お元気ですか?

大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。


なにをテーマに書こうかと迷いながら

2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。

2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、

気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。


戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。

通信兵だった父や防空監視隊にいた母から

聞かされた話は、

戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない

という思いを強くさせるものでした。

ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、

国家の理屈で議論が進みます。

同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。

しかし、戦争は、最悪の暴力です。

私は草の根の痛み、

どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で

書いていきたいと思っています。


あまり楽しめないブログかも知れませんが、

お気軽に感想やコメントをお寄せください。


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西南戦争で田原坂で戦死した「岸嘉七」の墓碑???2011/07/29

「故陸軍歩兵一等兵 岸(?)○○○」@西万木墓地
 『高島郡誌』には、高島郡の「明治十年西南戦役戦病死者」名簿が掲載されています。全体で15名ですが、安曇村出身者は2名のみ。一人が、三尾里の日置住吉。歩兵二等卒で所属部隊は不明。明治十年六月二十九日に宮崎県三田村で死亡したと記録されています。
 もう一人が問題の、岸嘉七。安曇村大字西萬木出身。兵種不詳・階級不詳・所属部隊名不詳であり、明治十年三月十日に熊本県田原坂で亡くなったとあります。
 墓碑の形は、今回実際に見ることができた南部由松の墓碑、日置住吉の墓碑と正面の形は同じ(将棋の駒の形)であり、日清や日露の墓碑の形(砲弾型、もしくは四角柱の上に四角錐が載っている形)ではありません。
 墓碑名が判読できれば、推論など無用なわけですが、上の写真のように読み取るのがもはや困難です。「故陸軍歩兵一等兵」まではなんとか判読できそうです。私には、その次の一文字が「岸」に見えるのです。読み取れない部分も入れると「岸嘉七墓(碑)」ではないかと。
 変だと思う点は、最初の「故」。これは新しい時代の墓碑にはついていますが、西南戦争の直後の時代につけたのかどうか、自信がありません。ちなみに、確実に西南戦争の戦死者である海津村の南部由松の墓碑は「陸軍兵卒南部由松碑」であり、それかどうか不明の徳田政吉の墓碑は、「故陸軍歩兵二等卒 徳田政吉墓」でした。
南部由松の墓碑
 参考までに、上の写真が南部由松の墓碑で、下の写真が日置住吉の墓碑です。
日置住吉の墓碑

西万木墓地の小さな墓碑は西南戦争の墓碑ではないか2011/07/29

西万木墓地
 西南戦争の墓碑が少なくとも2柱(海津の南部由松と三尾里の日置住吉)、高島市で見つかりました。徳田政吉の場合は、まだ確定はできません。しかし、少なくとも、今と明治10年とがつながる窓が見つかったのです。
 西万木墓地を見て回ったときに、あまりの小ささに気になって仕方のない墓碑がありました。その話をします。
 まず、西万木の墓地を見回して、二つの特徴に気づきました。第一は、西万木地域の戦没者が多いのに、石造の戦死者の墓碑は少ないという事実です。墓地の大部分には、木製の墓標がならんでいました。中野墓地に比べるとその違いは歴然としていました。
 第二に、上の事実から、戦死者の墓碑はきっと特別な人たちだろうということです。つまり、墓標の風習を壊してでも、建てるべき理由があると地域が納得できる人たちにちがいないのです。
 そう思って戦死者の墓碑を眺め直しました。
 墓地の外周には、上の写真のように、戦死者の墓碑が垣根のように並んでいます。手前から砲弾型2基とその間に四角錐の頭をもつ通常の墓碑。その左手には、より大きな四角錐の頭をもった四角柱の墓碑が4柱ならんでいました。外周にはあと2柱ありました。ひとつは手前で隠れています。ごく最近のもののようすです。
 問題は、残り1柱。
 あまりの小ささに、存在に気づかない墓碑です。近い方の砲弾型墓碑のわきに写っている本体だけの墓碑です。
 財政的に余裕がないために、こういうごく小さな墓碑になったと考えられなくもありません。しかし、残りの墓碑がりっぱすぎるのに、あとからあえて石造でしかも異様に小さな墓碑を建立するとは思えません。したがって、砲弾型墓碑よりも古いものではないか・・・。私はその正面の形を観察しながら、これが西南戦争戦死者・岸嘉七の墓碑ではないかと思ったのです。
 次の記事で、具体的に、墓碑を観てみることにします。

西南戦争戦死者の記事~尾島五次郎(饗庭村熊之本出身)の場合~2011/07/29

西南戦争の戦死者の軍報告書は、どういうものなのか。尾島五次郎の死亡報告を見つけました。
滋賀県下近江国高嶋郡辻沢村農
大坂鎮台上歩兵第九連隊第二大隊第四中隊
明治七年第千六百九十五 二等卒 尾島五次郎
右明治十年三月十五日熊本県下肥後国山本郡横平山防戦之際傷ヲ受同年三月十九日竟ニ死去候也
大坂鎮台歩兵第九連隊第二大隊第四中隊事係
明治十一年八月十四日  陸軍伍長  岡直武

海津墓地に眠る「徳田政吉」は西南戦争の戦死者ではないか2011/07/28

「徳田政吉」の記事を見つける
 ひとつ前の記事の謎解きをしてみます。
 つまり、海津墓地にある砲弾型墓碑がある「徳田政吉」は、いったいどの戦争の戦没者なのか?
 アジア歴史資料センターで検索していて、見つけました。それが上の文書(C09083873100 )です。そのなかにある「徳田政吉」が海津墓地に眠る人物ではないのかと。「歩兵第九聯隊第二大隊第一中隊」に所属して、西南戦争に出征。田原坂で戦死した二等兵卒。
 ちなみに、陸軍歩兵第九聯隊は、西南戦争当時に大津市に営所をおいた聯隊ですし、滋賀県から徴兵した若者が入隊したところです。
 これが正しいとなると、海津墓地には、少なくとも、2柱の西南戦争の墓碑があることになります。南部由松と徳田政吉。
 しかし、ふたつの墓碑はあまりに形が違いますし、建立年代が異なるのです。それは、なぜ?
 上の写真は、現在の田原坂公園にある碑の一部です。滋賀県出身者のなかに、「徳田政吉」の名前がありません。『高島郡誌』の西南戦争戦死者名簿にもありません。
 ですから、自信がもてなくなりますが、駒井新吉のような例もあります。
 アジア歴史資料センターで見つけた資料の次のページには、実際、駒井新吉の名前があります。駒井新吉は、『郡誌』では高島郡出身者にはなっていませんが、別の資料によれば、高島郡出身者と記載されていて、田原坂の碑では滋賀県出身者になっています。片方、もしくは両方にないからといって一概に否定できません。
 西南戦争での戦死者かどうかは別にして、マキノ出身者であることはまちがいありません。現に墓碑があるから当然ですが(笑)。たとえば海津公園にある旧マキノ町の戦没者名簿には、掲載されています。下の名簿の下段の真ん中あたりに「徳田政吉」の名前が見えます。

西南戦争の墓碑は、高島市でまだ見つかるのか2011/07/23

「陸軍兵卒日置(由松碑)」右側面
 集落の共同墓地で見つかった二つの西南戦争の墓碑---「陸軍兵卒日置(住吉碑)」と「陸軍兵卒南部由松碑」---は、形も大きさも正面の碑文も、似ています。形でいけば、死亡者名が記述される正面が、ベースボール形(将棋の形)をしている(よく見るのは四角形)のが特徴だと思います。
 ですから、二つの碑は、同時期に、建立されたものと思われます。勝手な想像ですが、陸軍歩兵第九聯隊がおかれた大津市で241名の戦死者の西南戦争「紀念碑」が建立され、盛大な式典が行われたことと関係があるのではないかと。社会的に注目をあつめた式典に村落の中心人物や遺族が参列し、出身地でもぜひ記念すべき碑を建てようとなったのではないかと想像するのです。
 そうなると、残りの13名の墓碑も、実在するのではないかという期待が湧いてきます。
 八代さんは、高島市で集落の共同墓地をていねいに探しだし、寺院や土地の関係者にもききとって調査されています。高島、安曇川、今津、マキノあたりは、ほぼ完了したそうです。それでも、2基しか見つかっていません。
 日清戦争や日露戦争の場合は、これから記述することになりますが、ほぼすべての墓碑が見つかる(すでに八代さんが見つけている)可能性があります。しかし、残念ながら、西南戦争の墓碑は、これ以上、見つからないかも知れません。共同墓地以外のところに建立されているならば、別ですが。
 二つの墓碑に残されている碑文が手がかりとなるはずですが、写真の日置住吉碑(右側面)の場合はまだしも、南部由松碑は不可能かも知れません。

西南戦争の戦死者・南部由松の墓碑@高島市2011/07/23

西南戦争の戦死者・南部由松の墓碑@高島市
 『高島郡誌』では高島市出身者は西南戦争で15名が戦死したことになっています。その名簿は先にお見せしたとおりです。調べていくと、さらに増えてきます。たとえば、駒井新吉(北舟木)。名簿の整備はまたの機会にすることにします。
 マキノ町海津には、西南戦争で戦死した南部由松さんの子孫の家が実在します。八代さんとともに、訪問させていただきましたが、残念ながらお留守でした。コメントで八代さんがお書きになっていますが、海津の南部家は、「由」の字を名前につける習わしのようです。西南戦争で戦死した由松さんのほかに、もう一人、由松さんが実在し、その方は、91歳で先ごろお亡くなりになったとのことでした。こういう訳で、共同墓地には、「南部由松」さんの墓碑が二つ(当然、別人ですが)あるのです。
 ところで、マキノには有名な「清水(しょうず)の桜」があります。水上勉の小説のモデルともなった桜です。その桜が「滋賀の巨木」(たしかこういう署名でした)という本のなかで取り上げられていました。その写真には、私が探していた日露戦争期の「砲弾型墓碑」がいくつか写っていました。
 つまり、「清水の桜」は、墓地を飾る木だったのです。

 八代さんは、「清水の桜」の墓地で、西南戦争の戦死者・南部由松さんの墓碑を見つけました。上の写真がそれです(背後に、その桜の根元が写っています)。
 旧真田山陸軍墓地や官軍墓地にある西南戦争の墓碑は、所属部隊名、階級名、死亡年月日と死亡場所の記事が彫られていました。それに比べると、碑文は簡素なものです。正面に「陸軍兵卒南部由松碑」とだけあります。
 形をみると、墓の頂点は尖っていますが、ピラミッドのような四角錐ではありません。一般の家屋のように三角柱を横倒しにした形です。これは、三尾里の「日置住吉」の墓碑の場合と同じです。
 墓地との関係でいくと、日清戦争や日露戦争の戦病死者の墓碑とは比べものにならないほど地味であり、目立たない場所に置かれていました。この点が私には注目されました。
 由松の墓碑の隣には、「南部由造」の墓碑がありました。この方については、記事を改めて書きたいと思います。

西南戦争を受け継ぐ記憶~じゃんけん歌~2011/07/23

 私に西南戦争の体験記憶があるわけではありません。しかし、「一かけ、二かけ」という歌の形で、記憶にしみついています。私の歌詞の記憶は断片的ですが、「明治十年」と「西郷隆盛」という文言は覚えています。
ネットには次のような歌詞がありました。
一かけ 二かけて 三かけて 四かけて 五かけて 橋をかけ  橋のらんかん 手を腰に  はるか向こうを  ながむれば  一六、七の 姉さんが 花と 線香を手に持って  姉さん姉さん どこ行くの 私は九州鹿児島の 西郷隆盛娘なり  明治十年戦争で うたれて死んだ父親の お墓参りにまいります  お墓の前で手を合わせ なむあみだぶつと拝んだら  お墓の中からゆうれいが ふうわりふわりと じゃんけんぽん
 上の下線の部分ですが、私が覚えているのは、次のような歌詞です。
「私は、西郷隆盛娘です、明治十年三月三日(*史実では9月24日)切腹なされし父上のお墓参りに参ります」

 私は琵琶湖の畔の街に住んでいます。西南戦争の戦地(九州)とはずいぶん離れた土地です。しかし、この戦役を身近に感じ、その戦没者の記録と墓碑を探すことになったのは、幼いころの別の記憶があるからです。大津市の三井寺境内の御幸山には、巨大な「紀念碑」が存在します。めったに人が立ち寄らない場所にあり、荒れてはいますが、その威容は子ども心にも、強い印象をもたらしました。数年間にはじめて、それが西南戦争の碑であることを知りました。知った後に、もう一度見てみたいと思い、時間をかけて探した経過があるのです。
 碑は、大津市と西南戦争の関係を理解する入口になりました。

西南戦争の戦死者・日置住吉の墓碑@高島市2011/07/23

西南戦争戦死者・日置住吉の墓碑@高島市(三尾里)
 八代さんは、高島市で二基の西南戦争の墓碑を見つけられました。その一つが、日置住吉の墓碑で、高島市の旧安曇川町の三尾里の北区墓地にありました。この墓地は、田んぼの真ん中にあります。  遠目にも、戦死者の墓碑が数基ならんでいるのが見えました。そのもっとも目立つ墓碑が、日清戦争(1894~95年)での戦死者・日置卯市の墓碑。また、砲弾型の墓碑もありました。
 西南戦争(1877年)の戦死者・日置住吉の墓碑は、「陸軍兵卒」と日置という文字がかろうじて読める程度でした。しかし、古い階級名、文書での記録と埋葬地の一致、および墓碑の形状から、まちがいなく日置住吉の墓碑だと思います。

西南戦争の墓碑は高島市では少なくとも2基存在する2011/07/22

旧真田山陸軍墓地における日置住吉の墓碑
 私は、文書記録をもとに、西南戦争、日清戦争、日露戦争の墓碑を(主に高島市と大津市で)探しています。高島市では、この上ないエキスパートである八代さんのおかげで大きく進捗しました。
 案内されてはじめて、九州の官軍墓地や大阪の旧真田山陸軍墓地以外の土地(戦死者・戦病死者の出身地)で、西南戦争の墓碑を見ることができました。
 下は、「高島郡誌」に掲載されている高島市(旧高島郡)出身で西南戦争で戦死・戦病死した若者15名の名簿です。今回見ることができたのは、南部由松、日置住吉の墓碑です。ちなみに、南部由松の墓碑は、九州の官軍墓地にもありますし、日置住吉の墓碑は、旧真田山陸軍墓地にも見ることができます。上の写真がそれです。
 ①剣熊村 2名 谷口筆松(山中)、谷口由造(野口)
 ②海津村 1名 南部由松(海津)
 ③西庄村
 ④百瀬村 1名 中川寅吉(知内)
 ⑤川上村 1名 大森六蔵(日置前)
 ⑥今津村 1名 古我梅治郎(大供)
 ⑦三谷村 
 ⑧饗庭村 1名 尾島五次郎(熊之本)
 ⑨新儀村 1名 清水清五郎(藁園)
 ⑩本庄村
 ⑪青柳村 1名 中井藤吉(青柳)
 ⑫安曇村 2名 岸嘉七(西万木)、日置住吉(三尾里) 
 ⑬広瀬村 1名 井上亀吉(上古賀)
 ⑭水尾村
 ⑮大溝村 1名 内田幸吉(永田)
 ⑯高島村

高島市で西南戦争戦死者(南部由松)の墓碑が確認される2010/12/21

「鹿児島縣賊徒征討」と刻まれた墓碑
大津市と高島市で探していましたが、西南戦争を形で残している墓碑は、大津市御幸山の「紀念碑」以外は存在しないんじゃないかとあきらめていました。しかし、ついに、やつしろさんが確認されました。
高島郡海津村出身の「陸軍兵卒南部由松碑」
とてもうれしく思います。
私も見てみたいです。

現地の七本官軍墓地や旧真田山陸軍墓地では、西南戦争は「鹿児島縣賊徒征討之役」と刻まれています。南部由松の墓碑には、こういう名称が刻まれているのでしょうか?

                            


BIN★「この記なんの記」ブログ情報 August 12 , 2011



 西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。

戦争にかかわる碑

  ■ 忠魂碑・慰霊碑

    ○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など

    ○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)

    ○ 大津市南部の忠魂碑

民間墓地の戦没者

 □ 滋賀県の西南戦争の戦没者

 □ 高島市(高島郡)の戦没者

  ■ 西南戦争(西南之役) 1877年

   ● 戦病死者名簿

      *高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)

  ■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年

   ,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)

      『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。

  ■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年

   ● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)

      ○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿

    ○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。

 公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
 □ ブロック 埋葬者名簿

     陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある

 □ ブロック 埋葬者名簿

     日清戦争期に戦病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

  ■ 大津市作成の名簿順

  ■ あいうえお順

     日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治8年から11年までに病死した下士官と
          兵卒の墓碑が37基


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
         すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
          合計98基。すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)

 □ 西南戦争の戦死者

 □ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿

 □『大津市志』

 □ 滋賀郡膳所町

 □ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)