お元気ですか?

大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。


なにをテーマに書こうかと迷いながら

2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。

2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、

気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。


戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。

通信兵だった父や防空監視隊にいた母から

聞かされた話は、

戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない

という思いを強くさせるものでした。

ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、

国家の理屈で議論が進みます。

同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。

しかし、戦争は、最悪の暴力です。

私は草の根の痛み、

どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で

書いていきたいと思っています。


あまり楽しめないブログかも知れませんが、

お気軽に感想やコメントをお寄せください。


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『謡曲「関寺小町」と牛塔』の看板は味わいがある2007/10/26

さっきの小町の石碑から、ここに目を移し、読み進むと、いかがわしい石碑だなぁという気分がふっとんでしまう。

そして、今日ここへ来てよかった。
この謡曲を聴いてみたいなぁとかいう気分にさえなる。
巨大キノコにしか思えない牛塔さえ、神々しく見える。

 そして、なによりも、そういうものがこのように残っている大津というまちが、魅力的に思えるのではないだろうか。

なにげなく読んだ石碑に目が点!2007/10/26

え!?小野小町の文字が見えます
 さっきの塚以外にも、いたるところに、地蔵さんが置かれています。この写真のなかでも、多数あるのが見えます。

 ところで、これはなに?

と私は、思いました。
 横の石碑の文字を読んで、「え!」と固まりました。
 歴史的なビッグネームが書かれているからです。
 「小野小町」

 大津のこの寺とどういう関係???

埋れ百体地蔵2007/10/26

埋れ百体地蔵(の一部)
大津市逢坂学区の長安寺にある塚です。

このいわれは、一つ前のブログの立て札の写真を見てください。

この塚の横に、「三界万霊 百体地蔵」と刻まれた石碑があります。

日露戦争で病死した20歳陸軍歩兵二等卒の墓石2007/10/26

日露戦争で病死した20歳陸軍歩兵二等卒の墓石
月見山墓地は、明治以前の墓石をはじめ、
戦死者の墓石が多数あった。
墓石の間隔の狭さを感じたのは、
ここが、JR線の拡幅によって、
土地を削減された結果である。
その分、移設して狭くなったのだ。

日露戦争の墓石は、2柱あった。
そのひとつがこれである。

黒ずんでいる。、
私は、色や形ですぐわかるようになった。
変な嗅覚がついだのだ。

●陸軍歩兵二等卒 山本治三郎

明治44年『大津市志』に記述があった。

大津市柳町八番屋敷
陸軍歩兵二等卒 山本治三郎
明治十七年九月十五日生
明治三十七年徴兵出身現役として歩兵第九連隊に属し、三十七八年戦役(日露戦争のこと)に従軍各地戦闘。明治三十八年四月十二日清国莫家堡にて脚気症に罹り同月二十三日蘇胡堡定立病院に於て同病に依り死亡。同日従軍記章を授け賜ひ、同四十年五月靖国神社に合祀せらる。

●脚気

 脚気は治療法が知られておらず、日清戦争もそうだが、多数の死者をだしたらしい。

フェノロサの墓の全体2007/09/17

 立て札があるので、ここだとわかりました。
 これが全体の姿です。

法明院のパンフレット2007/09/17

法明院さんの自己紹介パンフレットです。

玄関の土間に無料の資料がおいてあります。これはフェノロサについて。2007/09/17

フェノロサのお墓を見に法明院へ。
入り口の「100円よろしく」を見つけて、これこれと思っていました。
お墓は、左手の門をくぐった庭の向こうにあるそうです。
門に入る前に、お寺の玄関の土間をみると、書類が石で押さえてありました。ちかづくと、訪問客用に資料をおいていただいているのです。

 資料は二枚。
 フェノロサと法明院について。

 フェノロサについてはこれ。

入り口に100円よろしくと書いてあるところでしょ2007/09/17

 フェノロサの墓の話を友人にしたら、「入り口に100円いれてと書いてあるとこね」という反応。
 有名な人物のお墓があるのに、またがっちりお金をとる時代に、訪問者を信頼している(監視人がいない)ことが意外だったということで、本物の墓以上に印象に残ったのでしょうね。

法明院の看板2007/09/17

 大津市にある法明院を訪れました。

目的は、フェノロサの墓を見るためです。

入り口近くにある看板はこれ。

石のキノコの正体はこれです・・・牛塔2007/09/16

石のキノコの横に、立て看板があります。

                            


BIN★「この記なんの記」ブログ情報 August 12 , 2011



 西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。

戦争にかかわる碑

  ■ 忠魂碑・慰霊碑

    ○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など

    ○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)

    ○ 大津市南部の忠魂碑

民間墓地の戦没者

 □ 滋賀県の西南戦争の戦没者

 □ 高島市(高島郡)の戦没者

  ■ 西南戦争(西南之役) 1877年

   ● 戦病死者名簿

      *高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)

  ■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年

   ,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)

      『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。

  ■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年

   ● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)

      ○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿

    ○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。

 公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
 □ ブロック 埋葬者名簿

     陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある

 □ ブロック 埋葬者名簿

     日清戦争期に戦病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

  ■ 大津市作成の名簿順

  ■ あいうえお順

     日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治8年から11年までに病死した下士官と
          兵卒の墓碑が37基


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
         すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
          合計98基。すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)

 □ 西南戦争の戦死者

 □ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿

 □『大津市志』

 □ 滋賀郡膳所町

 □ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)