お元気ですか?

大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。


なにをテーマに書こうかと迷いながら

2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。

2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、

気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。


戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。

通信兵だった父や防空監視隊にいた母から

聞かされた話は、

戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない

という思いを強くさせるものでした。

ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、

国家の理屈で議論が進みます。

同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。

しかし、戦争は、最悪の暴力です。

私は草の根の痛み、

どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で

書いていきたいと思っています。


あまり楽しめないブログかも知れませんが、

お気軽に感想やコメントをお寄せください。


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広島と倉敷を一日で訪れる2011/09/24

 午前6時50分に京都駅を出発し、8時30分に広島到着。わずか2時間後には、倉敷に向けて出発。正午には倉敷で親戚と合流。夜の8時には、自宅に戻る---という一日を過ごしました。
 目的地は、広島の比治山陸軍墓地と倉敷の大原美術館。
 二箇所とも、じっくり時間をかけて見学したい場所でしたが、一日しか休暇がとれませんでした。
 それらについて、書いていきます。

雷雨をうけとめる2011/08/16

雷雨
 日常の繰り返しをしているときには、気がつかないけれど、旅先のなんでもないことが、妙に、なつかしくなるときがある。シャッターを押しながら、次々と過去となっていく”今”の意味を考えていた。
 東日本大震災のとき、暮らしの記録があとかたもなく押し流された。人々は、かけがえのない家族や知人の安否とともに、それらの人々と過ごした生活の記録を探しもとめた。写真業者の方々が見つかったネガや印字されたものを、懸命に復活させるよう力を尽くした。
 撮影すべきは家族との平凡な日々なのかも知れない。しかし、いま急に撮影し始めるのは変だし、抵抗もある。
 雷の音とともに、降り出した雨。乗り継ぎの2時間を、書店とスターバックスで過ごした長男のK君と私は、傘もなく、濡れない道を探して駅に急いだ。駅に着き、電車を待つ間、反対方向で特急ソニックが激しい雨をじっと受け止めていた。
 雷の音はカメラでは写らない。激しい雨さえ、下手な私では、写しこむことはできない。ましてや、私が抱いた思いが画面に写ることはない。けれど、意図不明の写真の画面を見ながら、”今”の意味を考えていた自分を思い出すことができるのではないかと考えた。

2倍の時間をかけて2011/08/14

徳山港を15分停車の新幹線駅から物珍しげに眺めました
 琵琶湖の畔の自宅から、九州の備後竹田駅まで、新幹線やソニックを使えば、6時間ぐらいで到着できます。お盆で指定席の予約をとらず自由席にして、始発駅から乗り込んで座って行こうという作戦。ところが、いろいろ失敗して、「こだま」に乗り込むはめに。2倍の時間がかかってしまいました。5時に起きて、勇んでいったのに・・・。
 それでも、ずっと座ることができて、私的には満足。各駅停車で、駅の乗車時間も余裕たっぷり。10分以上の停車時間も停車駅がいくつあったでしょうhか。新岩国や徳山など、売店もない駅での停車時間が長いことに矛盾は感じましたけれど、港の様子などを観察できました。内陸県人にとっては、海港はなにを見ても珍しいものばかりでした。

遅刻の恐怖2010/01/17

いまだから言えます。

13日から16日まで大事な”出張”。
午前7時29分京都発の新幹線に乗るつもりでした。
布団のなかで目が覚めたのは、午前7時過ぎ。
必死の出発準備をして、JR大津駅へ突進。
11分発の電車に乗り込み、新幹線に間に合いました。

緊張とめったにしない駆け足のために、
息はあがり、心臓に負担をかけました。

カミさんからの心配メールに、
返事をする気力もないほどでした。

道の駅こんぜの里2009/03/17

道の駅こんぜの里
大津市から信楽に向かう途中に「道の駅こんぜの里」に立ち寄る。
「県民の森」に隣接し、その付属施設のようだ。
こじんまりとしていて、茶店風。

入り口の右手が売店である。



地元の野菜が魅力的。
とりあえず、つまみのつもりで、ゴーヤの揚げ物を買う。
苦いし、少々油濃いが、やめられなくて、
家に着くまでに大半を食べつくした。

左手が「れすとらん」。



その「れすとらん」に、ネコのグッズがいくつかあった。
ネコの財布やネコの巾着。
その場で買って、カミさんにプレゼント。

でも、最近見かけない・・・。

九州めざす2人旅2008/08/15

15日の朝はサンフラワー号の甲板で
 お盆休みを九州で過ごすことにしました。法事もあるので、14日の夜のフェリーに乗り、17日の夜のフェリーで帰ります。  高校生のH君は、すでに広島に行っていて、そのまま大津に帰宅せずに大分へ。大学生のK君は、広島ら戻ったあと、ひとりでフェリーに乗り、列車を乗り継いでカミさんの里へ。
 私たち夫婦2人旅となりました。
 私は、14日の午前中まで仕事をし、大慌てで帰宅し、待っているカミさんと車で六甲アイランドへ向かいました。去年の夏休みは、妹家族をともなっての旅行でした。その前年は、家族4人で向かいましたが、お盆の渋滞を甘く見ていたので、フェリーに乗り遅れてしましました。おかげで、心と体力の準備もないまま陸送で九州までいくことになってしまいました。
 今年は、ガソリンが高騰。おかげで高速道路の渋滞は緩和されているらしいですね。それでも、心配なので、午後2時には、自宅を出発したのです。
 結局、渋滞は皆無で、余裕がありすぎる時間に六甲アイランドに到着しました。それで、フェリー乗り場に行く前に、お店によって買い物をする時間ができました。
 ダイヤモンド・フェリーと関西汽船がひとつになったおかげで、新しいサンフラワー号に乗ることができました。システムも変わりました。
 あわただしい14日が船中で終わり、15日の早朝、船外に出ました。大分港はもうすぐです。


 上の写真は、朝の光のなかで、柵にもたれながら、サンフラワー号を撮った写真です。
 面白い影に気がついてもう一枚。
 カミさんは気がつかず、手をあげて話していました。



20年ぶりに明日香村へ2008/05/06

高松塚古墳の遠望
上の写真は、高松塚古墳の遠望です。
 さて6日は、明日香村へ。もともと5日に行く予定だったのですが、天気予報が雨でしたから、1日ずらしたのです。風邪気H君は、残念ながら、参加を見合わせました。
 明日香村は、20年ほど前に行ったことがありました。そのときの印象は強烈でした。異文化に接した気持ちになったのです。
 今回は、どうでしょうか?
 JR大津駅からJR京都駅へ。近鉄に乗り換えて、橿原神宮前駅で下車。そこからレンタサイクル(1台1000円。別の場所での乗り換えは、200円の追加料金)に乗り換えて、明日香村へ向かいました。
 飛鳥駅下車でもいいのですが、乗り継ぎの電車に乗り遅れたので、橿原神宮前駅から、出発しました。
 10数分ぐらい自転車をこいでいくと、「明日香村」の標識が見えました。前回とは逆の順路から、明日香村のお寺や遺跡を巡ることになりました。
 自転車に乗り出して、すこし後悔。カミさんにも、K君にも、坂道で追いつくのは大変。
 最初に見学したのは、「明日香村埋蔵文化財展示室」。職員さんの親切な対応に感激しました。このような対応は、村中どこへ行っても感じられたことです。



 ただ、これまでになかった施設が増えたこと、全体的に観光地化し、洗練されたと思いました。
 それでも、巨石遺跡の迫力と空想力を刺激するパワーは変わっていませんでした。新たに、亀形遺跡も発見されたことですし、いっそう興味深い場所になったと思いました。
 明日香村滞在の時間帯のほとんどすべてが、自転車での移動時間。感想を語り合う時間がもてず、もうすこし急がず回りたいと思いました。

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 これで、5日と6日の連休は、それぞれ日帰りでしたが、平城京と飛鳥で過ごしたことになります。往復は、これまでのようにマイカーを使わずに公共交通機関を利用しました。その往復時間、私は、澤地久枝さんの『密約 外務省機密漏洩事件』(岩波現代文庫)を読み終わりました。カミさんはを大和和紀『あさきゆめみし』を3巻まで読んだそうです。

関宿の山菜おこわの店のテーブルに置いてありました2008/04/14

関宿のお店のテーブルの花です
関宿にいって、なにを食べようかと思っていたら、
山菜おこわがメインというお店がありました。
じゃあ、入ろうと中へ。
私は、少し遅れてお店に入りましたが、
連れの二人がいない。
探したら、奥の部屋にいました。
タバコの煙がいやなので禁煙席に
換えてもらったとか。

メニューを見ました。
あとでいろいろ食べたいので、
定食ではなく、軽目にすることに。
それで、「山菜おこわ」にしました。

「単品ですか?」
「いえいえ、これです。そばもついているもの」
「はい、単品ですね」
隣のテーブルにあとから来られた方も
「単品ですか」と聞かれていました。
それがあまりに頻繁なので、
「単品じゃだめなのか?」とつっこみを
いれたくなるほどでした(笑)。

注文したあとの待ち時間、
観光地図を眺めていましたが、
テーブルのうえには、小さな花瓶。
お、スミレ・・がある・・・でもちがうぞ。
なんだろうこれ。変に膨れている。
・・・ということで写真撮影。
フラッシュをたいたので、後ろは真っ暗。

さて、この花はなんなんだろう。
ひとつは菜の花。

「タビ(旅)は旅行とちがいます」2008/04/10

自転車ひとつで一人旅
 この方とは、大津市のなぎさ公園で出会いました。
 私が自動販売機とトイレが近くにあるベンチで休んでいると、そこに自転車でやってこられました。
高齢者の方でしたが、マウンテンバイクっぽい自転車との取り合わせが面白かったので、声をかけました。

 「どこからこられましたか?」
 「東京です。」
 「自転車で?」
 「そうです。」

 私は、驚きました。それから話はつづきました。

 「冬はつらいけれど、春はいいです。シュラフひとつでどこでも寝れますから。ただ、最近はそうしていると危ない目にあうので困りますが。水もいまは自動販売機がどこでもあり、お金さえあればなんとかなります。」

私がじっと聞いていると、突然つぎのように言われました。

「 私がしているのは旅(たび)であって、旅行ではありません。」

  私は、”タビ(旅)”も”旅行”も同じだと思っていました。
 でも、この人が区別しているのには、わけがあるのでしょう。

 お話を聞いていると、「旅行」とはお金を使って遊ぶこと。楽しむだけのもの。「旅」とは、つらいこともあるけれど、趣味なのではじめた以上は続けるもの。・・・そういうことだと思って聞きました。

 お体に気をつけてくださいといって分かれました。  正面からの写真も撮っていいよということでしたので記念に撮らせてもらいました。ブログでは、その写真はやめて、遠くからのものにしました。

この方をどういう「旅」が待ち構えているのでしょうか。
 「なぜ、そういう旅をはじめられたのか」などゆっくりお話がきけるとよかったのにと悔やみました。
もうお出会いすることもないでしょうに。

「縄文杉」に引き寄せられる私たち2008/04/02

縄文杉とわたしたち人間
 3月29日に10時間かけて、屋久島の縄文杉を見てきました。
 「トロッコ道が、8.3キロ。山道が2.7キロ。合計片道11キロ、往復で22キロ、高低差700メートル、日帰り登山としては限界です。」とあるブログに書かれていたコースです。
 29日から30日の日記に、その記録をアップしています。まだ、全部はアップできないでいますので、興味のある方は、「屋久島」カテゴリで時間と日をあけて、チェックしてください。
 リアルタイムの日記にアップする家族の記録とは別に、私が感じたことを書いてみたいと思います。

●巨人の森の王

 縄文杉そのものは、威厳がある木でした。異形といえばいいのでしょうか。その太い幹と人間の顔にも見える形態は、近づくものを威圧します。それは、まさに、巨人ぞろいの森のなかの王にふさわしいものでした。
 私の期待は裏切られませんでした。

●囲われた巨人

 私が興ざめに感じたことは、その巨人が人間の目に容赦なくさらされていることです。
 たしかに、道が整備されたとはいえ、容易に近づくことはできません。往復10時間も歩き詰めて、わずか10数分程度、その周りに立つことができるだけです。
 その意味では、非日常的な遠い存在なのです。
 しかし、心無い人が縄文杉を傷つける事件があったこともあり、周りには、木組みの展望台が設けられています。
 それは、ひどい言い方かも知れませんが、動物園かなにかを連想させます。目的が保護にあったとしても、やはり、自然のたたずまいを傷つけているのは否めません。
 自分も見に行った一人ですから、言う資格がありません。きっとまた会いたい思うことでしょう。
 矛盾したことを言っているのはよくわかりますが、人間の営みから離れて、自然の森に毅然と立っている姿に返してあげたい。動物園のなかのライオンではなく、自然に生きる王としての姿に返してあげたいと思ったのです。

●環境を守り抜く人間社会のなかで

 きっとそれは不可能ではないと思いました。縄文杉だけではなく、屋久島全体が世界自然遺産に登録されたことで、私は、この島の自然への尊敬をもちました。実際にこの島に出会って、その気持ちを強めました。縄文杉が人の目に自分を晒すことで訴えていることがあるとすれば、自然への畏敬の念をもてということでしょう。
 それは衝撃として見た人に伝わります。
 ボールは人間に返されたわけですから、それを受け止め、行動する番ですね。

                            


BIN★「この記なんの記」ブログ情報 August 12 , 2011



 西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。

戦争にかかわる碑

  ■ 忠魂碑・慰霊碑

    ○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など

    ○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)

    ○ 大津市南部の忠魂碑

民間墓地の戦没者

 □ 滋賀県の西南戦争の戦没者

 □ 高島市(高島郡)の戦没者

  ■ 西南戦争(西南之役) 1877年

   ● 戦病死者名簿

      *高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)

  ■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年

   ,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)

      『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。

  ■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年

   ● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)

      ○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿

    ○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。

 公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
 □ ブロック 埋葬者名簿

     陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある

 □ ブロック 埋葬者名簿

     日清戦争期に戦病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

  ■ 大津市作成の名簿順

  ■ あいうえお順

     日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治8年から11年までに病死した下士官と
          兵卒の墓碑が37基


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
         すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
          合計98基。すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)

 □ 西南戦争の戦死者

 □ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿

 □『大津市志』

 □ 滋賀郡膳所町

 □ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)