 滋賀県の西南戦争の戦没者
□ 高島市(高島郡)の戦没者
■ 西南戦争(西南之役) 1877年
● 戦病死者名簿
*高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)
■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年
,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)
『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。
■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年
● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)
○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿
○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
□ Aブロック 埋葬者名簿
陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある
□ Bブロック 埋葬者名簿
日清戦争期に戦病死した下士官の墓地
□ Cブロック 埋葬者名簿
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Dブロック 埋葬者名簿(作成中)
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Eブロック 埋葬者名簿
■ 大津市作成の名簿順
■ あいうえお順
日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。
□ Fブロック 埋葬者名簿
明治8年から11年までに病死した下士官と
兵卒の墓碑が37基
□ Kブロック 埋葬者名簿
「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
すべて兵卒の墓碑。
□ Lブロック 埋葬者名簿
「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
合計98基。すべて兵卒の墓碑。
□ Mブロック 埋葬者名簿(作成中)
陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)
□ 西南戦争の戦死者
□ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿
□『大津市志』
□ 滋賀郡膳所町
□ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)
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