お元気ですか?
大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。
なにをテーマに書こうかと迷いながら
2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。
2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、
気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。
戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。
通信兵だった父や防空監視隊にいた母から
聞かされた話は、
戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない
という思いを強くさせるものでした。
ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、
国家の理屈で議論が進みます。
同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。
しかし、戦争は、最悪の暴力です。
私は草の根の痛み、
どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で
書いていきたいと思っています。
あまり楽しめないブログかも知れませんが、
お気軽に感想やコメントをお寄せください。
水谷孝信『湖国に模擬原爆が落ちた日』を読む ― 2013/09/03
この本には「滋賀の空襲を追って」というサブタイトルが付いています。高島市の今津図書館に立ち寄ったとき、偶然、手に取りました。強い印象をもったのは、空襲の被害の実際がいまだに解明されていないということ、体験者の話をきくのも、そろそろ限界のときになりつつあるということでした。
Amazonに注文して、今読んでいます。
この本に刺激され、ブログとこのブログの主題に戻ってくることにしました。
Amazonに注文して、今読んでいます。
この本に刺激され、ブログとこのブログの主題に戻ってくることにしました。
「昭和二十九年建立」の四基 ― 2011/08/18
共同墓地の入口に、巨大な戦死者の墓碑が置かれている一方で、つつましげな墓碑が同じ大きさと形で並んでいる光景に出合います。墓地のありふれた姿になって想像力を掻き立てられることもなくなっていました。
じっと目をこらすと、どれも「昭和二十九年建立」となっています。戦後9年が経ってから建てられた墓碑、天皇の名による戦争が否定され、現憲法が施行されて7年目の夏に建てられた墓碑ということになります。
建立のときは同じでも、死亡年月日も死亡場所も異なります。
じっと目をこらすと、どれも「昭和二十九年建立」となっています。戦後9年が経ってから建てられた墓碑、天皇の名による戦争が否定され、現憲法が施行されて7年目の夏に建てられた墓碑ということになります。
建立のときは同じでも、死亡年月日も死亡場所も異なります。
○陸軍歩兵伍長 松井光雄これらの地名は、ただちに場所を思い浮かべることができないほど疎遠な土地です。「方面」という表現がでてきますが、それは付近という意味なのでしょうか。それとも、独自の意味合いがあるのでしょうか。
昭和十九年十一月十六日
南支方面ニ於イテ戦病死
○陸軍伍長 松井正也
昭和二十年三月二日
ビルマ国メイクテーラ方面ニ於イテ戦死
○陸軍衛生兵長 山田巌
昭和二十年十月十一日
ルソン島第一病院ニ於イテ戦死
○海軍上等機関兵 寺内謙一
昭和二十年二月十九日
コレヒドール島ニ於イテ戦死
「昭和二十年二月一日 比島レイテ島戦死」~二人の墓碑~ ― 2011/08/12
「昭和十九年七月十八日於マリヤナ島方面戦死」 ― 2011/08/12
「昭和十九年七月十八日於マリヤナ島方面戦死」---戦死した場所に「方面」がついていることに違和感があります。しかし、東日本大震災のとき、津波にのまれた人たちのすべて見つかっているわけでもありません。どこで、どうして最後を迎えたのかも、わからない状態は、痛ましい限りです。日付も不安が残ります。ましてや、遺骨は帰ってきていないことでしょう。
「昭和十九年十二月二十四日ボルネオノ北岸ノ戦闘ニテ戦死ス 二十三歳」 ― 2011/08/12
「昭和十九年十二月二十四日ボルネオノ北岸ノ戦闘ニテ戦死ス 二十三歳」---陸軍上等兵の墓碑には、こう刻まれています。戦史を検証すれば、どういう「戦闘」であったのかはわかりますが、この若者の生きた姿は、友人や遺族の胸のなかにしか見ることはできないのです。
「昭和十九年六月十九日午後三時三十分太平洋上ニテ戦死 四十二歳」 ― 2011/08/12
「昭和十九年六月十九日午後三時三十分太平洋上ニテ戦死 四十二歳」---戦死者の墓碑に刻まれたこの文言は、きっと戦死の通知をなぞったものなのでしょう。人生の最後の瞬間に、どうしう死に方をしたのか知りたいと願う気持ちに、応えた文面には思えません。それでも、最後を伝える唯一の言葉だったのでしょう。下士官であるとはいえ、四十二歳は高齢です。墓碑の「忠」という字が私には痛ましく思えます。
唯一の女性戦死者・宮田愛子@「戦没者御遺影」(今津町) ― 2011/08/03
第一草薙隊(特攻隊)中西三津夫飛曹の墓碑 ― 2010/11/30
偶然、「草薙隊」(特攻隊)の記事を読みました。
そこで、大津市の中部(京阪穴太駅山手)にある墓地を思い出しました。そこには、この隊の隊員で、神風特攻隊で戦死した若者の墓碑があったからです。
名前は、中西三津夫。
上の写真では左の墓碑です。
昭和20年4月6日に戦死。
碑文では海軍少尉となっています。
この墓碑のことは、調べたことがありありました。
碑文から、所属が草薙隊とわかりました。
ネットで検索をかけると、下のビデオの後半に、
中西三津夫が出てきます。 若い顔の写真です。
それも当然、20歳!・・での戦死でした。
無惨な時代でした。
□参考サイト
海軍特攻隊の想い出「蒼空の果てに」
→ここをクリック。
このサイトの記事を読むと、特攻に出撃することなく、多数の若者が訓練中の事故で死亡していることがわかります。悲惨きわまりない記録でした。
□参考ブログ
老兵の繰り言
→ここをクリック。
元特攻隊員の方が書かれています。草薙隊の名簿もここで見つけました。
そこで、大津市の中部(京阪穴太駅山手)にある墓地を思い出しました。そこには、この隊の隊員で、神風特攻隊で戦死した若者の墓碑があったからです。
名前は、中西三津夫。
上の写真では左の墓碑です。
昭和20年4月6日に戦死。
碑文では海軍少尉となっています。
この墓碑のことは、調べたことがありありました。
碑文から、所属が草薙隊とわかりました。
ネットで検索をかけると、下のビデオの後半に、
中西三津夫が出てきます。 若い顔の写真です。
それも当然、20歳!・・での戦死でした。
無惨な時代でした。
□参考サイト
海軍特攻隊の想い出「蒼空の果てに」
→ここをクリック。
このサイトの記事を読むと、特攻に出撃することなく、多数の若者が訓練中の事故で死亡していることがわかります。悲惨きわまりない記録でした。
□参考ブログ
老兵の繰り言
→ここをクリック。
元特攻隊員の方が書かれています。草薙隊の名簿もここで見つけました。
「沖縄戦殉職医療人之碑」 ― 2010/11/27
西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。
戦争にかかわる碑
■ 忠魂碑・慰霊碑
○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など
○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)
○ 大津市南部の忠魂碑
民間墓地の戦没者○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。
□ 滋賀県の西南戦争の戦没者
□ 高島市(高島郡)の戦没者
■ 西南戦争(西南之役) 1877年
● 戦病死者名簿
*高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)
■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年
,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)
『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。
■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年
● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)
○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿
○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
□ Aブロック 埋葬者名簿
陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある
□ Bブロック 埋葬者名簿
日清戦争期に戦病死した下士官の墓地
□ Cブロック 埋葬者名簿
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Dブロック 埋葬者名簿(作成中)
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Eブロック 埋葬者名簿
■ 大津市作成の名簿順
■ あいうえお順
日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。
□ Fブロック 埋葬者名簿
明治8年から11年までに病死した下士官と
兵卒の墓碑が37基
□ Kブロック 埋葬者名簿
「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
すべて兵卒の墓碑。
□ Lブロック 埋葬者名簿
「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
合計98基。すべて兵卒の墓碑。
□ Mブロック 埋葬者名簿(作成中)
陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)
□ 西南戦争の戦死者
□ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿
□『大津市志』
□ 滋賀郡膳所町
□ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)
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