お元気ですか?
大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。
なにをテーマに書こうかと迷いながら
2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。
2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、
気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。
戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。
通信兵だった父や防空監視隊にいた母から
聞かされた話は、
戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない
という思いを強くさせるものでした。
ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、
国家の理屈で議論が進みます。
同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。
しかし、戦争は、最悪の暴力です。
私は草の根の痛み、
どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で
書いていきたいと思っています。
あまり楽しめないブログかも知れませんが、
お気軽に感想やコメントをお寄せください。
『大正四年乃至九年戦役戦病死者之碑』@旧大津陸軍墓地 ― 2009/07/30
旧大津陸軍墓地には、
戦前に建設されたものとしては、
五つの合葬墓碑があります。
形状は、ほぼおなじ。
そのうち4柱は、日露戦争のものです。
「明治三十七・八年戦役将校同相當官戦病死者合葬碑」
「明治三十七・八年戦役准士官戦病死者合葬碑」
「明治三十七・八年戦役下士官戦病死者合葬碑」」
「明治三十七・八年戦役兵卒戦病死者合葬碑」
死後も階級区分を貫く姿勢が際だっています。
そして、合葬碑の大きさも位置も変えられています。
これらについては、これ以上の疑問はありません。
5つ目の合葬碑は、写真のものです。
「大正四年乃至九年戦役戦病死者之碑」
西暦でいくと、1915~1920年の戦争。
この年代から、旧日本軍も参戦した
第一次大戦とシベリア出兵の
犠牲者の墓碑と思いました。
あるとき、ネットを検索していて、
「大正三年乃至九年戦役從軍記章 」
というのを見つけました。
それで、疑問がわいたのです。
なぜ、大正三(1914)年が
含まれないのだろう?
この従軍記章は、「大正三年乃至四年戦役」
つまり、対独戦争のものだったのです。
しかし、戦争の長期化で名称も変わっていきます。
大正9(1920)年以降は、
「大正三年乃至九年戦役従軍記章」が
授与されるようになったそうです。
ここに眠る将兵たち(第九聯隊)が
現実に上記の戦闘に参加したのは、
大正四(1915)年以降ということを
表しているのでしょうか。
ちなみに、静岡陸軍墓地には、
「大正三・四年戦役戦病死下士兵卒碑」
というのがあるそうです。
全国的には、第一次世界大戦とシベリア出兵の
犠牲者の碑は少ないのでしょうか?
ちなみに写真の碑は、
「大正十一年六月 建之」
戦前に建設されたものとしては、
五つの合葬墓碑があります。
形状は、ほぼおなじ。
そのうち4柱は、日露戦争のものです。
「明治三十七・八年戦役将校同相當官戦病死者合葬碑」
「明治三十七・八年戦役准士官戦病死者合葬碑」
「明治三十七・八年戦役下士官戦病死者合葬碑」」
「明治三十七・八年戦役兵卒戦病死者合葬碑」
死後も階級区分を貫く姿勢が際だっています。
そして、合葬碑の大きさも位置も変えられています。
これらについては、これ以上の疑問はありません。
5つ目の合葬碑は、写真のものです。
「大正四年乃至九年戦役戦病死者之碑」
西暦でいくと、1915~1920年の戦争。
この年代から、旧日本軍も参戦した
第一次大戦とシベリア出兵の
犠牲者の墓碑と思いました。
あるとき、ネットを検索していて、
「大正三年乃至九年戦役從軍記章 」
というのを見つけました。
それで、疑問がわいたのです。
なぜ、大正三(1914)年が
含まれないのだろう?
この従軍記章は、「大正三年乃至四年戦役」
つまり、対独戦争のものだったのです。
しかし、戦争の長期化で名称も変わっていきます。
大正9(1920)年以降は、
「大正三年乃至九年戦役従軍記章」が
授与されるようになったそうです。
ここに眠る将兵たち(第九聯隊)が
現実に上記の戦闘に参加したのは、
大正四(1915)年以降ということを
表しているのでしょうか。
ちなみに、静岡陸軍墓地には、
「大正三・四年戦役戦病死下士兵卒碑」
というのがあるそうです。
全国的には、第一次世界大戦とシベリア出兵の
犠牲者の碑は少ないのでしょうか?
ちなみに写真の碑は、
「大正十一年六月 建之」
大正7年至同11年西伯利出兵時に於ける憲兵報告西受号より、憲兵司令官 石光眞臣が大正9年7月五日報告文 ― 2007/11/04
陸軍省受領西受第一五九三号 憲警第三六五号 在営延期中ノ下士卒帰還並退営状況ノ件報告 大正九年七月五日 憲兵司令官 石光眞臣 陸軍大臣 田中義一殿 大正八年十二月以降在営延期中ナリシ歩兵第九連隊下士以下四百六十三名(外ニ留守隊要員二百四十六名)ハ六月二十三日西伯利ヨリ宇品経由屯営帰着留守隊残留員ヲ合シ除隊員七百四十五名ハ六月二十六日退営セリ其ノ状況左記ノ通及報告候也帰還ノ状況大津駅到着並帰営ノ状況帰還部隊ハ六月二十三日午後六時四分大津駅着軍用列車ニテ帰着セリ帰還者ハ到着ト共ニ各自日章旗ヲ打振リ万歳ヲ連呼シ出迎者之ニ呼応シテ盛観ヲ呈シタリ歓迎ノ状況当日大津駅ニハ歩兵第九連隊留守隊長以下大津市在住将校
シベリア出兵の記録をとどめる個人墓碑 ― 2007/10/17
戦争犠牲者の墓をたずねて ― 2007/09/20
8月10日に、一般墓地で、戦没者のお墓を偶然見て回りました。
http://nostalghia.asablo.jp/blog/2007/08/10/1715972
そのときから、自分のなかでなにかが変わりはじめました。
http://nostalghia.asablo.jp/blog/2007/08/10/1716136
思いが決定的になったのは、陸軍墓地にいくことを決めて、実際に見て回ったときでした。
http://nostalghia.asablo.jp/blog/2007/09/04/1769121
そのときにも書きましたが、それら戦争犠牲者のお墓は、戦争は教科書や学校できくような知識や教養の類ではなく、まぎれもない痛みと悲しみをいまも引きずる現実だと教えてくれるのです。
他の方のブログで、戦争肯定ややむをえないなどの議論を目にするたびに違和感を感じます。たとえは変ですが、外野席からの評論に思えるのです。野球は選手だけでたたかわれて、ファールボールに当たる危険はあったにしても、観客席は安全そのもの。なにをどう言おうが、言っている人に直接かかわるものではありません。しかし、戦争とは、それを評論家のつもりで語る人も含んで、だれもがいやおうなしに巻きこまれる事件なのです。本人が死に直面することもあるだろうし、自分の親しい人が亡くなる場合もあるでしょう。血肉が飛び散ったり、腐臭がただよう現実を他人事のように、しかたがないというのは、自分は外野席にいると錯覚しているか、自分の感性を凍結した議論だと思います。
人として起こしてはならないもの、それが戦争だとう出発点が、すわらないのでしょう。航空機事故の無残な姿と遺族のやり場のない悲しみを前にして、飛行機はたくさん飛んでいるからそういうこともあるさと平気でいえるでしょうか。
戦争犠牲者、兵士のお墓は形に特徴があります。
背が高いし、☆のマークがついています。どんなに広い墓地でも、すぐに見つけることができます。
これまでに、4つの墓地を訪ねました。
まったく無人のところも2つありました。しかし、大きい墓地では、墓守さんがいらっしゃいます。最初、そのことに気がつきませんでしたが、それ以降は、最初に挨拶をして、許しをいただいてから、回っています。
●日清戦争のお墓は、一般墓地ではまだ見ることができません。
大津陸軍墓地では日清戦争の犠牲者がほとんどだと
思われるほど立ち並んでいます。
http://nostalghia.asablo.jp/blog/2007/09/04/1769188
●日露戦争のお墓は、どの墓地でも少ないですが、見ることができます。
http://nostalghia.asablo.jp/blog/2007/08/10/1716059
しかし、もはや文字の判読ができないお墓があります。
「昔はよい石材がなくて、粗い御影石を使うとすぐに、文字が
うすれてしまう」と遺族会館の方もおっしゃっていました。
●シベリア出兵の犠牲者のお墓は見つけました。
年代とロシアの地名から、
それがまぎれもない事実だと確認できたのです。
墓守さんは、「海外での戦士された方のお骨が帰ってきません。
お墓には、骨がないのです」とおっしゃていました。
●大半は、第二次世界大戦(太平洋戦争・15年戦争)の
犠牲者のお墓です。
●かならずといっていいほど、戦死の日付、場所が刻まれています。
しかし、漠然とした地名、地名ともいえない地名が刻まれているお墓も
あります。当然、お骨は帰っていないはず。
●ときに年齢が刻まれていますが、ほとんどが20代前半なのです。
それを刻んだ遺族の無念の気持ちが伝わってきます。
●もっとも心が痛むのは、「母○○が建立」とある碑です。
母が建立する戦死した20代の息子のお墓・・・人として
気持ちを察することができる人なら、だれしも絶句するはずのお墓です。
上の写真は、大津市でも一番もしくは二番ぐらいに旧い墓地、高山寺墓地から琵琶湖方面を写したものです。ここには、明治よりはるか昔のお墓もあります。しかも、それがいまもなお墓参され、維持されているのです。
死んだ人の記憶は、生きている人のなかにいつまでも生きるのです。生きているかぎりですが。
http://nostalghia.asablo.jp/blog/2007/08/10/1715972
そのときから、自分のなかでなにかが変わりはじめました。
http://nostalghia.asablo.jp/blog/2007/08/10/1716136
思いが決定的になったのは、陸軍墓地にいくことを決めて、実際に見て回ったときでした。
http://nostalghia.asablo.jp/blog/2007/09/04/1769121
そのときにも書きましたが、それら戦争犠牲者のお墓は、戦争は教科書や学校できくような知識や教養の類ではなく、まぎれもない痛みと悲しみをいまも引きずる現実だと教えてくれるのです。
他の方のブログで、戦争肯定ややむをえないなどの議論を目にするたびに違和感を感じます。たとえは変ですが、外野席からの評論に思えるのです。野球は選手だけでたたかわれて、ファールボールに当たる危険はあったにしても、観客席は安全そのもの。なにをどう言おうが、言っている人に直接かかわるものではありません。しかし、戦争とは、それを評論家のつもりで語る人も含んで、だれもがいやおうなしに巻きこまれる事件なのです。本人が死に直面することもあるだろうし、自分の親しい人が亡くなる場合もあるでしょう。血肉が飛び散ったり、腐臭がただよう現実を他人事のように、しかたがないというのは、自分は外野席にいると錯覚しているか、自分の感性を凍結した議論だと思います。
人として起こしてはならないもの、それが戦争だとう出発点が、すわらないのでしょう。航空機事故の無残な姿と遺族のやり場のない悲しみを前にして、飛行機はたくさん飛んでいるからそういうこともあるさと平気でいえるでしょうか。
戦争犠牲者、兵士のお墓は形に特徴があります。
背が高いし、☆のマークがついています。どんなに広い墓地でも、すぐに見つけることができます。
これまでに、4つの墓地を訪ねました。
まったく無人のところも2つありました。しかし、大きい墓地では、墓守さんがいらっしゃいます。最初、そのことに気がつきませんでしたが、それ以降は、最初に挨拶をして、許しをいただいてから、回っています。
●日清戦争のお墓は、一般墓地ではまだ見ることができません。
大津陸軍墓地では日清戦争の犠牲者がほとんどだと
思われるほど立ち並んでいます。
http://nostalghia.asablo.jp/blog/2007/09/04/1769188
●日露戦争のお墓は、どの墓地でも少ないですが、見ることができます。
http://nostalghia.asablo.jp/blog/2007/08/10/1716059
しかし、もはや文字の判読ができないお墓があります。
「昔はよい石材がなくて、粗い御影石を使うとすぐに、文字が
うすれてしまう」と遺族会館の方もおっしゃっていました。
●シベリア出兵の犠牲者のお墓は見つけました。
年代とロシアの地名から、
それがまぎれもない事実だと確認できたのです。
墓守さんは、「海外での戦士された方のお骨が帰ってきません。
お墓には、骨がないのです」とおっしゃていました。
●大半は、第二次世界大戦(太平洋戦争・15年戦争)の
犠牲者のお墓です。
●かならずといっていいほど、戦死の日付、場所が刻まれています。
しかし、漠然とした地名、地名ともいえない地名が刻まれているお墓も
あります。当然、お骨は帰っていないはず。
●ときに年齢が刻まれていますが、ほとんどが20代前半なのです。
それを刻んだ遺族の無念の気持ちが伝わってきます。
●もっとも心が痛むのは、「母○○が建立」とある碑です。
母が建立する戦死した20代の息子のお墓・・・人として
気持ちを察することができる人なら、だれしも絶句するはずのお墓です。
上の写真は、大津市でも一番もしくは二番ぐらいに旧い墓地、高山寺墓地から琵琶湖方面を写したものです。ここには、明治よりはるか昔のお墓もあります。しかも、それがいまもなお墓参され、維持されているのです。
死んだ人の記憶は、生きている人のなかにいつまでも生きるのです。生きているかぎりですが。
気がつかなかった第一次世界大戦とシベリア出兵の碑 ― 2007/09/14
すでに目にしながら、紹介が抜けている碑がありました。
それは、第一次世界大戦とシベリア出兵の碑です。
第一次世界大戦には、日英同盟を口実に、
列強が争っている隙に、ドイツのアジア植民地を
わがものにしようと出兵しています。
旧第九連隊も出兵していて、犠牲者を出しています。
さらに、ロシア革命が起こったあとの、シベリア出兵でも、
第九連隊は動員され、犠牲者を出しています。
「第九連隊の碑」の碑文にもそのことは出ています。
http://nostalghia.asablo.jp/blog/2007/09/11/1790143
「第一次世界大戦の碑」とか、「シベリア出兵の碑」とかいう
名称の碑はありません。
しかし、第一次世界大戦は1914~18年=大正3年~同7年。
シベリア出兵は、1918~1925年=大正7年~14年
1920(大正9)年には、アムール川の河口にあるニコライエフスク港(尼港)でロシア守備隊との衝突も起きています。
歴史的な年代をわきまえていなかったので、見落としたのです。
つまり、日本側から言えば、
第一次世界大戦=「大正四年戦役」
シベリア出兵 =「大正九年戦役」
だったのです。
上の碑には、つぎのように刻まれています。
「大正四年乃至九年戦役戦病死者之碑」
*この二つの「戦役」での大津第九連隊の動きについての私の記述は、正確にする必要がありますね。
それは、第一次世界大戦とシベリア出兵の碑です。
第一次世界大戦には、日英同盟を口実に、
列強が争っている隙に、ドイツのアジア植民地を
わがものにしようと出兵しています。
旧第九連隊も出兵していて、犠牲者を出しています。
さらに、ロシア革命が起こったあとの、シベリア出兵でも、
第九連隊は動員され、犠牲者を出しています。
「第九連隊の碑」の碑文にもそのことは出ています。
http://nostalghia.asablo.jp/blog/2007/09/11/1790143
「第一次世界大戦の碑」とか、「シベリア出兵の碑」とかいう
名称の碑はありません。
しかし、第一次世界大戦は1914~18年=大正3年~同7年。
シベリア出兵は、1918~1925年=大正7年~14年
1920(大正9)年には、アムール川の河口にあるニコライエフスク港(尼港)でロシア守備隊との衝突も起きています。
歴史的な年代をわきまえていなかったので、見落としたのです。
つまり、日本側から言えば、
第一次世界大戦=「大正四年戦役」
シベリア出兵 =「大正九年戦役」
だったのです。
上の碑には、つぎのように刻まれています。
「大正四年乃至九年戦役戦病死者之碑」
*この二つの「戦役」での大津第九連隊の動きについての私の記述は、正確にする必要がありますね。
西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。
戦争にかかわる碑
■ 忠魂碑・慰霊碑
○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など
○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)
○ 大津市南部の忠魂碑
民間墓地の戦没者○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。
□ 滋賀県の西南戦争の戦没者
□ 高島市(高島郡)の戦没者
■ 西南戦争(西南之役) 1877年
● 戦病死者名簿
*高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)
■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年
,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)
『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。
■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年
● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)
○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿
○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
□ Aブロック 埋葬者名簿
陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある
□ Bブロック 埋葬者名簿
日清戦争期に戦病死した下士官の墓地
□ Cブロック 埋葬者名簿
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Dブロック 埋葬者名簿(作成中)
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Eブロック 埋葬者名簿
■ 大津市作成の名簿順
■ あいうえお順
日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。
□ Fブロック 埋葬者名簿
明治8年から11年までに病死した下士官と
兵卒の墓碑が37基
□ Kブロック 埋葬者名簿
「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
すべて兵卒の墓碑。
□ Lブロック 埋葬者名簿
「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
合計98基。すべて兵卒の墓碑。
□ Mブロック 埋葬者名簿(作成中)
陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)
□ 西南戦争の戦死者
□ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿
□『大津市志』
□ 滋賀郡膳所町
□ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)
最近のコメント